わたしたちはなぜ、マスクを外すことができないのか(4)

 前回のブログでは、日本人が屋外でもマスクを外せない理由を、周囲からの「同調圧力」と、個人が感じる「マスクは顔のパンツ」という感覚から検討しました。

 「同調圧力」と「マスクは顔のパンツ」という感覚は、いずれも日本文化にその源泉を求めることができます。「同調圧力」は共同体の和を保つための、共同体から個人に向けられる力であり、「マスクは顔のパンツ」という感覚は、恥の文化に端を発していると考えられます。

 今回のブログでは、マスクと日本文化との関係について、さらに掘り下げて検討してみたいと思います。

 

マスクは日本社会に馴染んでいた

 欧米諸国とは異なり、マスクは日本ではもともと人々になじみの深いものでした。風邪をひいたときはもちろん、花粉の季節になればマスクは花粉症の人の必需品でした。そのため、新型コロナ感染症が流行する前から、街角ではマスクをする人をよく見かけました。

 マスクは、身体の病気に対する対策として使用されるだけではありません。皮膚が荒れていたり、むくんでいるとき、または化粧が上手くできないときなどに、外観を気にしてマスクを付ける女性がいます。精神的に不安や緊張が強いとき、気分が滅入った時などにマスクをする人もいます。自分の表情を隠して、心の不調を人に見せないためです。

 精神科の外来には、マスクをして訪れる人が大勢いました。そのため診察室の扉には、「診察室にはマスクを外してお入りください」という表示をわざわざしていたほどです。新型コロナ感染症が流行して以降は、逆に「診察中もマスクをしてお話しください」に替わってしまいましたが。

 このようにマスクは、日本ではさまざまな用途で使用されきた歴史があり、日本社会に溶け込んだ存在であったと言えるでしょう。

 

口を隠すことは日本の習慣

 女性が笑うときに、口を手で隠す仕草さをすることがあります。昔から日本では、着物の袖や扇子で口を隠す風習がありました。男性でも、お公家さんが扇子でで口を隠す仕草は、時代劇ではよく見られます。口を隠すことは日本では上品な振る舞いと捉えられていますが、外国(特に欧米諸国)の女性は、笑うときに口を隠すことはありません。むしろ、口を隠して笑う姿は、欧米人からは奇異に映るようです。

 直接口を隠すこととは異なりますが、日本には古代からお歯黒という風習がありました。これは明治末期まで続いた風習で、主に既婚女性が、歯を染料で黒く染めていました。お歯黒の染料には、虫歯や歯周病を予防する効果があったことが知られていますが、お歯黒の主な目的は、歯を隠すことにあったのではないかとわたしは思います。

 オオカミやマントヒヒは、オスたちがメスを巡って争うときに牙をむき出しにして相手を威嚇します。動物が歯を見せる行為には、攻撃性を示して相手をひるませ、そのことによって無用な争いを避ける目的があります。同じように日本文化では、歯を見せることは噛むことを連想させ、攻撃性を示すことと捉えられたのではないでしょうか。そう考えると、歯を黒く塗ることは攻撃性のなさを示すことであり、それがやがて、女性としての奥ゆかしい外観と認識されるようになったのではないかと思われます。

 

口はさまざまな感情を表す

 笑いや威嚇にとどまらず、口は様々な感情を表現する源です。感情には、喜・怒・哀・楽・愛・憎などがありますが、こうした感情は、顔の表情によって表現され、なかでも口による表現は、とりわけ大きな役割を担っています。

 以下は、人の感情を表したイラストです。

 

                 図1

 

 図1は、様々な表情がイラストで描かれていますが、そのほとんどが目と口によって表現されています。目と口のどちらが欠けても、正確な感情を読み取ることができないほどです。

 ところで、実際の目は、ハート型になったり、✕印になることはありません。それに対して口は、イラストのように形を変えることは比較的簡単です。つまり、感情は口に現れやすく、他者からも口による表情は読み取りやすいのだと思われます。

 

感情を出し過ぎることを良しとしない 

 日本社会では、感情を出し過ぎることを良しとしない文化が育まれてきました。それは日本が和の文化であり、和の文化では共同体の和を保つことを何よりも大切にしてきたからです。そのためには、できるかぎり対立や争いをなくし、平穏で安全で、気の置けない安らげる共同体を構築することが重要でした。

 和の文化を重要視すれば、感情を顕わにすることは得策ではありません。各個人が喜怒哀楽の感情を顕わにすることで、集団の和は乱れます。個人のそれぞれが感情に従って自己主張をすれば、共同体は争いの萌芽を抱え込むことになるでしょう。そこで日本社会は、感情を顕わにすることを良しとしない文化を育んできたのです。

