民主主義はなぜ根付きにくいのか(4)

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 究極の全能の神を戴くことになったヨーロッパの人々は、原初の人類が原父を殺害したように神の殺害を実行することになります。そして、残った兄弟たちが平等の社会を作ったように、神なき社会で平等な社会を目指す試みが始まったのです。

 

キリスト教ルサンチマン

 近代におけるヨーロッパ社会の諸改革は、宗教改革で生まれ変わった絶対の神から、人間の自由と独立を取り戻すための改革でもありました。しかし、人間が神を直接非難したり攻撃することはできないため、神との戦いは、神の全能性を利用している権力者たちと戦うという形をとって進められました。
 この際に、ルサンチマンが改革の原動力として働くことになりました。

 キリスト教に救いを求めるのは抑圧された被征服者であり、最下層階級に属する者である。そのため、地上の支配者や高貴な人々を不倶戴天の敵と見なし、他人に対する残酷な感覚、見解を異にするものへの憎悪や迫害する意志を内包している、とニーチェは言います。

 この怨恨感情、つまりルサンチマンは、キリスト教(や、その源流にあたるユダヤ教)においては、抑圧された被征服者こそが最終的には救われる対象になるのだという、それまでの価値基準を正反対に転倒させる道徳によって解消されてきました。
 しかし、今や抑圧される被征服者は、最下層級に属する者などではありません。その対象は、広く人間一般に拡大されてしまいました。それは、人間一般が絶対の神に従属させられる存在にすぎないことが、予定説によって明らかにされたからです。

 

神に対するルサンチマン

 ここから、人間は神に対してルサンチマンを抱くようになりました。とはいっても、それは無意識のうちに抱かれたルサンチマンでした。神に対する怨恨感情を意識化して表明することなど、ニーチェ以外には誰一人としてできることではありませんでした。
 そこで人々は、神の全能性を利用している権力者たちにルサンチマンの矛先を向けました。彼らはルサンチマンに突き動かされて権力者たちと闘い、ときには無惨な仕方で権力者たちを殺害しました。そうして被征服者である彼らは、社会の価値基準を転倒させながら、自らの自由と独立を勝ち取っていったのです。

 自由と独立を勝ち取るための最初の対象は、絶対王政時代の国王でした。絶対王政時代の王の権力は、王権神授説によって支えられていました。

 王権神授説によれば、王は地上における神の映像であり、王権は神に由来し、王の命令に反抗することは神に背くことであると考えられました。王権神授説で謳われた神こそ、宗教改革によって生まれ変わった唯一、全能の神でした。

 

清教徒革命

 このような絶対的な権力を獲得した国王を打倒する最初の試みが、17世紀のイギリスで起こった清教徒革命とそれに続く名誉革命です。
 清教徒革命には、イギリス国教の強制に対する清教徒の反抗としての宗教的側面と、絶対王政に対する議会主義の反抗としての政治的側面がありました。清教徒の多かった議会派と国教や旧教徒の多かった王党派の対立は、武力衝突にまで発展して内乱が勃発しました。このとき議会派の中心にいた人物が、オリヴァー・クロムウェルです。彼は鉄騎隊を率いて王党派を打ち破り、さらに、国王チャールズ一世の処刑を断行しました。
 人民の手による国王の処刑は、ヨーロッパの歴史上特筆される出来事です。その結果イギリスは、その長い歴史において初めて国王のいない共和政の国になりました。しかし、共和政といっても名ばかりであり、クロムウェルは議会を解散し、護国卿を名乗って軍事独裁を始めました。清教徒革命の結果、神の全能性の所在は国王からクロムウェルに移されたに過ぎませんでした。

 

名誉革命

 クロムウェルの死後、政府は混乱し、王政が復活されました。この王政復古の後に起こった名誉革命では、国王に対する議会の優位性を確立することが目指されました。議会で立法化された権利の章典によって、国王が議会の同意なしに法律の廃止、課税、常備軍の募集などをできないことと共に、議会における言論の自由が保障されることになりました。

