皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(11)

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 前回のブログでは、明治維新に生じた天皇の役割の変化によって、日本人の精神世界に、さらには日本人の狂気にどのような変化がもたらされたかを検討しました。

 今回以降のブログでは、大東亜戦争の敗戦後にもたらされた天皇の役割の変化によって、日本人の精神に、そして日本人の狂気にどのような変化がもたらされたのかを検討したいと思います。

 

GHQによる支配

 敗戦によって日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれることになりました。GHQによる日本の占領は、1945年から6年8ヶ月に渡って続けられました。この間に日本は、まず軍事機構と国家警察を解体され、極東国際軍事裁判所で東条英機らいわゆるA級戦犯28名が戦争責任を問われて刑に処されました。並行して憲法改正が行われ、GHQの原案をもとに日本国憲法が制定されました。この新たな憲法は、主権在民象徴天皇制戦争放棄基本的人権の尊重など、明治憲法の内容を一新するものでした。
 新憲法のもとで政治の民主化が図られ、続いて資本財閥の解体、そして農地改革が行われました。内政は日本政府が担ったもののGHQの影響下に置かれ、日本政府は外交権すら持っていませんでした。

 このように日本は、GHQによってそれまでとはまったく異なった国家に改造されたのです。

 

天皇人間宣言
 新憲法発布に先立つ昭和21(1946)年の元旦に、いわゆる「天皇人間宣言」が盛り込まれた詔書が発表されました。大東亜戦争時には「現人神」として、何人たりとも犯すことのできない神性をまとっていた天皇は、敗戦によって象徴的な存在、そして人間としての存在に戻されたのです。
 ところで、もともと象徴的な存在であり、かつ生身の人間であった天皇が、唯一、絶対の神の役割を担わなければならなかった点において、国家神道は擬似一神教的な宗教であったと考えられます。この国家神道を基盤にして、明治以降の日本は、天皇を頂点に据えた擬似一神教が支配する社会として形づくられてきました。

 これに加え、近代西洋文化や欧米諸国の行動様式が取り入れられることによって、日本社会は発展を遂げました。支那事変、大東亜戦争を経て、日本おける国家神道の役割はさらに大きくなり、天皇の神性はいっそう高められました。そして、大東亜戦争の時代に限って、国家神道一神教と呼びうる宗教になったのです。
 敗戦によって天皇が現人神から人間に戻ったという事実は、国家神道という宗教の終焉を意味していました。国家の中心を成す概念の突然の消失は、国家神道という擬似一神教が支えてきた社会に、混沌と崩壊をもたらす可能性を生じさせました。

 たとえれば、それはキリスト教社会からキリスト教が消失する事態や、社会主義国家からマルクスレーニンの教義が失われる事態と同様の危険性を孕んでいました。しかし、現実には日本が無秩序状態となり、社会が崩壊する危険性は回避されました。それは、日本社会に、天皇に代わる新たな支配者が現れたからです。その支配者とは、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。

 

マッカーサーという支配者
 昭和22年9月27日に、昭和天皇マッカーサーが初めて会見を行いました。この会見の写真には、天皇マッカーサーが並んで写されていました。マッカーサーの横で正装し、緊張した面もちでたたずむ天皇の姿からは、もはや神の威光を窺い知ることはできませんでした。一方、天皇を見下ろすような長身でリラックスして立つマッカーサーは、まるで天皇の庇護者のようでした。この写真は、支配者の移行を象徴的に示す効果を狙って発表されました。写真が新聞に掲載されると、たちまち日本中に大きな反響を呼び起こしました。

 マッカーサーは、戦後日本の絶対的な支配者でした。そのことは、マッカーサー自身もはっきりと自覚していました。彼は、自身の回顧録で以下のように述べています。

 

 「私は八千万を越える日本国民の絶対的な支配者となり、日本がふたたび自由諸国の責任ある一員となる用意と能力と意志を示すまでその支配権を維持することとなったのである」(『「マッカーサー大戦回顧録[下]』1)179頁)

 

 そして、占領施策を行うマッカーサーは、日本人の保護者であると自認し、保護者としての深い責任感すら感じていました。

 

 「私が一貫して、時には自分の代表する諸大国に反対してまでも、日本国民を公正に取り扱うことを強調していることがわかってくるにつれて、日本国民は、私を征服者ではなく、保護者とみなしはじめたのである。私は、これほど劇的な形で私の責任下に置かれた日本人に対して、保護者としての深い責任感を感じていた」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』185頁)

 

 マッカーサー自身が語っているように、彼は日本国民の絶対的な支配者であり、保護者でした。マッカーサーと日本人は、まさに圧倒的な力を持った父親と子どもの関係にあったのです。

 戦後の日本人はこの関係を受け入れ、自分自身を「マッカーサーの子」と呼ぶことが習慣のようになっていました。マッカーサー解任が発表された翌日、朝日新聞は次のような社説を掲載しています。

