アメリカはなぜ自由と正義を主張するのか(5)

f:id:akihiko-shibata:20180214013500j:plain

 

 豊かになったアメリカ合衆国は、戦いと無縁になったわけではなく、アメリカ国民およびアメリカ本土が戦渦にさらされる危険が生じた際には、自由と民主主義を守るために自国の外でなら紛争に介入するという外交方針をとるようになりました。そして、米西戦争第一次大戦後、第二次大戦と戦争に参加し、圧倒的な戦力と激しい攻撃欲動で他国を壊滅させました。

 さらにアメリカ合衆国は、同様の行動様式をとって戦争に介入して行きます。

 

キューバ危機

 米ソは、二つの世界大戦を経て生き残った最後の超大国でしたが、一神教文化を持つ社会は、最終的には世界中を一つにまとめ上げるまでは安定しないという構造を有しています。そのため両国が最終的な戦争を行い、その勝者が世界を一つの価値基準のもとに統一する日が訪れるのは、遠くないことのように思われました。
 1962年の10月に、ソ連キューバにミサイル基地を建設したことを確認したアメリカは、海上封鎖をしてミサイルの搬入を阻止しました。そして、キューバからのミサイル攻撃に対して、ソ連に報復するという強硬手段に訴えようとしました。ベルリンの壁が築かれて1年後に起こったこの「キューバ危機」は、米ソ間の緊張が最高潮に達し、両国の武力衝突がまさに起こらんとする瞬間でした。ここに世界は、米ソの直接衝突による核戦争の恐怖にさらされることになったのです。
 しかし、フルシチョフはミサイル撤去の見返りに、ケネディからキューバ不侵攻の約束を取りつけて、世界戦争の危機は回避されました。以後、米ソ間の平和共存への道が開かれ、翌63年には両首脳間に直接電話(ホットライン)が設置され、また部分的核実験停止条約も調印されました。
 米ソ間に武力衝突が起こらなかった直接の原因は、両国が保有した膨大な核兵器の存在にあったと考えられています。核兵器の持つ根絶的な破壊力のために、全面核戦争は回避したいという当然の思惑が両国には存在しました。これ以降、絶対的な武力の均衡のうえに、米ソ両国が直接武力衝突を行わないで対立を続けるという、冷戦時代が訪れました。

 

自由主義を脅かす存在

 ただし、核兵器の存在以外にも、両国が直接武力衝突を行えない理由がありました。宗教・文化的な側面からみれば、その理由は次のようなものでした。
 アメリカは、国家の理念として自由主義を掲げていました。ところで、自由主義の自由とは、それ自体で定義づけられるものではありません。何らかの束縛があって、初めて自由は束縛からの自由として意味を成すのです。したがって、自由そのものを自由主義国家の根本原理として据えることはできません。そこで、自由主義自由主義たらしめるためには、自由を脅かすものの存在を探し出さなければなりませんでした。
 第二次大戦では、民族主義を掲げたヒトラー大東亜共栄圏を目指した日本の軍部が自由主義の迫害者と見なされました。第二次大戦後になって、自由を迫害する対象として選ばれたのが共産主義でした。

 1940年代の後半から50年代にかけて吹き荒れたマッカーシズムの嵐は、このことを示す象徴的な出来事でした。上院議員マッカーシーを中心としたヒステリックな「赤狩り」によって、進歩的知識人や芸術家、演劇・映画関係者、ニューディール派の政治家などが糾弾され、アメリカのリベラル派は大打撃を被りました。その一方でアメリカは、共産主義の迫害から自由を守る国家として、その存在意義を再確認しました。
 つまり、共産主義を掲げるソ連は、アメリカが自由主義の意義を確認するために不可欠な存在でした。アメリカの自由主義が崩壊し、アメリカ社会が無秩序の状態に至ることを避けるためにも、ソ連という国家を消滅させることはできなかったのです。

 

ヴェトナム戦争

 さて、こうして米ソの直接対決を回避した世界の動きは、その後にどのような展開を見せたのでしょうか。
 自由主義思想の根源的な理由から、ソ連という敵国の存在が必要であったアメリカは、部分的に共産主義と戦うという方針転換をはかりました。つまり、共産主義勢力と一部地域で戦うことによって、自由主義の存在意義を鮮明にしようとしたのです。
 アメリカは東南アジア政策において、南ヴェトナムの共産化を阻止することを最大の課題にしていました。このころ、インドシナ半島の敗北は、フィリピンから日本に至るアメリカの防衛ラインの崩壊に繋がるという「ドミノ理論」が、声高に語られるようになりました。
 まさにこうした状況下で、トンキン湾事件は起こりました。

 1964年8月にアメリカ国防省は、トンキン湾の公海上で、海軍駆逐艦が国籍不明の魚雷艇から攻撃を受けたと発表しました。これを受けてアメリカ議会は、「いかなる武力攻撃をも撃退し、侵略を阻止するために必要な一切の措置をとる権限」を、圧倒的多数でジョンソン大統領に与えました(後にトンキン湾事件は、アメリカ軍と南ヴェトナム軍によって計画されたものであることが明らかになりました)。トンキン湾事件は、メイン号の爆沈、パールハーバーの奇襲に続く、アメリカの戦意高揚政策として起こされたのです。
 議会から特別権限を与えられたジョンソン大統領は、翌65年の2月から北ヴェトナムへの爆撃を開始しました。米軍の派遣兵力は69年末には54万人に達し、北ヴェトナムに投下された爆弾の量は、第二次大戦中にドイツと日本に投下された爆弾の合計を上まわりました。

