江戸時代にはなぜ戦いのない世が実現したのか(2)

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 前回のブログでは、五代将軍綱吉の治世の前後で「世の中のことはすべて武力で解決すればいい」という常識から、「すべて物事はおだやかに法と道徳にのっとって解決すべきだ」という常識へと大転換が起こったことを検討しました。それは戦いのない世の中をつくるために必要な、人々の気質の変化をもたらしました。

 今回は、人々の攻撃欲動が増大しないために、江戸時代にいかに均質な社会が目指されたのかを検討したいと思います。

 

絶対的な支配者を作らない

  太平の世を実現するために、日本社会ではさまざまな試みがなされています。その一つが、社会をなるべく均質化させることでした。格差や貧富の隔たりは和を乱す要因となり、さらに戦いを生み出す直接的で現実的な要因ともなるからです。そのため日本社会では、助け合いによって最下層を引き上げる行動原理が存在すると同時に、絶対者を生み出さない社会原理も存在します。
 日本社会には、歴史的に絶対的な支配者は存在してきませんでした。国家としての独立を図るために、中央集権的な律令体制を創って天皇という君主号を制定したものの、天皇は日本の絶対的な支配者にはなりませんでした。天皇は日本の権威を象徴する存在となり、政治的な権力はその時々の実力者が握りました。

 また、時の実力者もまた天皇の権威を利用しましたが、天皇にとって替わろうとする者は現れませんでした。天皇とその時代の支配者は権威と権力を分け持っていたのであり、日本社会ではこれが絶対的な支配者を創り出さないための安全弁として機能しました。
 この機能は、鎌倉幕府によって武家政治が誕生してから、厳密に言えば承久の乱(1221年)で北条氏が後鳥羽上皇との戦いに勝利して以降、より明確な形となりました。以後の日本社会では、権力は武家政府が、権威は天皇が担うという統治の仕組みが継承されました。天皇は日本という国を一つにまとめるためには不可欠な存在でしたが、事実上は権力を失い、権威のみを有する象徴的な存在になったのです。

 

織田信長が討たれたのは歴史的必然

 もちろん、例外は存在します。その代表が戦国乱世を治めた織田信長です。彼は各地の大名を戦いで撃ち破っただけでなく、当時に大きな力を持っていた寺社勢力をも討ち滅ぼしました。そして経済を振興すると共に、まったく新しい形態の国家を創ろうとしました。

 信長が天皇制を廃止しようとしたかどうかは定かではありません。しかし、ルイス・フロイスが『日本史』の中で、「彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、(中略)自らが単に地上の死すべき人間としてでなく、あたかも神秘的生命を有し、不滅の主であるかのように万人から礼賛されることを希望した」(『完訳フロイス日本史2』1)134頁)と述べているように、権力と権威を兼ね備えた絶対的な支配者になろうとしていたことは確かでしょう。
 しかし、日本社会ではこのような絶対者は存立しません。社会を変革するために誕生した彼のような絶対的な支配者は、その役目が終わると殺害されたり権力を失ったりするような社会的な力学が働くからです。したがって、織田信長本能寺の変で討たれたのは決して偶然ではなく、むしろ歴史的必然であったと言えるでしょう。

 

絶対的な概念も存在しない

 附言すれば、日本社会では絶対者が存在しないのと同様に、絶対的な概念やイデオロギーの追求も行われませんでした。絶対的な概念やイデオロギー間の対立は、和を乱して人々の対立を助長させ、悲愴な争いや戦いを引き起こしかねないからです。

 日本社会にキリスト教イスラム教といった、唯一絶対の神を戴く一神教が根づかなかった理由の一つがここにあると考えられます。そればかりか、日本の社会では神仏習合思想のように「神と仏は本来同一である」と捉えて、神道も仏教も社会に並存させてしまうのです。

 

江戸時代に進んだ社会の均質化

 江戸時代になると、社会の均質化はいっそう進みました。政治の権力は徳川幕府が握り、社会の権威は天皇が保持し、地方の政治は各藩が行うというように、権威や権力がなるべく分散するような体制が形作られました。身分制度をとってみても、身分が高いとされた武士や農民は経済的には恵まれず、身分の低い商人が豊かな生活を送ったというように、権力や財力が個人に集中せず、全体的にバランスが取られて不平不満が生じにくいような制度が創られていました。われわれは、経済的に困窮した武士が存在し、「武士は喰わねど高楊枝」と揶揄されたことを当たり前のように知っています。しかし、いったい日本以外のどこの世界に、支配層が貧困に喘いでいる社会が存在したでしょうか。
 社会の均質化は、自由という側面でも認められました。渡辺京二の『逝きし世の面影』2)によれば、幕末に日本を訪れたオランダの海軍軍人であるカッテンディーケは、次のように述べたといいます。

