韓国はなぜ繰り返し賠償を求めてくるのか(14)

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 朝鮮の人々は中華帝国の属国として臣属し、千年以上の長きにわたって牛馬や金銀や宦官の他に、高貴な女性までも貢ぎ物として献上するという屈辱的な扱いを受け続けてきました。しかし、この屈辱的な記憶は意識されることなく、韓国の人々の無意識の中に伝承され続けてきました。 

 では、なぜこの記憶は、意識化されることがなかったのでしょうか。

 

圧倒的な武力で押さえつけられた

 中華帝国は、一つの民族が作り上げたものでも、正当な継承基準があるわけでもありません。武力で前の王朝を滅ぼし、中原を勝ち取った国が中華帝国を名乗りました。つまり、武力で勝る民族がそれまでの民族を滅ぼし、殺戮を繰り返して打ち立てた歴代の王朝が中華帝国の国々です。中国では、徳のある統治者がその徳をもって人民を治めるべきであるとする徳知主義とは、まるで正反対のことが行われてきたのです。

 朝鮮の人々は常に、最も武力で勝る王朝と対峙しなければなりませんでした。その戦力差は圧倒的でした。

 実例を挙げれば、清の前身である後金国と、朝鮮は明とともに戦いましたが惨敗します。さらに後金は1627年に朝鮮半島に侵入し、瞬く間に朝鮮軍を打ち破りました。これは丁卯胡乱(ていぼうこらん)と呼ばれます。

 さらに1636年にホンタイジ王は国号を大清と改め、明を攻撃し、朝鮮に侵攻してきました。このとき清から攻め入った先遣隊はわずか4300名でしたが、朝鮮の軍隊は全く歯が立たず、46日後には無条件降伏して清に臣属することになりました。これを丙子胡乱 (へいしこらん)と呼びます。

 ホンタイジは、朝鮮国王の非礼と自分の威徳を後世に残すため、「大清皇帝功徳碑」を漢城(ソウル)郊外に建立させました。この後に朝鮮の国王は、清朝皇帝に三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼(三度ひざまずき、九度頭を地に着ける)をもって忠誠を誓わされることになったのです。

 

踏みつけられ続けた朝鮮

 韓国では上記の「大清皇帝功徳碑」は、「恥辱碑」と呼ばれているそうです。しかし、朝鮮の人々は、この恥辱を晴らそうと臥薪嘗胆をこころに決め、いつか中原を目指して中華帝国を打ち立てる野望を抱くことも、中国に対して「千年恨」を訴えることもありませんでした。

 こうして朝鮮は、新羅の朝鮮統一から下関条約による独立までの千二百年もの間、武力によって中華帝国に押さえつけられました。そして、この間に朝鮮の人々は、中華帝国の圧倒的な武力を恐れて、屈辱の記憶を無意識の中に抑圧し続けたのです。まさにその姿は、中華帝国に踏みつけられ続けていたと言っても過言ではないでしょう。

 このような歴史を鑑みてみれば、サッカーユース国際大会「パンダ・カップ2019」の決勝戦で、中国代表を破って見事優勝した韓国の青年が、思わず優勝カップを踏みつけてしまった気持ちが理解できるのではないでしょうか。

 

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 しかし、この屈辱感の解放は中国からも韓国社会からも許されることはなく、再び無意識の中に抑圧されたのです。

 

小中華思想 

 では、屈辱の歴史を無意識に抑圧した朝鮮の人々は、中華帝国との関係を意識的にはどのように捉えていたのでしょうか。

 朝鮮の人々は、中華帝国に武力で無理やり従属させられたのではなく、自ら進んで中華帝国の柵封体制に入ったのだと思い込もうとしました。そして、柵封体制の他の国々を蛮族国として捉え、自らを中華帝国よりも中華的であろうとする(つまり、中華帝国の柵封体制の中で最も優秀な国であろうとする)ことで、自らの自尊心を保とうとしたのです。これは、「小中華思想」と呼ばれます。

