資本主義はなぜ世界を席巻しているのか(1)

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 マルクスは、かつて封建主義社会が資本主義社会に一掃されたように、労働者階級による革命によって資本主義社会が一掃される時が訪れると予言しました。そして、社会主義社会では、生産手段の社会的共有化によって平等主義の理念が達成され、新しい社会形態が実現されると主張しました。

 しかし、社会主義革命を達成したソ連は崩壊し、中国は共産主義を標榜しているにもかかわらず、鄧小平によって資本主義の根幹である市場経済が導入されました。資本主義は一掃されるどころか、世界経済の中でますますその範疇を広げています。

 なぜマルクスの予言は達成されなかっただけでなく、資本主義は世界を席巻することになったのでしょうか。

 

資本主義の精神

 資本主義を語るうえで欠かせないのが、マックス・ヴェーバーが指摘した資本主義の精神です。以前のブログでも取り上げましたが、ヴェーバーの著書である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1)をもとに、資本主義の精神とは何かを検討してみましょう。

 ヴェーバーの考察は、訳者の大塚久雄によれば次の疑問に注目することから始まっています。それは、近代の資本主義がなぜ中世以降のヨーロッパに興り、その他の地域や別の時代には興らなかったのかという疑問です。

 それまでにも中国やインド、ギリシア・ローマにおいて、商業の発達や流通機構の整備がなされ、加えて商業に対する倫理規制のない自由で合理的な精神が育まれていました。通常の考え方によれば、資本主義はこのような条件のもとに発生するはずでした。
 しかし、現実にはこれらの地域では近代的な資本主義は興りませんでした。そればかりか逆に、営利の追求を敵視するプロテスタンティズムの倫理が支配した地域で発達することになりました。この歴史的事実の逆説を解明したのが、ヴェーバーによる考察の主旨なのです。
 近代資本主義の成立には、産業技術の発達が必要です。イギリスで興った産業革命が、資本主義社会の確立を後押ししたことは異論のないところでしょう。しかし、技術が発達しただけでは資本主義は成立しません。なぜなら、資本主義が成立するためには「資本主義の精神」が不可欠だからです。

 

資本主義の精神とは

 資本主義の精神について、ヴェーバーは次のように述べています。

 

 「少なくとも勤労時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃銀がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的- 》Beruf《「天職」-であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。また、高賃銀や低賃銀という操作で直接作り出すことができるものでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』67頁)

 

 労働に対するこのような精神が存在しない社会では、資本主義は成立しません。なぜなら、労働が単に生活を維持するためだけに行われるのであれば、必要な賃金だけを得られればいいのであって、それ以上の労働を必要としないからです。

 資本主義の精神が存在しない社会では、賃金が増えれば人々はその分だけ働かなくなり、労働以外に時間を振り分けることになります。余分な労働が行われないために、その結果として社会的規模で資本の蓄積が生まれることはありません。
 つまり、資本主義の精神とは、過剰な労働が社会的規模で行われるための精神であると言い換えることができるでしょう。そこでは、労働は人生におけるある目的のために行われる手段ではなく、労働自体が生きる目的になるという逆転が起こっています。このような心情は、人間が生まれながらに持っているものではなく、長年の教育によってもたらされるのだとヴェーバーは言うのです。

 

ルターの天職概念

 では、資本主義の精神はどのようにして生まれたのでしょうか。ヴェーバーは、それがルターの「天職概念」と、カルヴァンが導いた「禁欲的生活態度」によって形成されたと指摘しています。
 まず、ルターの天職概念についてみてみましょう。
 教皇による免罪符の販売に反対したルターは、信仰の根拠を聖書のみに置くことを主張したことで知られています。教皇を頂点とした教会の権威と対立することになったルターは、宗教の実践を、教会という世俗の外部から世俗の内部に移し替えることを目指しました。そして、世俗的職業における義務の遂行を、道徳的実践の持ちうる最高の内容として重視しました。
 つまり、宗教的実践は、教会に祈りを捧げることではなく、日常の職業を全うすることによって達成されるという道標を提示したのです。それは世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生み、そうした意味での天職(Beruf)という概念を最初に作り出すことに繋がりました。
 その結果を、ヴェーバーは次のように述べています。

 

 「どんな場合にも世俗内的義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であって、これが、そしてこれのみが神の意志であり、したがって許容されている世俗的職業はすべて神の前ではまったくひとしい価値をもつ、ということがその後指摘されつづけたばかりでなく、ますます強調されるようになっていった」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』111頁)

 

 こうして、自らに与えられた職業の実践こそ最高の信仰の証しであるという見解が、プロテスタントの教義として示されました。このことによって、職業は生活の糧を得るための手段ではなくなり、職業の実践そのものが神の意思に従う行為であり、世俗内労働がキリスト教徒としての生きる目的に変換されたのです。

 

カルヴィニズム

 ルターの天職概念は、人々の労働に対する価値観を大きく変えましたが、それが資本主義の精神に行き着くためには、さらに、宗教改革のもうひとりの旗手であるカルヴァンの思想が決定的な影響を与えました。
 ヴェーバーは、続けて言います。

 

 「十六、七世紀に資本主義の発達がもっとも高度だった文明諸国、すなわちオランダ、イギリス、フランスで大規模な政治的・文化的な闘争の争点となっていた、したがってわれわれが最初に立ち向かわなければならない信仰は、カルヴィニズムだ。当時この信仰のもっとも特徴的な教義とされ、また一般的に、今日でもそう考えられているのが恩恵による選びの教説(予定説)である」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』144頁)