 また、政党政治と責任内閣制が始められると、「国王は君臨すれども統治せず」というイギリス議会政治の伝統が確立されました。ただし、この時の議会政治は、地主・貴族層による寡頭政治であったことには注意しなければなりません。
 こうして、市民革命の端緒としての意義を持つ二つの革命は、神から国王に移された全能性を、大貴族や富裕な市民に分散する役割を果たしました。その結果、これら一部の人々は、絶対王政からの自由と独立を獲得することに成功したのです。

 

フランス革命

 1789年にバスチーユ牢獄の襲撃で始まったフランス革命は、啓蒙思想で社会を統括しようとする最初の試みでした。革命の背景には、モンテスキューボルテール、ルソー、百科全書派などの啓蒙主義者たちの思想が存在していました。啓蒙思想に導かれた「人権宣言」には、自由、平等、思想・言論の自由人民主権三権分立、私有権の不可侵などが謳われました。
 しかし、そのような崇高な精神とは別の次元で、革命は進展して行きます。

 革命の最中に勃発したオーストリアプロシアとの戦争、パリ民衆と義勇兵による国王の幽閉と議会による王権の停止、普通選挙にもとづく国民公会の召集と王政の廃止へと革命は進みました。さらに、国民公会で勝利したジャコバン派は、ルイ16世を断頭台で処刑しました。

 ルイ16世の処刑は、周辺諸国に少なからぬ衝撃を与えることになりました。イギリスに先例はあったものの、国王が処刑されることなど、当時においても考えられないことだったからです。

 

ロベスピエールの独裁

 イギリス、スペインなどとも開戦することとなったフランスは、周辺諸国から包囲されました。国内でも反革命運動が起こり、内外の危機に迫られたジャコバン派は、この危機を打開するためにロベスピエールを中心とした独裁政治を始めます。

 ロベスピエールは革命政治の徹底化をはかるために、反革命分子を次々と断頭台で処刑しました。そのため、彼の政治は恐怖政治と呼ばれることになりました。このようにフランス革命においても、神の全能性は、国王からロベスピエールへ移されるという経緯をたどったのです。
 しかし、ロベスピエールの独裁は長くは続きませんでした。反勢力によってロベスピエールは処刑され、革命独裁政権は一年余りで終結しました。その後、ブルジョア共和政を掲げる総裁政府が成立しましたが、社会状況は安定せず、ナポレオンの台頭によってフランス革命は終焉を迎えました。

 

ヨーロッパの覇者ナポレオン

 ナポレオンは輝かしい軍事的勝利を背景に独裁への道を歩み、フランス人民の皇帝として帝位に就きました。皇帝となったナポレオンは、ヨーロッパの支配へと乗り出しました。破竹の勢いで進軍した帝国軍はヨーロッパ各地を制覇し、1810年頃にはイギリスとトルコを除く全ヨーロッパを支配下に置くことに成功しました。こうしてナポレオンは、歴史上初めてヨーロッパの覇者になりました。
 彼の権威と威光は、教皇をも凌ぐものでした。自身の戴冠式において、ナポレオンがローマ教皇に背を向け、自ら月桂樹の冠を戴いたことがそれを象徴的に現しています。さらに、ナポレオンは教皇領を接収し、教皇ピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁しました。このときのナポレオンは、神の全能性を一身に譲り受けた覇者として振る舞い、世の中に不可能なことなどないと感じる万能感に浸っていました。
 しかし、ナポレオンがロシア遠征に失敗すると、支配していたヨーロッパ諸国民の反抗、解放運動が表面化し、各国同盟軍による解放戦争が起こりました。戦いに敗れたナポレオンは帝位を追われ、孤島で一生を終えました。

 

フランス革命の精神

 フランスにおける社会改革は、フランス革命の勃発から1815年のナポレオン没落に至るまでの約25年間の間に、革命戦争、ナポレオン戦争によって、フランス人だけで200万人もの犠牲者を出し、政治的には大きな成果をあげることなく終わりました。しかし、フランス革命の精神は、ナポレオンの征服に伴ってヨーロッパ各国の人々に浸透することになりました。
 ところで、フランス革命の精神とは何だったでしょうか。革命のスローガンは、自由・平等・博愛でした。このうち平等と博愛は、キリスト教における神のもとの平等と、神の絶対愛としての博愛が原型になっているでしょう。では、自由とは何を意味していたのでしょうか。それは、直接には絶対王政に支えられた旧体制(アンシャン=レジーム)からの解放を指していました。
 しかし、その背景には、啓蒙思想によって導かれた自由の思想、つまり絶対王政を背後から支えた全能の神からの自由と独立の獲得を目指す思想があったのだと考えられます。フランス革命とそれに続くナポレオンの支配は、啓蒙思想をヨーロッパ各地に浸透させました。それは同時に、ヨーロッパの人々の中に、神からの自由と独立を求める精神を根づかせていったのです。