 特に李氏朝鮮は、儒教王国を目指しました。儒教といっても孔子孟子ではなく、朝鮮が重視したのは南宋時代に誕生した朱子学です。明の時代になると、宗主国である明よりも儒教を徹底することで、自らの自尊心を維持しようとしました。

 この姿勢は、清の時代になっても維持されました。朝鮮の人々は、中華で生まれた儒教思想の本当の後継者は自分たちであると信じ、それを密かに自尊心の拠り所にしていたのです。

 

屈辱感の行方

 中華帝国に踏みつけられ続けた記憶は無意識に抑圧されましたが、その屈辱感が消えてしまったわけではありません。その屈辱感の一部は、自国民に向けられました。

 朝鮮では、貴族や両班といった支配階層と、賤民などの被支配階層が明確に分かれていました。そして、賤民は激しく差別され、非人間的な扱いと時にはすさまじい暴力を受けました。

 ローマ・カトリック教会に朝鮮の状況を詳細に紹介した『朝鮮事情』1)には、朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢であると記されています。また、朝鮮の両班は、いたるところでまるで支配者か暴君のごとくふるまっていると指摘し、商人や農民を捕らえて金を出させ、出さない場合は投獄し、食物も与えず、金を支払うまでムチを打ったと書かれています。

 さらに、両班の残忍さを示す、以下のような実話が載せられています。

 

 「みじめで、みすぼらしい風態をした一人の両班が、郡衙の近くを通っていた。そこへ、泥棒を捜していた四人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶしつけな質問をした。すると両班は答えた。『はい、そうです。私の家までついて来てくだされば、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます』。

 捕卒たちがついて行ったところ、この両班は、家に着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕らえさせ、さんざん殴りつけた、そのあと、そのうち三人からは両眼をえぐり取り、残る一人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを送り帰した。『この野郎ども。わかったか。これからはよーく見て歩けっ。お前らが郡衙に帰れるように、目の玉一つだけ残してやったんだ』」(『朝鮮事情』193‐194頁)

 

 この野蛮極まりない行為は、罰を受けることはありませんでした。同書には、これに似た例はいくらでもあると記されています。

 この話からは、両班たちの異常なまでのプライドの高さと共に、泥棒に間違われただけで相手を殴りつけて両目をえぐり取るという、傷つきやすさと残忍さが同居している様を見て取ることができるでしょう。

 

中華帝国になりきる

 朝鮮はこうして、歴代の中華帝国から武力で押さえつけられ続けた屈辱感を無意識に抑圧し、自らを柵封体制の優等生として、他の国々を蛮族として位置付けることによってかろうじて自尊心を維持してきました。

 また、個人のレベルでは、次のようにしてこの屈辱感を乗り越えようとしました。中華帝国と朝鮮との関係を、国内の支配層と被支配層の関係に移し替えました。そして、貴族や両班などの支配層が中華帝国の立場にたって、朝鮮の立場である被支配層を押さえつけ、激しい攻撃性を向けました。このように自らが中華帝国になりきることで、押さえつけられている屈辱感を解消しようとしたのでした。

 ただし、この方法では、朝鮮の立場にさせられた被支配層の人々は、一層の屈辱感を味わうことになるため、社会の深層には屈辱感が残されていました。

 

パンドラの箱を開ける

 以上のような微妙なバランスで保たれてきた中華帝国と朝鮮の関係を、大きく変えてしまう国が現れました。それが大日本帝国でした。

 日本は近代化を成し遂げ、日清戦争に勝利し、下関条約で朝鮮を独立させました。さらに日露戦争に勝利した後には、朝鮮を併合したのでした。

 柵封体制の優等生として自尊心を保ってきた朝鮮は、蛮族であったはずの日本に併合されました。そのため朝鮮では、新たな屈辱感が渦巻くことになりました。それは、千二百年間の屈辱感を一気に放出させる契機になりました。日本はまさに、パンドラの箱を開けてしまったのです。

 その結果がどうなったのかは、次回のブログで検討することにしましょう。(続く)

 

 

文献

1)シャルル・ダレ(金 容権 訳):朝鮮事情.平凡社,東京,1979.