 

 カルヴァンは、聖書にもとづかないすべての教義や儀式を排除し、教皇を中心とした教会制度を全面的に否定しました。そして、救いの決定権は教皇にはなく、神のみが定めるところであり(予定説)、信者は聖書にしたがって勤勉で道徳的な生活を守るべきだと説きました。この職業を重視し、勤倹による富を肯定する倫理は、ネーデルランド、イギリス、南フランスなどの商工業の盛んな地域の新興市民層に普及していきました。
 カルヴァンの「予定説」こそ、資本主義の精神が育まれるための最も重要な教義となりました。

 では、カルヴァンの予定説とはどのような教義なのでしょうか。以前のブログでも触れましたが、ここでもう一度振り返っておきましょう。

 

予定説とは

 予定説はまず、人間の原罪についての問題を提示します。キリストは万人の罪を一身に引き受けて処刑に殉じ、人類の原罪を償いました。しかし、予定説では、人間は相変わらず原罪を背負っており、決して自らの力では悔い改めることができないと強調されます。
 次に、キリストが果たした役割についても変化が認められます。キリストが原罪を償ったのは万人のためではなく、神が選んだ人々のためだとされます。しかも、キリストの贖罪の死さえ、神があらかじめ予定していたことに過ぎないとされます。つまり、そのことによって、キリストの役割が小さくなり、逆に神の全能性が強調されることになりました。キリストの贖罪の死も、誰を救い誰を断罪するかも、すべては神の意思によって決定されています。神があらかじめすべてを決定している、これこそが予定説の教義なのです。
 では、永遠の死滅に至らないためには、人々はどのように振る舞えばいいのでしょうか。ここが、他の一神教にもみられない予定説の特徴であり、全能の神の全能たる所以を際立たせているところです。
 人々が救われるか否かは、すべて神がその自由な意思によって決定します。人々が心をこめて信仰を貫いても、救われるかどうかは分かりません。善き行いをしたから救われるとは限りません。また、神の栄光を称えるための被造物を造ったとしても、救われるための条件にはなりません。逆に、何をしなくても、たとえ悪事を働いたとしても救われるかも知れません。すべては神が決めることです。

 善悪の判断などは、しょせん人間が作ったものです。人間の是非善悪の基準で、神の意思を推し量ることなどできません。人間が想像し得る範囲で定めた条件などで神の救済を規定するなど、神の栄光を冒涜する行いに他なりません。
 つまり、予定説では、誰が救済されるかはあらかじめすべて神が決定しており、人間の行いによってその決定が変えられることはありません。予定説で現わされた神とは、これほどまでに決定的な力を持った全能の神なのです。

 

自らは救済されているのか

 では、救済がすでに決定されてしまっているとするならば、自分は救済されているのかいないのか。プロテスタントの興味は、次にはその一点に集中されることになるでしょう。果たして、それを知る術はあるのでしょうか。
 予定説は、救済を約束されている人々は柔軟な心をもって神の意思に従い、神が定めた善きことを行うようになるのであり、救済されない人々は頑なな心で信仰を拒み、自らの欲望とサタンの誘惑にしたがって罪を犯すようになると説きます。これは、信仰を重んじて善行をなした者が救済され、信仰を軽んじて悪行を重ねた者が救われないということを意味するのではありません。両者は一見同じことを言っているようにみえますが、原因と結果がまったく逆になっています。
 つまり、予定説では、神があらかじめ救済を予定した人は、どんなに信仰を拒否しようとしても、本人の意思とは無関係にキリスト教を信仰して善行を行うように決定されています。一方、頑なに信仰を拒絶する人は、神の救済が予定されていないために、いくら善行を積もうと努力してもできないのです。
 したがって、救済とは、人間の努力を神に判断してもらうことでは決してありません。ここでも神はあらかじめ、すべてを決定しています。そして、救済されているか否かは、神の意思にしたがって必然的に信仰にいそしみ、善行を重ねているという自らの行いをもって事後的に確かめるしかないのです。

 

信仰のために働く

 その結果として、人々は無意識のうちに進んで信仰を重んじ、善行を重ねるようになりました。自分の意思でキリスト教を信仰し、努力して善行を重ねても、それは救済の証しにはなりません。救われる人々の信仰や善行は、神の意思によって導かれているはずです。救いの確証を得るためには、本当は自らの意思で行っていることを、神によって行わされているのだと信じ込まなければなりません。そのためには、信仰したいという意思や、努力して善行を行おうとする気持ちを否認し、意識の外部に追いやらねばなりません。そうすることによって初めて、自らの意思と関係なく、神によって導かれていると信じることができます。
 しかし、否認した意思や感情は、完全に消え去ってしまうわけではありません。本当は自分の意思で信仰しているのではないか、神の意思に従って行動していないのではないかという疑念は、折に触れて頭をもたげてくることになります。そこで人々は、こうした疑念を打ち消そうとして、さらに脇目もふらず信仰と善行に励んだのです。
 ところで、彼らにとっての善行とは何でしょうか。それが世俗内の職業であるのは、カルヴァン派でも同様でした。カルヴァン派信徒においては、「神の栄光を増すため」に与えられた職業を全うすることが善行とされました。したがって、彼らは自分が救われていることを確証するために、善行を重ねるかのごとく働き続けました。
 こうして予定説の神を戴く人々は、自らの救済が予定されていることを確信したいがために、神に与えられた職業労働にひたすら邁進することになったのです。(続く)

 

 

文献

1)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,東京,1989.