 

民主主義の発展

 18世紀後半から19世紀にかけて起こった啓蒙思想の浸透は、自由と独立の精神を人々の中に呼び覚ます機運をもたらしました。19世紀末になると、啓蒙思想から生まれた無神論唯物論の隆盛、そしてダーウィンの進化論などによって、唯一、全能の神を中心に据えた世界観は崩れ去って行きました。
 それに伴って、ヨーロッパ社会では民主主義が発展を遂げました。民主主義とは、人間の自由と平等の権利を尊重し、人民が国家権力に参画する制度です。人間の自由と平等の権利を保障するために、選挙という形で一般市民が国家の意思決定に参画する制度が作られました。

 しかし、民主主義には、かつては神の全能性に基づいていた権力を一般市民が奪い、自らのものとして獲得していった側面が存在することを見逃してはなりません。市民革命において大貴族や富裕な新興市民に移された神の全能性は、民主主義の発達に伴い、さらに一般の市民へと拡散されました。
 神の全能性を奪いとった人間は、自らの万能感を取り戻し、高揚感と誇大感を募らせるようになりました。その結果、人間の万能感は外界に対しても向けられました。その顕在化が、ヨーロッパ諸国による世界の植民地化です。ヨーロッパの人々は、全能の神から独立し、神の全能性を自己の内面に取り入れる過程において、世界を支配する資格を持つに至ったと考えるようになりました。
 こうして近代ヨーロッパの人々は、諸革命を通じて神の全能性を奪い、隷属していた神からの自由と独立を勝ち得ていったのです。

 

民主主義の原点

 さて、ここでフロイトの『トーテムとタブー』を振り返ってみましょう。

 父親を殺害するために兄弟たちは団結しましたが、父親がいなくなった後は、女については互いに敵同士の関係になりました。各自が父親と同じように女を独占しようと争っていては、新しい組織は滅びてしまいます。そこで、兄弟たちが共同生活をしようとすれば、近親性交を禁止する掟を作るより仕方がありませんでした。
 この禁止によって、彼らはみな同じく、自分たちが熱望していた女たちを断念することになりました。ここから、兄弟同盟のすべての成員に平等の権利を認め、彼らの間での暴力的な競争への傾向を阻止する新たな掟が生まれたフロイトは言います。この掟は、父親を殺害した後に成立した新たな秩序を、長期間にわたって維持するという必要性から作られたものでした。

 この掟こそ、民主主義の原点であると言えます。近代ヨーロッパにおいては、原父の生まれ変わりである神が、兄弟たちの生まれ変わりである一般市民に殺害されました。そして、残された一般市民たちが新たな神(または神の代替者)にならないよう、すべての成員に平等の権利を認め、彼らの間での暴力的な競争への傾向を阻止するために民主主義という制度が生まれました。

 このように民主主義が成立する背景には、神(または神の代替者)が、一般市民に殺害されているという現実が存在します。さらに言えば、神が一般市民によって殺害されていない社会では、民主主義は根付きにくいことを意味しています。

  先日、中国の全国人民代表大会で、国家主席の任期を2期(10年)までとしていた規定をなくす憲法改正案を可決し、習近平総書記(国家主席)の長期政権が可能になりました。プーチン大統領もすでに憲法を改正し、独裁者の途を歩んでいます。両国では民主主義は形骸化しており、神の代替者が社会を支配する国家になろうとしています。このように民主主義とは、なかなか根付くことができず、根付いたとしてもすぐに崩壊してしまいかねない制度であるのです。

 一方、日本では民主主義は社会に根付いているのでしょうか。この問題については、別の機会に検討したいと思います。(了)