日本はなぜ近代化を達成できたのか(2)

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 近代化を目指した明治政府は、欧米諸国に倣った中央集権国家を創り上げました。しかし、その実態は、日本国の創成期に出現したものと同様の、天皇を中心とする中央集権国家でした。

 ではなぜ、日本社会において、国家の創世期に起こった出来事が理想視され、明治維新の時代に復活することになったのでしょうか。

 

生まれてから5年間の経験

 この理由を、精神分析を用いて検討してみましょう。
 フロイトは、『モーセ一神教1)において次のように述べています。

 

 「生まれてから五年間の経験は人生に決定的な影響を与え、その後の経験はこれに抵抗することなどできない。(中略)この体験され理解されなかった事柄は、後年になって何らかのときに強迫的衝動性を伴って彼らの人生に侵入し、彼らの行動を支配し、彼らに否も応もなく共感と反感を惹き起こし、しばしば、理性的には根拠づけられないかたちで彼らの愛情選択まで決定してしまう」(『モーセ一神教』188-189頁)

 

 個人の成育史において、自我が形成されるまでの最初期の体験は、意識され、理解されることはありません。自我の形成は、それまでに存在していた欲動やそれを呼び起こす経験を、他者からの禁止によって無意識へと抑圧させられることによって成立します。そして、そのことによって初めて、個人は社会の掟に参画し、社会的存在となり得ます。

 しかし、無意識へと追いやられたものは消滅したわけではなく、無意識のうちに残存し続けます。無意識の中にあるものは、その成り立ちからの性質上、意識できないものであるからこそコントロールできないのであり、個人の精神を揺り動かし、行動までも支配してしまうのです。

 

集団でも同じことが起こる

 フロイトは、個人の心理に認められることと同様の機序が、集団の心理においても成立すると指摘しています。

 

 「伝承に関する心理学的事態にあっては、個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧であって、集団のなかにおいても過ぎ去った出来事の印象は無意識的な記憶痕跡のなかに保存され続けているのだ、と私は考えている」(『モーセ一神教』142頁)

 

 ここでいう「無意識的な記憶痕跡」とは、抑圧されることによっていったん忘却された記憶です。つまり、集団においても無意識へと抑圧されたものは消滅するのではなく、個人の場合と同様に、「集団の無意識」の中に残存します。そして、「無意識的な記憶痕跡」は、集団と個人の間でほとんど完璧に一致した状態で、無意識の中に存在し続けます。

 さらにフロイトは、「無意識的な記憶痕跡」は「人間に固有の太古の遺産」であり、それこそが人間にとって動物の本能に対応するものだとも指摘しています。

 

無意識の記憶はなぜ伝承されるのか

 では、「無意識的な記憶痕跡」は、なぜ人々の無意識の中に存在し続けるのでしょうか。その理由を、フロイトは次のように述べています。

 

 「直接的伝達は外部からやってくるすべての他の情報と同じように傾聴されたり判断されたり、場合によっては拒絶されたりするだろうが、論理的思考という拘束からの解放という特権的な力を獲得したためしは一度としてなかった。伝承とは、回帰してくるにあたって集団を呪縛してしまうほど強力な現実的影響力を発揮する前に、必ず一度はまず抑圧される運命に服さなければならず、無意識のなかに滞留している状態を耐え抜いてこなければならないものなのである」(『モーセ一神教』153頁)

 

 言葉や理論による直接的な伝達は、論理的、意識的であるがゆえに、傾聴され、理解される反面、場合によっては変更されたり拒絶されたりする運命をたどります。しかし、抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに、論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されます。こうした伝承こそ、集団や民族、そこに属する個人の特質を形成する重要な要素となるのです。

 

日本の創成期の記憶

 日本において、国家の創世期の記憶は人々から忘れ去られていました。この記憶が決定的に忘却されたのは、先にも述べた承久の乱によって天皇が実権を失った時、つまり、日本に本格的に武家政権が誕生した時でしょう。「日本は、神の子孫である天皇によって創設された国家である」という記憶は、武家が実権を握るために、集団の無意識へと抑圧されました。しかし、それは完全に失われてしまったのではなく、フロイトの指摘するように、集団の「無意識的な記憶痕跡」として伝承されてきました。

 

記憶が蘇るとき

 この抑圧されてきた記憶痕跡が蘇るのは、どのような場合でしょうか。フロイトは、「出来事の新たな現実的反復によって、忘却された記憶痕跡が喚起される」(同上152頁)と指摘しています。つまりそれは、その記憶自体が誕生したのと近似の状況が繰り返されたときです。
 近代化を達成したヨーロッパ諸国は、17世紀から18世紀を通じて競うように世界を植民地化して行きました。植民地化はアジアにも及び、東アジアの激動を告げるアヘン戦争(1840-42年)の情報が、江戸幕府に強い衝撃を与えていました。

 19世紀にペリーが来航した当時の日本には、危機的な状況が刻一刻と迫っていました。そのため維新後の明治政府は、富国強兵政策のもと、産業の振興と軍事力の強化に専心しなければなりませんでした。そうしなければ中国やインドのように、半植民地化または植民地化されてしまう危険性が高かったからです。このときの日本は、まさに建国以来最大の危機に直面していたと言っても過言ではないでしょう。

 

創成期の危機的状況

 こうした国家の危機的な状況に際して、日本文化にかつて存在した古代の記憶が蘇ることになりました。それは7世紀に始まる、日本という国家の創世期の記憶でした。
 当時の日本にも、同様の危機的な状況が存在していました。大陸には、唐という強大な国家が出現しました。唐は、九州と目と鼻の先にある朝鮮半島にまで影響力を及ぼすようになっていました。

 中大兄皇子百済の復興を援助するために大軍を送りましたが、白村江の戦い(663年)で、唐・新羅の連合軍に大敗を喫しました。危機感を強めたヤマト政権は、諸豪族との連携を強めて国防に専念する一方で、唐の制度を模倣して律令制度を構築しました。そしてヤマト政権の大王(おおきみ)は、新羅の国王よりも優位で、中国の皇帝と対置する名称として「天皇」号を名乗り、それまでの「やまと」や「倭(わ)」に替えて「日本」という国号を定めたのです。
 これらの事実が唐の皇帝に認知されたことによって、日本は国家としての独立を果たすことに成功しました。このときに初めて、日本に国家としてのアイデンティティーと、日本国民としてのナショナリズムが芽生えたのだと考えられます。

 

伝承されてきた記憶の復活

 明治維新前後の国家の危機的な状況に際して、集団の無意識に伝承されてきたこの時の記憶痕跡が蘇りました。この記憶痕跡の出現は、明治以降の日本人を根底から支配し、理性的には根拠づけられないかたちで日本人の行動選択まで決定しました。そのため、明治日本は「擬似古代国家」として再出発することになり、「記紀神話」に支えられた「天皇を中心とする近代国家」が誕生したのです。(続く)

 

 

文献

1))フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.