太平洋戦争の壊滅的な敗戦から、日本は奇蹟的な復興を遂げました。経済的にさらなる成長を遂げ、世界有数の経済大国となった日本は、経済でアメリカを凌駕しようとしました。この野望はバブル期に達成されたかに思われましたが、結局アメリカに敗れて第二の敗戦を経験しました。その結果、日本経済は不況から長期間抜け出すことができなくなり、日本社会全体が長いうつ状態を経験することになりました。
社会の変革を求めた人々は、民主党政権に望みをかけましたが、その期待は鳩山政権と菅政権によって無残にも打ち砕かれました。
この状況に追い打ちをかけるように、2011年3月11日に、東日本大震災が日本を襲ったのです。
千年に一度の災害
2011(平成23)年3月11日に起こった東日本大震災は、死者・行方不明者が1万8000人以上、建築物の全壊・半壊が40万戸以上にのぼり、さらに原発事故による放射能の被害が広範囲で確認されるなど未曾有の大惨事となりました。被害の規模はその名が示す通り東日本全体に及び、経済的損失や原発廃炉に向けての対応、人的被害や被災者の受け入れなど、その影響は日本全体が携わらねばならない問題となりました。東北地方の復興は未だに進んでおらず、原発の廃炉も含めた再建には今後も長い時間と多大な労力が必要なことが明らかになっています。
このように、東日本大震災が日本社会に残した傷跡は、まさに千年年に一度と表現されるに相応しい規模に及んだのでした。
世界が驚いた日本人の行動
その一方で、東日本大震災は、日本人に和の文化を思い起こさせる契機にもなりました。震災の後に東北の人々が示した言動によって、日本人が忘れかけていた和の文化の姿が再認識される端緒となったのです。
いみじくもそれは、海外メディアが報じた現地のレポートによって明らかになりました。『世界が感嘆する日本人 海外メディアが報じた大震災後のニッポン』1)には、被災後の人々の様子が、驚きをもって次のように紹介されています。
「この悲劇の大きさにもかかわらず、日本の人々は称賛に値するさまで振る舞っている。ニューオーリンズのハリケーン・カトリーナのときと違って、とりたてて言うほどの略奪も、暴動もパニックも経験していない。彼らは純粋に無私無欲のさまで行動し、お互いを助け合うべく、いかなる苦労も惜しまない。
CNNのキュン・ラー記者は『略奪、暴動、公然と悲しみと怒りを表わすのを見たほかの災害と違って、静かに悲しみ、人々は2~3本のボトルの水をもらうために秩序正しく、何時間も忍耐強く立っている』と伝えた。(中略)
この行動は世界じゅうのほかの国々にとってモデルであり、我々は社会として、将来災害に見舞われたときに、それがテロリストによる攻撃であろうと天災であろうと、自ら進んで、日本人と同じように礼儀正しいさまで行動することを望むべきである」(『世界が感嘆する日本人』30-31頁)
大震災後の日本人の冷静さ、秩序正しさ、無私無欲さは他にも指摘されています。
「秩序感覚は政府のマニュアルに限ったことではない。大震災の惨禍が起きたあと、略奪もなければ、暴動もまったくなかった。凍りつくような天候のなかで、食料、水、燃料を望む人が長蛇の列をなしたが、もらえないこともあったという。それでも怒りは炎上しなかった。生活必需品を配給することにおいても、ほとんど不平は出なかった。みんなが平等に苦痛を共有しなければならないという前提に立っているからだ」(『世界が感嘆する日本人』34-35頁)
これらは、アメリカ人記者が報じた記事です。日本人はなぜ、彼らが感嘆するような行動をとることができたのでしょうか。その背景には、和の文化が存在していると考えられます。
大震災で現れた和の文化
一般的に社会の行動規範は、宗教や法律によって明文化されたルールに根拠を置いています。大震災のように社会が壊滅的な打撃を被り、通常とはまったく異なった非日常の空間が現れたとき、明文化されたルールは時として効力を失います。社会が壊滅することによって、ルールの前提となっている社会制度が消滅してしまったり、明文化されていない事態が数多く生じるからです。略奪や暴動が起こるのはそのためでしょう。
以前のブログでも指摘したように(日本人は無宗教なのか(1)、(2))、和の文化の行動規範は、宗教や法律によって明文化されたルールに根拠を置いていません。日本人の規範の根拠は、「世間」や「ご先祖様」といった無名の人に、またはその無名の人の集合体である生活共同体の「眼」に存在しています。
人々は、世間体や他人の眼を極端に気にしながら生活しています。世間体や他人の眼の根底に流れる規範とは、争いを避け、生活共同体の中で和を保つことでした。この行動規範は、明文化されていないからといって、決して強制力のないものではありません。恥ずべき行為は生活共同体の中で極めて厳密に決定されており、行動規範から外れることは、恥をかいて汚名を負うことになります。さらに恥ずべき行為が続けられた場合は、「村八分」になって共同体から追放されることも起こります。
この「恥」を基本とした規範は、人と人との関係をもとにして生まれています。恥をかくということは面目を失うことですが、この面目とは、世間に対する名誉のことです。つまり、恥をかくとは世間に対して名誉を失うことであり、生活共同体の中で体裁を失い、人から非難の眼差しを受けることに繋がるのです。
社会制度が壊れても残る文化
以上のような行動規範が存在するために、大震災によって地域のインフラや社会制度が壊滅的な打撃を受けても、日本人の規律は保たれました。避難所などで人が集まれば、そこには生活共同体ができます。新たな生活共同体には世間体が生じ、他者からの眼が生まれ、共同体の中で和を保つことを目的とした規範が形成されます。そして、その行動規範から外れることは恥をかいて汚名を負うことになり、恥ずべき行為が続けられた場合は、「村八分」になって新たな共同体からも追放される危険が生じます。
次の指摘は、共同体による規範の厳しさを物語っていると言えるでしょう。
「日本人はほかの人に迷惑をかけてはいけないという集団的プレッシャーが強く、恐怖の連鎖反応が起きないように、冷静さと強さを示そうとする。体育館に何百人もの人と一緒に寝泊まりしている人に対して、私はいまの状況で何がもっともつらいことかと訪ねた。彼はこう答えた。『我々には生まれたての赤ちゃんがいる。もっともつらいのは赤ちゃんが夜泣いて、それが我々以外の人たちを苛立(いらだ)たせることだ』」(『世界が感嘆する日本人』35-36頁)
インタビューを受けた日本人が、生まれたての赤ん坊の夜泣きという当たり前のことをなぜこれほどつらく感じるのかといえば、新たな生活共同体の中でも他者の眼を極端に気にしているからです。そして、赤ん坊の夜泣きが人々を苛立たせ、それが集団の和を乱すことに繋がらないかと恐れるからです。他人に迷惑をかけ、集団の和を乱せば、一家は新たな共同体の中に居場所を得ることができなくなります。
したがって、社会が壊滅してしまっても冷静を保ち、秩序正しく行動でき、無私無欲さを示すことができたのは、個々の日本人が特別に高い道徳心や宗教心を持っているからではないでしょう。それは、日本人の行動規範が世間体や他者の眼に根拠を置いており、生活共同体の和を保つことを目的としているからです。どのような状況におかれようと、人が集まって生活共同体が作られれば、和の文化では必然的に行動規範が形成されることになるのです。(続く)
文献
1)別冊宝島編集部:世界が感嘆する日本人 海外メディアが報じた大震災後のニッポン. 宝島社,東京,2011.