キリスト教の神はなぜ殺害されたのか(4)

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 前回のブログでは、キリスト教の神が殺害された理由を、精神分析学的に検討しました。今回は、なぜ全能の神の殺害が可能だったのか、そして、神の殺害が哲学や自然科学の分野でどのように行われたのかを検討したいと思います。

 

三位一体説

 全能の神の殺害という、常識では考えられない畏れ多い行為が実現したのには、キリスト教の教義に理由がありました。その教義とは、三位一体説です。

 三位一体説とは、父(神)、子(キリスト)、聖霊(人に神の意思を伝え、精神的活動へと導く霊)という三位(神の三種の位格)はすべて一つの神の表れで、元来一体のものであるというキリスト教の基本的教義です。ところで、神やキリストや精霊が存在し、さらに聖母マリアまで崇拝するキリスト教は、果たして一神教と言えるのでしょうか。キリスト教は、本当に複雑で難解な宗教です。

 それはともかく、この三位一体説の存在が、神の殺害を可能にしました。

 神とキリストが同一なのですら、人間の持つ感情がどちらかの存在に集中して向けられたとしても不思議ではありません。さらに三位一体説をとり、しかもキリストに完全な人間としての側面を持たせるキリスト教では、父なる神に向けられた憎悪や敵愾心が、神の息子であるキリストを経由して、人間キリストに向けられる可能性が存在するのです(カルケドン公会議(451年)において「キリストは真に神であり、真に人間である」ことが確認されています)。
 もちろん、神とキリストは同一なのですから、それぞれを別に分けて考えることはできません。しかし、神学的な解釈はそうであっても、人間が感情を向ける対象として神やキリストを捉えたとき、それぞれを別の対象に分離することが人々の不安を軽減させるために必要とされました(この心理機制は、精神分析でいう対象分裂obuject splittingに相当します)。

 

奇跡の復活を信じない

 こうにして、近代ヨーロッパにおいて、人間キリストという神の一側面に、嫉妬や憎悪、敵愾心といった感情が集中して向けられました。それは神を殺害する心理的負担を軽減するためであり、上述したキリスト教の構造的な理由によって、それが可能だったからです。
 たとえば、ニーチェは『アンチクリスト』の中で、イエスに対して次のように述べています。

 

 「かの聖なるアナキストは、下層の民衆、社会の除け者や『罪人』、ユダヤ教内のチャンダーラなどを煽動して、支配的秩序に反抗するように仕向けた張本人であり、もし福音書を信用してよいなら、今日生きていたにしてもシベリヤ流刑に処されるであろうような言辞を弄した、一個の政治犯であった。(中略)政治犯であったことが、彼を十字架につけたのだ。その証拠は、十字架にしるされた罪標(すてふだ)の文句である。彼は自分の罪のために死んだのだ。- 彼が他人の罪のために死んだというような話は、いかにしばしば主張されて来たにせよ、なに一つ根拠はない- 」(『偶像の黄昏 アンチクリスト』1)197頁)

 

 イエスが「一個の政治犯」であり、「自分の罪のために死んだ」と主張するこの文は、人間としてのイエスを罪人と捉える見方です。イエスは罪人であり、しかも自分の罪のために死んだ!とするならば、イエス・キリストを神の子として仰ぐことはできなくなります。同時に、イエス・キリストと同一とされる父なる神の存在も雲散霧消してしまうでしょう。

 もし、イエスが神の子でなく、ムハンマドのように預言者に過ぎなかったら、たとえ当時の社会から政治犯として断罪されたとしても、後に革命家として讃えられたでしょう。そして何よりも、預言者と別個の存在である神の威光は傷つかないでしょう。(ただし、ニーチェは、キリスト教を否定するためにイエスについて上記のように述べましたが、イエスの教え自体は否定しておらず、むしろキリスト教の教義は、イエスの教えとはまったく無関係なものになっていると非難しています)。
 ニーチェの指摘を待つまでもなく、キリスト教の神を否定することは容易にできます。それは、「イエス・キリストの復活を信じない」と宣言さえすればよいのです。奇蹟の復活を否定すればイエスは人間に過ぎないことになり、イエスがただの人間であれば、イエス・キリストと同一の存在である神の存在も否定されることになるからです。

 キリスト教の教義によれば、万能の神を直接否定するというような畏れ多い行為を採らなくても、イエスをただの人間として捉えるだけで、神を「殺害する」ことが可能になってしまうのです。
 こうして、モーセ殺害と同様の心理機制が人間キリストに向けられました。キリスト教誕生の際に行われたイエスの殺害が、近代ヨーロッパにおいて、宗教的な意味における殺害として再び繰り返されました。そして、それは結果として、父なる神を殺害することを意味したのです。

 

