共産主義社会にはなぜ独裁者が生まれるのか(3)

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 前回のブログでは、無神論者となってユダヤ教を否定し、さらには自らがユダヤ人であることすら忘れてしまったかのようなマルクスの言動と、それにも拘わらず彼の理論の深層にユダヤ教的な内容が垣間見られることの矛盾を検討しました。この矛盾はなぜ起こったのでしょうか。

 

無意識が与える影響

 ここで、フロイト精神分析がわれわれに有用な視点を与えてくれます。

 フロイトが人間の無意識の存在に注目し、無意識が人間の行動に及ぼす作用について言及したことは周知の通りです。『モーセ一神教1)において、フロイトは次のように述べています。

 

 「生まれてから五年間の経験は人生に決定的な影響を与え、その後の経験はこれに抵抗することなどできない。(中略)この体験され理解されなかった事柄は、後年になって何らかのときに強迫的衝動性を伴って彼らの人生に侵入し、彼らの行動を支配し、彼らに否も応もなく共感と反感を惹き起こし、しばしば、理性的には根拠づけられないかたちで彼らの愛情選択まで決定してしまう」(「モーセ一神教」188-189頁)

 

 個人の成育史において、自我が形成されるまでに抑圧された最初期の体験は、意識され、理解されることはありません。自我が形成されるとは、それまでに存在していた欲動やそれを呼び起こす経験を、他者からの禁止によって無意識へと抑圧させられることによって成立します。そして、そのことによって初めて、個人は社会の掟に参画し、社会的存在となることができます。

 しかし、無意識へと追いやられたものは消滅したわけではなく、無意識のうちに残存し続けています。無意識の中にあるものは、その成り立ちからの性質上、意識できないものであるからこそコントロールできないのであり、個人の精神を揺り動かし、行動までも支配してしまうのです。

 

集団に伝承される無意識

 この理論は、マルクスの人生や、彼の対人関係を分析するために有用かも知れません。しかし、ここでの分析の主眼は、マルクスの行動や愛情選択に対してではなく、彼の理論になぜユダヤ教の影響が認められるかです。その探求のためには、彼のユダヤ民族としての無意識にまで分析の範囲を広げる必要があります。
 さらにフロイトの理論を追ってみましょう。フロイトは、個人の心理に認められることと同様の機序が、集団の心理においても成立すると指摘しています。

 

 「伝承に関する心理学的事態にあっては、個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧であって、集団のなかにおいても過ぎ去った出来事の印象は無意識的な記憶痕跡のなかに保存され続けているのだ、と私は考えている」(「モーセ一神教」142頁)

 

 ここでいう「無意識的な記憶痕跡」とは、抑圧されることによっていったん忘却された記憶です。つまり、集団においても無意識へと抑圧されたものは消滅するのではなく、個人の場合と同様に、「集団の無意識」の中に残存します。そして「無意識的な記憶痕跡」は、集団と個人の間でほとんど完璧に一致した状態で、無意識の中に存在し続けるのです。

 さらにフロイトは、「無意識的な記憶痕跡」は「人間に固有の太古の遺産」であり、それこそが、人間にとって動物の本能に対応するものだとも指摘しています。
 では、「無意識的な記憶痕跡」は、なぜ人々の無意識の中に存在し続けるのでしょうか。その理由を、フロイトは次のように述べています。

 

 「直接的伝達は外部からやってくるすべての他の情報と同じように傾聴されたり判断されたり、場合によっては拒絶されたりするだろうが、論理的思考という拘束からの解放という特権的な力を獲得したためしは一度としてなかった。伝承とは、回帰してくるにあたって集団を呪縛してしまうほど強力な現実的影響力を発揮する前に、必ず一度はまず抑圧される運命に服さなければならず、無意識のなかに滞留している状態を耐え抜いてこなければならないものなのである」(「モーセ一神教」153頁)

 

 言葉や理論による直接的な伝達は、論理的、意識的であるがゆえに、傾聴され、理解される反面、場合によっては変更されたり拒絶されたりする運命をたどります。しかし、抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに、論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されます。こうした伝承こそ、集団や民族、そこに属する個人の特質を形成する重要な要素となるのです。

 

