奈良と京都に行ってきました

 今週は遅い夏期休暇をとって、奈良と京都に旅行に行ってきました。そのため、通常のブログは休ませていただきます。代わりに、旅行で撮った写真をもとに、旅の軌跡をたどってみたいと思います。

 

 奈良県に来てまず向かったのが、安倍元総理が暗殺された現場である大和西大寺駅前です。

 この写真は、安倍さんが演説をしている最中に射殺された現場です。撮影したのは、10月8日の月命日の日でした。土曜日だというのに、人通りはそれほど多くなく、道を行き交う人もまばらでした。たった3ヶ月前にここで、日本のみならず世界を驚愕させた事件が起きたとは、今となっては想像もできません。

 

 現場には、「立ち止まらずに通行して下さい」、「お花やお供えなどは、個人へのお気持ちと共にお持ち帰り下さい」という張り紙がありました。

 しかし、現場には今も花が添えられており、道行く人びとが立ち止まって、代わる代わる手を合わせて安倍さんを偲んでいました。安倍さんに合掌しているのは、巷間で言われているような若い人だけでなく、中高年のおじさんやおばさんの姿もあってちょっとほっとしました。もちろん、わたしたち夫婦も手を合わせ、安倍さんへのお礼の気持ちを心の中で唱え、安らかにお眠り下さいという祈りを捧げてきました。

 

 わたしは、奈良という古都は大好きで、だからこそ今年も奈良を訪れたのですが、今回の奈良県警奈良市の対応だけは許すことができません。安倍元総理は、奈良県警奈良市によって、三度殺されることになったとわたしは思います。

 一度目は言うまでもなく、奈良県警のずさんで稚拙な警護によって、選挙演説中に、しかも白昼堂々と暗殺者による殺害を許してしまったことです。

 二度目の殺害は、奈良県警がマスコミに、次のようなリークをしたことで起こりました。山上容疑者の殺害動機は、母親が傾倒した旧統一教会への復讐であり、その矛先が旧統一教会と深い関係にあった安倍元総理に向かったとするものです。山上容疑者は現在精神鑑定中で、実際の動機はこれから裁判で明らかにされるはずであり、まだ真実は何も解明されていません。奈良県警はこのリークによって、非難の矛先が自らに向かわないようにすることには成功しました。その代わりに、反安倍のマスコミとアベガーたちからの「殺害されたのは安倍の方が悪い」「山上はむしろ犠牲者だ」というとんでもない詭弁を生みました。そして、国葬儀で反対のデモを行うという、恥ずべき行為をする日本人が存在することを世界中に知らしめました。さらには、安倍元総理を徹底的に貶めたという意味での「名誉の殺害」を引き起こしました。

 三度目の殺害は、奈良市が殺害現場に、慰霊碑などのモニュメントは作らないと決定したことです。その理由として、奈良市は「モニュメント反対派が多数を占めたこと」を挙げ、ホームページの中で「『構造物で弔意を示すことはしない』という判断に至りました。その代わり、事件現場を明るく整備し、人が笑顔で行き交う憩いの場にしていくことで、市民の安全と平和を希求する気持ちを象徴する場になれば、と考えています」と記しています。まるで、小学校のホームルームのような議論です。暗殺現場にモニュメントを残さなければ、事件はやがて風化してしまう恐れがあります。今回の奈良市の対応は、安倍氏殺害の事実を、歴史から封殺することに繋がりかねません。

 民主主義の根幹である選挙の最中に、白昼堂々と行われた暗殺事件に真摯に向き合わず、真の原因も解明しないまま歴史の闇に葬り去れば、同じような事件が何度でも繰り返されるでしょう。触れたくない事実に向き合わずに無意識に抑圧すれば、同じ失敗が何度でも繰り返される現象は、精神分析がつとに指摘してきたことです。

 