哲学における神の殺害

 実際にはこの心理的な過程は、思想から社会変革へと漸次進行して行くことになりました。以下に、その経緯を追ってみましょう。
 神の排除が最初に行われたのが、哲学の領域でした。前回のブルグで述べた啓蒙思想の誕生は、その具体的な現れです。
 啓蒙主義は、イギリス、フランス、ドイツにおいて発達しました。これらの国々は宗教改革が推し進められた地域であり、プロテスタント(イギリスではピューリタン、フランスではユグノーと呼ばれました)が活躍した舞台となっていました。そこでは、神は予定説に現される唯一、全能の神でした。全能の神に憎悪と敵愾心を抱いた人々は、自己の中に神の本質を取り込みながら、神の概念を思想から排除しようと試みました。
 具体的には、まず啓蒙思想から理神論が興り、そこから理性を至上として信仰をその下位に置く考えが生まれました。次に、啓蒙思想家、特に啓蒙的世界観を集大成しようとした百科全書派の中には、唯物論とともに無神論を主張する者も現れました。ここに至って、神の概念は完全に排除されることになったのです。
 ところで、啓蒙思想で尊重された理性とは、個々の人間に取り入れられた全知、全能の神をその原型としていました。ただし、厳密に言うと理性は神そのもではなく、人間に取り入れられた「神の掟」でした。これは、原始社会の成立時にフロイトが指摘した、原父が殺害されることによって初めて「原父の掟」が人々に取り込まれたことと同様の機序で生じたと考えられます。人々は「神の掟」を理性として概念化することによって、世界の規範を理解し、自らがどのように生きていくかの拠り所としたのでした。
 そして、「神の掟」が理性として取り入れられたことによって、「神の全能性」もまた人間に取り入れられることになりました。そもそも神の全能性は、人間の万能感が譲り渡されて成立したものですから、神の概念が排除されることによって、人間は万能感を神から取り戻すことになったのです。

 

科学における神の殺害

 哲学的な思想背景をもとに、自然科学の分野でも大きな展開がみられました。17世紀の自然科学は、前述したように「神の御業、神の計画とは何か」を知るという目的において発展しました。

 18世紀後半になると、科学者の大半がその思想・研究において、神を仮定することを必要としなくなりました。その背景に、啓蒙主義思想が存在したのは言うまでもありません。神を仮定する必要がなくなったのは、神の代わりに理性がその役割を果たすようになったからです。
 村上陽一郎はこの変革を「聖俗革命」と呼び、近代科学の発展に一つの不連続面が認められることを強調しています。

 村上は「聖俗革命」について、「『全知の存在者の心の中に』ある真理という考え方から、『人間の心の中に』ある真理という考え方への転換であり、『信仰』から『理性』へ、『教会』から『実験室』への転換である」(『近代科学と聖俗革命』2)21-22頁)と述べています。
 科学への視点が、聖から俗へ、つまり神から人間へ移されることによって、科学思想に大きな変革がもたらされました。近代の科学思想は、聖俗革命を経ることによって、初めて宗教的側面を脱することになりました。そして、世界からは神と聖霊が排除されて物質のみが残り、唯物論に基づいて、自然を合理的に捉える現代の自然科学が誕生したのです。

 

社会の変革と神の殺害

 このように哲学者や科学者の手によってなされた神の概念の排除が、一般社会へと拡がって行く過程が、政治・経済の変革でした。
 16世紀後半から17世紀のヨーロッパでは、封建国家に代わって絶対王政による絶対主義国家が成立しました。王権の絶対性を正当化したのが、王権神授説、つまり王は地上における神の映像であり、王権は神から由来する神聖で絶対のものであるという理論です。王に絶対性を与えた神とは、宗教改革によって生まれ変わった全能の神です。絶対王政は、全能の神を後ろ盾に、王が無制限・無制約な権力を獲得し、圧倒的力で人民を支配する中央集権制度でした。
 しかし、ここで注意が必要なのは、王権が神に由来するものであるとはいえ、神の全能性が王という人間に移されている点です。この時点ですでに、神の力を人間の側に取り込む試みが始められています。
 絶対王政に続くのが、17世紀のイギリスで起こった清教徒革命とそれに続く名誉革命でした。清教徒革命は宗教的な側面から、名誉革命は政治的側面から国王の絶対権力を剥奪する運動でした。市民革命の端緒としての意義を持つこれらの革命は、神から王に移された全能性を、大貴族や富裕な新興市民に分散する役割を果たしました。
 18世紀後半に起こったアメリカの独立革命は、アメリカの植民地がイギリス革命の精神を受け継ぎ、皮肉にもイギリス本国から独立を勝ち取った戦いでした。この革命は、専制政治体制にあった当時のヨーロッパ諸国において、自力で権利を勝ち取る希望と自覚を人々に与えることに貢献しました。
 このようにして、宗教改革によって生まれた神の全能、絶対性は、諸革命を経ながら次第に人間の側に移されていったのです。(続く)

 

 

文献

1)ニーチェ西尾幹二 訳):偶像の黄昏 アンチクリスト.白水社,東京,1991.
2)村上陽一郎:近代科学と聖俗革命〈新版〉.新曜社,東京,2002.