 

 「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」(『敗北を抱きしめて(下)』2)403頁)

 

 このように日本人は、日本の復興を親切に導き、「子供の成長を喜ぶように」激励し続けてくれたマッカーサーに対して、最大限の感謝の言葉を贈ったのです。

 

日本人の欺瞞

 マッカーサーに対する感謝は、実は欺瞞に満ちたものでした。日本人は、アメリカに無理矢理開国させられたうえに、復讐を誓った大東亜戦争で惨敗し、さらには屈辱的な占領を受けることになりました。

 この屈辱的な現実をそのまま受け入れることは、到底できることではありません。そこで日本人は、戦争の責任を一部の軍人や政治家に負わせる戦勝国の政策を受け入れたうえで、自らを子供の立場に置き換え、征服者であるマッカーサーとの間に親愛感情を沸き立たせました。そして、この親愛感情を拠りどころとし、占領政策を自ら進んで誠実に受け入れる態度を示すことによって、現実の屈辱感から目をそらしていたのです。

 

12歳の少年
 しかし、この欺瞞は、もろくも崩れ去ることになりました。それは、アメリカに帰国した後に行われた上院合同委員会で、マッカーサーが発言した内容を伝え聞くことによってもたらされました。
 日本人は占領軍の下で得た自由を今後も擁護して行くのか、日本人はその点で信用できるかと聞かれて、マッカーサーは次のように答えました。

 

 「もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導をうけるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、われわれが45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい規範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです」(『敗北を抱きしめて(下)』406頁)

 

 マッカーサーの発言の主旨は、日本が近代文明の尺度で言えばまだ未成熟な段階にあり、「柔軟で新しい考えを受け入れることができる状態」だったからこそ占領政策は非常に上手くいったのであり、その結果として占領後の日本人はドイツ人よりも信用できるようになったと主張することにありました。ところが、この発言においてはからずも彼が、日本人の成熟度は「12歳の少年といったところ」であり、「指導を受けるべき状態」であったと考えていたことが露呈してしまったのです。
 これに最も反応を示したのは、日本人でした。日本人はそれまで、日本の復興に尽力したマッカーサーに対して多大の尊敬と信頼を寄せていました。彼が解任されて帰国の途につく際には、多くの日本人が感謝の念を抱き、英雄として彼を見送りました。しかし、「like a boy of twelve」という言葉を伝え聞いた日本人は、マッカーサーが自分たちをこのように捉えていたことに愕然とし、自尊心を打ち砕かれ、彼に対して甘い幻想を抱いていたことに恥じ入りました。
 こうして日本人は、マッカーサーから屈辱的な占領政策を受けていたという現実に、初めて直面せざるを得なくなりました。この時から英雄マッカーサーの記憶は日本人の意識から急速に失われ、無意識の中に抑圧されて行くことになったのです。

 

アメリカに黙従する日本
 マッカーサーの記憶が抑圧された結果、彼が日本社会に与えた影響の多くが、無意識の記憶痕跡となって日本人の心の底で生き続けることになりました。抑圧され、無意識の中に滞留している状態を耐え抜いた記憶は、意識されないがゆえに論理的思考という拘束から解放され、そのままの状態で次世代へと伝承されるというフロイトの定式に従えば、マッカーサーが与えた影響は、戦後の日本と日本人の特質を形成する重要な要素になりました。日本人はマッカーサーを意識しないがゆえに、彼から受けた無意識の記憶痕跡から影響を受け続けることになったのです。
 マッカーサーが残した記憶痕跡のうち、最も重要なものは、日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にあると考えられたことです。

 マッカーサーの「日本人は12歳」発言は、精神面での優越性を心の支えとしてきた日本人の自尊心を決定的に喪失させました。この状態から立ち直るためには、「日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にある」という考えを無意識の中に抑圧しなければなりませんでした。そのうえで、自らの力で復興の途を切り開き、日本文化の優越性を世界に対して実証しなければなりませんでした。「奇跡の復興」と言われた戦後日本の経済的発展は、敗戦と占領による屈辱感を解消し、日本人の自尊心を取り戻すための涙ぐましい努力の賜物でした。
 その結果、日本は、アメリカに次ぐ世界第二位の経済大国に成長しました。しかし、この成功の陰で、無意識の記憶痕跡は日本人の行動に影響を与え続けました。アメリカに強圧的な態度を示されるとき、日本社会の無意識の記憶痕跡は頭をもたげました。また、アメリカ文化と関わることそれだけでも、無意識の記憶痕跡は日本人の劣等感を刺激しました。

 こうして、敗戦と占領によって作られた無意識の記憶痕跡は、日本人の精神を蝕み続けたのです。(続く)

 

 

文献

1)ダグラス・マッカーサー(島津一夫 訳):マッカーサー大戦回顧録[下].中公文庫,東京,2003.
2)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.