 しかし、感情が表現されなければ、相手からは理解されません。感情が表出されず、相手が何を考えているのかが分からなければ、人は不安と恐怖にさいなまれます。この問題に対して、日本社会はどのように対応してきたのでしょうか。

 

表情を現さなくても伝わるものがある

 日本には、感情を豊かに表現しなくても、感情が伝わるという文化が育まれてきました。それを典型的に示すのが、室町時代(14世紀)に成立し、六百年を越える歴史の中で独自の様式を磨き上げてきた日本の代表的な古典芸能である能です。

 能の主人公である能楽師は、能面をつけることでその役柄に扮します。以下は、代表的な能面である「小面」と「般若」の写真です。

 

               「小面」と「般若」

 

 代表的な能面である「小面」は、若い女性の役柄を演じるときに広く用いられます。その表情は、微笑むようでもあり、また悲しげでもあり、見る人によって変わる曖昧さがあります。演者が面をつけ、舞台上で役を演じると、ほんの少し面の角度を上げ下げするだけで、晴れやかに見えたり、沈んで見えたりと豊かな表情が現れます。このように、あえて喜怒哀楽のどれかに寄せていない「小面」のような造形は、「中間表情」と呼ばれています。わたしはこの「中間表現」が、日本人の表情の典型例を示しているのではないかと思います。

 これに対して、「般若」のような能面は、「瞬間表情」と呼ばれる対照的な造形で、鬼神や天狗、霊獣など、人間ではない超越したキャラクターに用いられます。表情の激しさを表現した能面が、人間ではないキャラクターとして扱われている点が、日本文化の特徴を現していると言えるでしょう。

 

微妙な表情が伝わるのは

 ところで、喜怒哀楽のどれかに寄せていない「中間表情」が、ほんの少し面の角度を上げ下げするだけで、晴れやかに見えたり、沈んで見えたりするのはどうしてでしょうか。それはわたしたちが、能面に現れる微妙な表現を、喜怒哀楽として理解出来る共通の文化を有しているからです。感情を顕わにしなくても、微妙な表情の変化によって気持ちを推し量る訓練を、わたしたち日本人は幼少期から受けているのです。

 反対に、「瞬間表情」と呼ばれる喜怒哀楽の激しい表現は、人間の表情として、好ましくないと見なされてきました。そのため人びとは、口を手や袖や扇子で隠し、お歯黒の風習を伝え、そしてマスクをしてきました。

 このようにマスクには、日本文化として受け継がれてきた側面があるのです。

 

診療への影響は

 マスクが日本文化に裏付けられた存在であり、新型コロナ感染症によって日本人に定着してしまったことで、生じる問題はないのでしょうか。

 わたしたち精神科の診療が、その一つです。マスクをしていると患者さんの表情が読み取りにくくなりますし、患者さんからもわたしたち治療者の表情が見えにくくなりますから、感情の交流が失われ、治療に悪い影響が生じることが心配されました。

 しかし、わたしの実感では、そうした悪影響はあまり生じなかった印象があります。マスクをしていても、感情は概ね理解することができましたし、治療側の感情も概ね伝わっていたと思います。それはなぜかと言うと、一つはわたしたち日本人が、感情を顕わにしなくても微妙な表情の変化によって気持ちを推し量る訓練を、幼少時から受けてきているからだと考えられます。

 

目は口ほどにものを言い

 もう一つの理由は、日本人は口による感情の表現よりも、目による表現によって人の感情を理解することが多いことにあります。口による感情表現を重視してこなかった日本人は、代わりに目による表現に重きを置いてきました。ことわざにもあるように、「目は口ほどにものを言う」のです。

 日本人は口による感情の顕わな表出よりも、そこはかとなく感じられる目の表現を重視してきたのかも知れません。「俺の目を見ろ 何にも言うな」という演歌の歌詞が、それを端的に現しているでしょう(北島三郎の『兄弟仁義』の一節ですが、もう知らない人の方が多いでしょうか)。日本では、口で表現しなくても目をみれは相手の気持ちが充分に理解出来ることが、親しい人間関係を構築できた証だと捉えられてきたのです。

 

 以上のように、マスクは日本文化に根付いた習慣であり、欧米諸国のように新型コロナが減少すれば簡単に手放せるものではないようです。

 では、これから熱中症が増加する季節になっても、わたしたちはマスクを外すことはできないのでしょうか。(続く)