 

初めての敗戦

 しかし、ソ連と中国の援助を受けた北ヴェトナムは屈強な抵抗を続け、アメリカの予想に反して戦争は泥沼化して行きます。そして、米軍の行った解放区住民に対する大量虐殺や、近代兵器を駆使した枯葉作戦や掃討作戦が世界に報道されるに及んで、共産主義の侵略から自由主義を守るというアメリカの正義は揺らぎ始めました。

 さらに膨大な戦費によって財政が悪化し、アメリカ兵の戦死者が増え続けるなか、アメリカ国内では反戦運動が急速に高まりを見せました。遂にアメリカ政府は1973年の1月に開催されたパリ和平協定で、米軍の撤退を表明しました。こうしてヴェトナム戦争は、アメリカが建国以来初めて体験する敗戦となったのです。

 ところで、アメリカはヴェトナム戦争で、なぜ敗北を喫したのでしょうか。それはヴェトナム戦争が、「絶対戦争」でなく「限定戦争」だったからです。

 

絶対戦争と限定戦争

 アメリカ軍は、敵の完全な打倒を目的とする絶対戦争では無類の強さを発揮します。そもそも絶対戦争とは、一神教文化を持つ国家が、神の代替者である指導者に率いられて行う戦争であると考えられます。

 絶対戦争では、全能の神ヤハウェに導かれたイスラエルの民の戦いのごとく、徹底した虐殺と略奪が繰り返されます。アメリカが同じ一神教文化を持った国家と全面戦争に至った際に、この絶対戦争の行動原理は発揮されます。しかも、アメリカ社会の深層には、抑圧者から自由を守るという正当化のもと、破壊や殺人の欲望が自由に発現される行動原理が存在しています。これらの要因に最新の軍事力が加わったとき、アメリカ軍は、敵兵だけでなく敵国民の完全な打倒を目指して破壊と殺戮を繰り返す、史上最強の軍隊となるのです。
 ところが、ヴェトナム戦争では、戦略や戦闘の規模は曖昧で限定されたものでした。北ヴェトナムは、大国アメリカが絶対戦争を挑む相手としては小国すぎました。「共産主義の侵略から自由主義を守るため」という正当化はなされましたが、侵略を行っているのはどうみてもアメリカの方でした。こうしてヴェトナム戦争では、絶対戦争の行動原理も、破壊や殺人に対する欲望も充分に発現される機会が失われました。
 このような状況下のアメリカ軍は、戦いの目的も戦い方も定まらない平凡な軍隊に成り下がってしまいます。そのためアメリカ軍は、国を挙げて長期のゲリラ戦を展開する北ヴェトナム軍を前に、兵士と兵器を消耗するだけの戦いを強いられました。そして、部分的に発現される破壊や殺人に対する欲望は虐殺や非人道的な作戦を生み、しかもこれらは勝利に貢献しないばかりか、内外からの非難を巻き起こす結果しかもたらしませんでした。こうしてアメリカは、ヴェトナム戦争において、何の成果も挙げられないまま敗北に追い込まれたのです。

 

モンロー主義への回帰

 ソ連が崩壊した後のアメリカは、世界で唯一の超大国になりました。アメリカ社会が持つ一神教文化によって、世界を一つにまとめ上げる日が遂に訪れたかのように思われました。
 しかし、事態はそのように単純には進展しませんでした。米ソの冷戦が終結し、自由主義共産主義というイデオロギーの対立軸が消失すると、二分されてきた世界からは、抑圧を解かれたさまざまな問題が噴出しました。ソ連が消滅して旧共産圏が完全に崩壊すると、東欧ではいたるところで民族紛争が起こり始めました。旧ユーゴスラヴィアで続いた大規模な内戦が、その代表例です。
 アジアでは、中国と台湾の対立や北朝鮮問題があり、インドとパキスタンの核保有問題も起こりました。アフリカ各国では、民族間の対立による紛争や虐殺、そして難民問題が生じました。
 しかし、唯一の超大国となったアメリカは、これらの問題に対して積極的な外交姿勢を示さず、(湾岸戦争を除けば)曖昧な態度に終始しました。旧共産圏の軍事的脅威が消えたあと、世界を一つにまとめ上げるチャンスを、なぜアメリカはみすみす棒に振ってしまったのでしょうか。
 冷戦の終焉と共に、アメリカにはモンロー大統領以来の伝統的な孤立主義の風潮が復活していました。共産主義諸国の崩壊によって、自由主義に対する信頼が一時的に蘇り、アメリカ国民は失いかけていた自信を取り戻しました。そのことは、好調な経済活動や膨大な財政赤字の解消にも繋がり、アメリカ社会を再び理想の社会と見なすことを可能にしました。自国の存在を脅かす存在が消失した今、アメリカは他国の紛争に介入することなく、孤立主義を守って専ら自らの社会だけに目を向けようとしていたのです。

 

自由主義の意義

 ところが、ここで再び重要な問題が頭をもたげることになりました。それは、そもそも自由主義における自由とは何かという問題です。
 共産主義という自由への侵略者が存在しなくなったために、自由主義は何から自由を守るのかを特定できなくなっていました。

 自由を自由たらしめている迫害がなくなったことによって、やがて自由主義社会には「混沌」が蔓延し始めました。自由が当たり前の状態になると、自由は意味を失って行きました。自由の意義と恩恵が、新鮮な輝きを放たなくなりました。人々は自由の中で彷徨い、自由の中に埋没していったのです。(続く)