キリスト教の神はなぜ殺害されたのか(5)

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 前回のブログでは、宗教改革によって生まれ変わった神の殺害がなぜ可能だったのか、そして、神の殺害が哲学や自然科学の分野でどのように行われたのかを検討しました。さらに、社会の変革と神の殺害の関係について、17世紀のイギリスで起こった清教徒革命とそれに続く名誉革命、18世紀後半に起こったアメリカの独立革命によって、神の全能、絶対性が、次第に人間の側に移されていった経過をみてきました。

 今回ブログでは、神が殺害されていった経過の続きをみてみたいと思います。

 

フランス革命

 1789年にバスチーユ牢獄の襲撃で始まったフランス革命は、啓蒙思想で社会を統括しようとする最初の試みでした。革命の背景には、モンテスキューボルテール、ルソー、百科全書派などの啓蒙主義者たちの思想が存在していました。

 革命は、1815年のナポレオン没落に至るまでの約25年間の間に、革命戦争、ナポレオン戦争によって、フランス人だけで200万人もの犠牲者を出し、政治的には大きな成果をあげることなく終わりました。しかし、革命の精神は、ナポレオンのヨーロッパ征服によって各国の人々の中に浸透することになったのです。
 ちなみに、啓蒙思想に裏づけられた革命のスローガンは、自由・平等・博愛でした。理性が人間の中に取り込まれたキリスト教の神の掟(教義)であることから推察すると、理性が導き出したこれらスローガンの原型は、神のもとの平等、神の絶対愛としての博愛、そして神からの自由であったと考えられます。

 

資本主義の精神と神への憎悪
 一方、18世紀後半のイギリスでは産業革命が興りました。産業革命は、機械の発明とその使用による生産方法の根本的変革であり、蒸気機関の発明とともに急速に進行して、交通・運輸にも大きな変革をもたらしました。19世紀に入ると、産業革命はアメリカ、フランス、ドイツにも拡がりました。そして産業革命は、社会構造の変化、工業都市の発展、産業資本家の誕生などの変革を生み、資本主義社会を成立させることに繋がって行きます。資本主義の成立には、産業革命に連なる自然科学の発達が大きな役割を果たしたことは言うまでもありませんが、それに加えて、ヴェーバーの指摘する資本主義の精神が重要な役割を果たしたことは既に述べた通りです。
 ヴェーバーによれば、資本主義の精神は、世俗内職業の実践が信仰の証しであるとする概念と禁欲的プロテスタンティズムの倫理が結びつき、ひたすら天職としての職業に邁進する社会的エートスが形成されることによって成立しました。

 この過程は、神への信仰を教会から世俗内へと移し替えることによって可能になったのであり、神の概念を日常生活の中に取り込んだものでした。日々の労働は、自らが神に選ばれた存在であるかを確認するための絶えることのない実践の場となりました。こうして、救済を目指して社会的規模で続けられた労働が、資本主義社会の成立に重要な役割を果たしたのです。
 しかし、資本主義を支えるこのようなエートスが、一方で神への憎悪と敵愾心を増幅させたことを見逃してはなりません。神の救済を受けられるという確証は、禁欲を伴った不断の労働によっても、実は得ることができないからです。予定説によれば、神は誰を救済するかを既に決定してしまっています。自らの努力は、水泡に帰すかも知れないのです。人々は絶え間ない労働を続けることによって救済への確信を自覚するのですが、他面では救済への疑念と不安にさいなまれ、その感情は、神への憎悪と敵愾心へと向けられたと思われます。

 このように捉えると、産業革命と資本主義社会の成立は、世俗内労働者において神への反感を強める結果をもたらし、社会から神を排除させるための原動力として働いたと考えることができます。
 18世紀後半から19世紀にかけて起こった啓蒙思想の浸透と資本主義の成立は、それまでに進められた神の排除を、いっそう強力に押し進めることに繋がりました。科学者や哲学者だけでなく、一般の人々までが、神の存在に疑いの目を向け始めました。それは、社会全体として、神の存在意義が薄れていったことを意味しました。

 

神の殺害と民主主義
 この過程と並行して、欧米社会では、デモクラシー(民主主義)が発達しました。民主主義とは、人間の自由と平等の権利を尊重し、人民が国家権力に参画する制度ですが、これはフロイトの言う、原父を殺害した後に成立した「兄弟同盟」の掟の再現であると考えられます。
 フロイトによれば、原父殺害後の秩序を長期間にわたって維持する必要性から、兄弟たちはトーテム崇拝の掟と族外婚の掟の他に、新たに「兄弟同盟のすべての成員に平等の権利を認め、彼らの間での暴力的な競争への傾向を阻止する掟」を作りました。
 これと同様に、原父の生まれ変わりである神が殺害された後には、暴力的な競争への傾向を阻止するために、集団に属する人間の自由と平等の権利を尊重し、選挙という形で人民が集団の意思決定に参画する制度が作られたのです。