マルクスの無意識

 ここでもう一度、マルクスに話題を戻しましょう。
 両親が共にラビの家系であったマルクスの家族には、ユダヤ民族に存在する「無意識の記憶痕跡」が伝承されてきたでしょうし、マルクス自身の無意識にもこの「記憶痕跡」は存在したでしょう。マルクスの娘エレナの場合には、この「無意識の記憶痕跡」が意識化されているため、彼女は誇りを持って自分がユダヤ人であると表明できたのです。
 これに対してマルクスは、前回のブログで述べたようにユダヤ教を認めておらず、さらには自らがユダヤ人であることすら忘れてしまったかのような言動を示していました。つまりマルクスには、ユダヤ教からの影響や自らがユダヤ人であること(少なくともユダヤ民族の伝承を受け継いでいること)が充分に意識化されていませんでした。

 そのため彼には、ユダヤ民族に伝承されてきた「無意識的な記憶痕跡」を論理的に変更したり、拒絶したりすることができなくなっています。このことは、ユダヤ民族の「無意識的な記憶痕跡」が、マルクスの言動に知らず知らずのうちに影響を与え、彼の思想に論理的な思考を超えた影響をもたらした可能性を示唆しています。
 「無意識的な記憶痕跡」こそ、集団や民族、そこに属する個人の特質を形成する重要な要素になるとフロイトは指摘します。「無意識的な記憶痕跡」は、それが意識化されていない限り、その存在を否定しようとも、いや否定しようとするほど集団や個人の行く末を束縛してしまいます。マルクスが宗教を、そしてユダヤ教の影響を否定しようとすればするほど、逆にユダヤ教の束縛から逃れることはできなくなりました。

 それゆえマルクスは、ユダヤ教による「無意識的な記憶痕跡」を純粋に受け継ぐ者となりました。若き日に「ユダヤ教からの人類の解放」を唱えたマルクスは、皮肉にも「ユダヤ教を人類に伝道する」役割を担うことになったのです。
 モーセは、エジプトで奴隷として使役されていたイスラエルの民を、神から選ばれた民として脱出させました。それがユダヤ民族の始まりであり、モーセは虐げられたユダヤ民族の救世主となりました。同じようにマルクスは、奴隷のごとく使役されていた労働者を、将来において正しい社会を樹立する役割を担うプロレタリアートと規定し、彼らを救済するための理論を構築しました。ここから無産の労働者がプロレタリアートとして新しい地位を与えられたのであり、マルクスは、プロレタリアートを「約束の地」に導く救世主になったのです。

 

神の消失と唯物史観

 ところで、マルクスの思想とユダヤ教選民思想との間には、決定的に異なる部分も存在しています。それは、神の存在の有無です。ユダヤ教選民思想では、ユダヤ民族を世界の支配者にするのは、全能の神ヤハウェでした。神から与えられた契約を忠実に守ることによってユダヤ民族からは救世主が現れ、その救世主によって民族が救済されるのです。
 一方、マルクスの思想においては、彼が無神論者であり、彼の思想が唯物史観と呼ばれているように、思想の基本には神の概念を排除した唯物論が据えられています。マルクスは、唯物史観に基づいて、政治や社会の仕組みといった上部構造はそれ自体で変化するのではなく、経済構造や生産手段といった下部構造によって規定されるのだと説明しました。さらに、『資本論』によって資本主義経済の矛盾を分析し、社会主義への移行を理論的に裏づけました。マルクスの思想は、これらの理論によって、宗教とは異なる新しい時代の社会科学として位置づけられました。
 しかし、マルクスの思想を社会科学たらしめている唯物史観は、成熟した資本主義社会から革命が起こらなかったことからも分かるように、現実の社会の行方を正しく予測できませんでした。マルクスの思想が世界に影響を与えたのは、ユダヤ教から引き継いだ宗教的な側面でした。何よりもまずマルクス主義は、現実の生活にあえぎ将来に希望を抱けない民衆にとって、夢と希望を与える新たな神話として受け取られました。

 つまりマルクスは、民衆を輝かしい未来へと導いてくれるメシアであり、イスラエルの民を導いたモーセの後継者だったのです。(続く)

 

 

 

文献

1)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.