 さて、気を取り直して旅の軌跡をたどりましょう。

 奈良市で新薬師寺春日大社を訪れた後、レンタカーを借りて斑鳩法隆寺を訪れました。

 写真は、上が法隆寺五重塔、下が金堂と五重塔です。

 五重塔や金堂がある西院伽藍は、言わずと知れた、日本が誇る世界最古の木造建造物です。聖徳太子が父用明天皇のために607年(推古15年)に創建したとされていますが、このときの寺院は落雷によって焼失しており、現在の西院伽藍は8世紀初頭に再建されたものと考えられています。

 再建時期には諸説あるようですが、いずれにしても1,300年以上の間、木造建築物が保存されているということ自体が驚異的なことです。木は火災に弱いだけでなく、腐食したり破損しやすいからです。そのために何代にもわたって、宮大工さんたちが点検と修復を繰り返してきました。つまり、受け継がれてきた高度な技術があったからこそ、法隆寺は現在も存在し続けているのです。

 

 さらに驚くべきは、創建当時の先見的な取り組みです。

 これは中門にある柱の写真です。この柱には、長い月日が経つと起こる干割れ(ひわれ)が生じていません。なぜだと思いますか。

 木は表面と中心部では水分の含有量が異なり、中心に向かうほど含有量が少なくなります。そのため長い時間を経て乾燥すると歪みが生じ、木には干割れが入ります。それを避けるために法隆寺の柱は、1本の木から作られたものではなく、非常に大きな木を4分割して、それぞれを1本の柱としたと言うのです。そうすれば各柱の中の水分の含有量の差が少なくなり、干割れが生じにくくなるからです。

 直径数十センチの太い柱が4本も作れるヒノキの巨木があったことも驚きですが、当時の宮大工さんたちが何百年も先のことを想定し、わざわざ困難な作業をいとわずに行った事実こそ、驚嘆に値するのではないでしょうか。

 今日の国際社会では、持続可能な開発目標(SDGsSustainable Development Goals)が提唱されていますが、日本では飛鳥時代には、SDGsが当たり前に行われていたのです。

 

 場所を京都に移しましょう。

 写真は、産寧(さんねん)坂から撮った法観寺五重塔の夜景です。法観寺京都市東山区坂上町にある臨済宗の寺院で、街にそびえ立つ五重塔は、通称「八坂の塔」と呼ばれています。八坂の塔は、聖徳太子如意輪観音の夢告にによって建てられたと伝承されており、現在の塔は1440年に足利義教によって再建されたものだといいます。

 法隆寺法観寺など、聖徳太子が建立に関わった寺院は現在も多く残されています。このことからも、聖徳太子がその後の日本に、多くの影響を与え続けていることが分かります。

 

 写真は、京都市東山区にある知恩院で、上が三門、下が本堂(御影堂)です。

 知恩院は浄土宗の総本山で、宗祖である法然上人が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院です。

 知恩院の敷地の近隣には、浄土真宗大谷派東本願寺)が所有する墓地である大谷祖廟(おおたにそびょう)があります。

 写真は、大谷祖廟にある親鸞聖人廟です。親鸞聖人は浄土真宗の宗祖です。

 わたしの実家の菩提寺が浄土宗、妻の実家の菩提寺浄土真宗大谷派であり、今回の旅では知恩院と大谷祖廟を訪れました。

 

 ところで、浄土宗と浄土真宗を合わせると、日本人の8割になると言われるほど両宗派は日本に浸透しています。それは、両宗派が極めて日本的な仏教であることに関係しています。

 日本のお坊さんは普通に結婚して食事では肉を食べ、そしてお酒も飲みますが、これは仏教徒として当たり前のことではありません。肉食妻帯や飲酒は日本のお坊さんだけにみられる特殊な現象であり、海外の仏教徒、特に修行僧では決して許されることではないのです。なぜこのようなことがみられるかと言えば、仏教が日本文化によって変質し、極めて日本的な宗教に生まれ変わったからです。

 その足跡を、簡単にたどってみましょう。

 