 このように捉えると民主主義とは、一神教社会において、原父の生まれ変わりである神が殺害されたことによって誕生した政治制度なのだと考えられます。実際に、民主主義が形成される過程で、地上における神の映像とされた絶対王政時代のイギリスのチャールズ1世やフランスのルイ16世が、人民によって処刑さています。ちなみに、民主主義を神なき社会の政治制度ととらえた場合、神が殺害されていないイスラム教の社会では、民主主義は根付きにくい制度だと言えるのではないでしょうか。「アラブの春」ともてはやされたチュニジア、エジプト、リビア民主化運動がうまく進展していかない原因は、ここにあるのかも知れません。
 一方で、民主主義には、神の全能性に基づいた権力を一般市民が奪い、獲得していった側面が存在することを見逃してはなりません。市民革命において大貴族や富裕な新興市民に移された神の全能性は、啓蒙思想と資本主義の発展に伴い、さらに一般の市民へと拡散されて行きました。

 

万能感と植民地政策
 神の全能性を奪いとった人間は、自らの万能感を取り戻し、高揚感と誇大感を募らせました。科学技術の発達と資本主義の隆盛、そして民主主義の発展は、万能感の増幅を現実的側面から支えました。その結果、人間の万能感は外界に対しても向けられるようになります。その顕在化が、ヨーロッパ社会の世界への拡大であり、世界の植民地化でした。
 ヨーロッパ社会の海外進出は、カトリック宗教改革による失地を回復するためにイエズス会を設立し、海外に伝道を行ったことを基にしています。そして、絶対王政時代になると植民地政策がとられるようになり、それに続いて、産業革命と資本主義を達成した国々は、競うように世界を分割・支配して植民地を築いて行きました。人々は全能の神を自己の内面に取り入れる過程において、世界を支配する資格と力を持つに至ったと考えるようになったのです。
 以上のように捉えると、欧米社会において、民主主義が発展する過程で植民地政策がとられたことは、何ら矛盾する出来事ではありません。民主主義とは、一般の人々が神の全能性を奪い取ることを、植民地政策とは、全能性を獲得した人間たちがその他の人間を支配することを意味します。つまり、民主主義と植民地政策は、神の全能性を取り入れた社会がもたらした必然的な行為として捉えられるのであり、この両者は、神の全能性を巡る表裏一体の関係にあったのだと考えられます。

 

進化論という教義
 こうした時期に登場したのが、ダーウィンの進化論でした。ラマルクから始まりダーウィンに至る進化論は、元来は生物の多様性を説明するために提出された理論でした。
 しかし、そうした意図とは異なり、生物の「進化」という側面がクローズアップされ、人間や人間が作る社会の存在論的根拠を与える理論として捉えられました。特に、自然選択による生物の進化を唱えるダーウィンの進化論は、社会思想や哲学に大きな影響を与え、当時のヨーロッパやアメリカ社会の有り様に思想的な根拠を与えました。
 ダーウィンが唱えた「自然選択による生物の進化」は、社会進化論者(ソーシャル・ダーウィニスト)によって「自由競争による適者生存」と読み替えられました。そして、資本主義が確立して海外市場獲得のために自由競争が強調された当時の社会から、熱烈に支持されることになりました。
 それは、より進んだ適者としての社会が、「後進社会」を征服するための正当な根拠として進化論が利用されたことを意味しています。適者が残り、不適者が駆逐され淘汰されることは、社会間の関係においても正当だと見なされる必要がありました。

 こうした社会的要請のために、ダーウィンの進化論は、科学的検証が充分になされないまま受け入れられ、生物科学の根本原理の一つとして位置づけられたのです(「自然選択説」の是非は、現在に至っても議論されています)。
 さらに、ダーウィンの進化論は、他の生物に対する人間の優越性を示す根拠にもなりました。人間が神によって創られた存在ではなく、「猿」から進化した存在であると考える進化論は、一見人間の価値を貶める理論であるように思えます。しかし、キリスト教によれば、他の動物も人間と同様に神によって創られた存在です。したがって、絶対の神と対比すれば、人間も動物も神の僕であり、ともに取るに足らない存在でしかありません。
 一方、進化論では、神の存在は必要とされなくなりました。人間は神に創られたのではなく、自然の淘汰を勝ち抜いてきた適者です。しかも、科学を発達させ、文明社会を築き上げてきたのは人間だけです。すると、適者として現在ある生物の中でも、人間は最も進化した存在として捉える見方が生まれます。
 こうして、自然選択説は、人間が他の生物とは一線を画したより優れた存在であることを「科学的」に証明する根拠となりました。人間は、他の動物だけでなく植物も含めたすべての生物の頂点として位置づけられ、地球上において最も優れた存在であると認識されました。

 この思想は、人間の万能感を大いに満足させると共に、人間の生物支配、さらには自然の管理や自然破壊を容認することに繋がって行きました(さらに、この理論は、人種間の優劣を証明する根拠としても利用されました)。

 

神は死んだ
 多種にわたる生物が存在する理由を自然選択によって説明する進化論は、万物は神が創造したとするキリスト教の教義と根本から対立しました。そして、19世紀後半には、科学と神学との間の激しい論争をまき起こす端緒となりました。
 この論争は、科学の側の勝利に終わりました。すでに時代は、社会から神を排除するという方向に向かって流れていました。進化論によって、人間は幾多の困難を克服してきた最高の適者としてその存在根拠が与えられました。神によって創られた僕としての地位に甘んじることは、もはや人間には必要なくなったのです。

 その結果、神は人々の内面を支えるという役目を終えて、社会の表舞台から退場して行きました。
 この時代の流れを敏感に感じ取り、自身の人生において体現したのがニーチェでした。彼は「超人」となって神と対峙し、「神は死んだ」と宣告しました。そして、その後の時代を象徴するかのように、狂気の世界へと旅立ったのです。(了)