 

 「『日本の下層階級は、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享受している。そうして彼らの権利は驚くばかり尊重せられていると思う』。(中略)そのように民衆が自由なのは、日本では下層民が『全然上層民と関係がないから』である。上層民たる武士階級は『地位が高ければ高いほど、人目に触れず閉じ籠もってしまい』、格式と慣習の『奴隷』となっている。『これに反して、町人は個人的自由を享受している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である』。法規は厳しいが、裁きは公平で、『法規と慣習さえ尊重すれば、決して危険はない』」(『逝きし世の面影』264頁)

 

 江戸時代の社会では、下層民がむしろ自由を享受し、上層民になればなるほど「慣習と格式の奴隷」になっているというのです。
 渡辺はこの点について、幕藩権力は年貢の徴収や一揆の禁令といった国政レベルの領域では強権を振るったが、民衆の日常生活の領域には可能な限り立ち入ることを避けたと述べています。そして、それは民衆の共同体に自治の領域が存在したことを示しており、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していたと指摘しています(同269頁)。

 

下層を支える仕組み

 一方で、日本社会では下層を引き上げようとする原理も存在しています。
 たとえば、渡辺尚志の『百姓の力』3)によれば、江戸時代の村落共同体には次のような社会的弱者への救済の仕組みがあったといいます。

 

 「村は、老人・病人・孤児・寡婦など、社会的弱者・困窮者に対する保護・救済機能をもっていました。疾病・傷害・老齢などにより村人の生活が困窮したときは、まず家族・親族が扶養します。しかし経済的理由などから、それだけでは扶養が困難という場合もあるでしょう。そのときは、同族団や五人組、さらには村が援助の手をさしのべました。さまざまな地縁的・血縁的集団が、相互に補完し合いながら相互扶助を実現していたのです」(『百姓の力』132頁)

 

 五人組は、年貢の連帯責任や犯罪の相互防止を目的として設定された組織でしたが、このように相互扶助組織としても機能していました。援助の方法は、具体的には村が住居や仕事の世話をしたり、村の有力者が困窮者に金品を与えることもあったといいます(同132頁)。
 さらに、救済のための相互金融組織までが存在しました。

 

 「困窮者救済のために、無尽(むじん)や頼母子(たのもし)(講)がつくられることもありました。無尽と頼母子はほぼ同様のもので、発起人(親)が参加者(出資者)を募って組合(講)をつくる、相互金融組織です。参加者は定期的に一定額の掛け金を出し、メンバーはくじ引きなどによって順番に、掛け金の額相応の金品を受けとっていくというかたちです。困窮者救済を目的とする無尽・頼母子の場合は、最初に困窮者が金を受け取ることに決めておきます。困窮者はその金で、経営の立て直しを図ることができたのです」(『百姓の力』132-133頁)

 

 無尽講あるいは頼母子講は、鎌倉時代に登場し、江戸時代になると大衆的な金融手段として確立して行きました。くじに当たった者(順番に全員が当たった)が掛け金相応の金品を受けとることもあれば、総取りする形態のものもありました。救済目的で行われる場合では、困窮した者が、参加者から出資された金品をまとまった額として受けとることができました。この場合は、出資した金品が帰ってこない者も出ますが、明日は自分が困窮する立場になるかも知れません。この意味で無尽講や頼母子講は、まさに「情けは人のためならず」を地で行くような救済システムでした。
 以上は、江戸時代の村落共同体の秩序を保つために作られた仕組みです。日本社会の共同体一般には、社会的弱者や困窮者を救済するためのこのような機能が存在していました。そこには共同体の弱者を救済し、共同体の成員をなるべく均質化しようとする力動が働いています。そのことによって、無用な諍いや争いが起きないように共同体が運営されていたのです。(続く)

 

 

文献

1)ルイス・フロイス松田毅一,川崎桃太 訳):完訳フロイス日本史3 織田信長篇   Ⅲ 安土城本能寺の変中央公論社,東京,2000.
2)渡辺京二:逝きし世の面影.平凡社,東京,2005.
3)渡辺尚志:百姓の力 江戸時代から見える日本.柏書房,東京,2008.