 仏教における行動規範は「戒律」と呼ばれており、これは悟りを開くためには必要不可欠な行動規範です。この戒律を日本で最初に簡略化したのが、天台宗を開いた最澄です。

 仏教には具足戒(ぐそくかい)といって、男性の出家者である比丘(びく)が守るべき法が250、女性の出家者である比丘尼(びくに)が守るべき法が384もあります。最澄はこれを、菩薩戒(大乗戒)という58の法でよいとしました。

 さらに天台宗では、天台本覚論という思想が生まれました。本覚とは「本来の覚性」のことで、生きとし生けるものはみな、悟りを得るための知恵を有しているという思想です。本覚思想はもともとインドや中国で誕生したものですが、天台本覚論の特徴は、仏になる対象が、動物にとどまらず植物にまで、さらには生命のない鉱物にまで拡張されたことにあります。これは、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉で表現されています。

 仏性を有するものが草木や国土にまで拡張されたのには、神道の影響があると思われます。神道は、滝や高木などの自然や自然現象の中に八百万の神々を見い出す多神教です。山や川、滝や高木に神々が存在するなら、これらに仏性を見出すのは難しいことではないでしょう。

 天台本覚論を背景に登場したのが、法然が提唱した専修念仏の思想です。法然はなんと、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで「極楽浄土」に往生できると主張しました。悟りは厳しい戒律を守り抜いた修行僧だけが得られるのではなく、阿弥陀仏に帰依した全ての人に訪れると言うのです。この革命的な思想には、全ての人が同じように救われれるべきだという和の文化の影響が見て取れます。

 いずれにしても、ここに至って日本仏教では、戒律は完全に存在意義を失うことになりました。

 専修念仏の思想は、親鸞によって深化を遂げてゆきます。法然の弟子であった親鸞は、悟りを開くための人間の無力さをさらに追求しました。その結果、救いを受けるための自己の努力は一切必要ないとされ、それは「南無阿弥陀仏」と唱えることにさえ及びました。念仏を唱えるから救われるのではなく、念仏を称えようと思い立ったその刹那に、すでにわれわれは救われていると親鸞は考えたのです。

 こうして親鸞の念仏は、救いを得るために唱える念仏ではなく、救ってもらった阿弥陀仏に感謝を捧げるために唱える「南無阿弥陀仏」になりました。浄土真宗ではこれを、報恩感謝の念仏と呼んでいます。

 仏教から戒律を排した親鸞は、私生活でも破戒行為を行いました。よく知られているように、肉食を行い、妻帯し、子をもうけました。ここから、現代の僧侶が「肉食妻帯」を行う慣例が始まりました。

 

 日本仏教はこのように、念仏を唱えるだけで救われるという特異な宗教に変貌しました。それは、本当に仏教と呼んでもいいのかというほどの変貌です。その背景には先に述べた神道の影響、さらには和の文化を創始した聖徳太子の影響があったと考えられます。

 晩年の親鸞が、聖徳太子の和讃(和語を用いて褒め称える賛歌)を数多く残したことが知られています。それだけでなく、最晩年に至って親鸞は、聖徳太子を「和国の教主聖徳皇」と位置づけています。これは聖徳太子を、日本仏教の教主として捉えることを意味します。聖徳太子仏教徒でしたが、本来は一政治家に過ぎなかったのにです。

 しかし、和の文化が日本仏教の発展にいかに重要な影響を与えたのかを考えれば、親鸞のこの位置づけは、まさに正鵠を射たものだと言えるでしょう。

 

 さて、最後の写真は、護国神社にある坂本龍馬中岡慎太郎のお墓です。

 幕末の志士として、縦横無尽の活躍をみせた坂本龍馬は、志半ばで暗殺されました。その亡骸は、他の憂国の志士と共に、京都市東山区にある京都霊山護国神社に祀られています。

 今回の旅は、日本のために尽力しながら志半ばで凶弾に倒れた安倍元総理に始まりました。坂本龍馬が倒れた後に日本を救った志士が続いたように、安倍さんが亡くなった後にも、危機が迫る日本を救ってくれる日本人は現れてくれるのでしょうか。(了)