空気とは何で、どのようにして作られるのか(2)

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 前回のブログで、空気は強固な支配力を持ち、抵抗することが困難で、その場にいる人々の判断に大きな影響力を与えること、そして、この判断は論理的な言葉では説明できないことことを検討しました。
 空気が形成される過程では、非言語的コミュニケーション、たとえば身振り手振り、表情、声の質・大きさ、話し方、服装や外見も含めた雰囲気などが重要な役割を果たします。この非言語的なコミュニケーションによって、さまざまな欲望や喜怒哀楽などの感情などが表現され、これらの欲望や感情が伝えられて、その場に特有の共通した欲望や感情になって行きます。
 今回のブログでは、なぜ場に共通した欲望や感情が出来上がるのか、そして、こうして出来上がった共通の欲望や感情が、場の空気にどのように繋がっていくのかを検討したいと思います。

民族で異なる空気
 まず、非言語的コミュニケーションによって表現された欲望や感情が、なぜその場で共有され、共通した欲望や感情になるのかを考えてみましょう。
 前回のブログで取り上げた『「空気」の研究』1)に、興味深い事例が挙げられています。

 イスラエルで遺跡を発掘した際に、古代の墓地からたくさんの人骨・髑髏(されこうべ)が出てきました。その人骨を投棄する作業が相当量になり、日本人とユダヤ人が共同で人骨を運ぶことになりました。それが1週間ほど続くと、ユダヤ人の方は何ともなかったのですが、日本人二人は様子がおかしくなり、病人同様の状態になってしまいました。ところが、この人骨廃棄が終わると、二人ともけろりと治ってしまったというのです。ちなみにこの二人の日本人は、共にクリスチャンだったとのことです。

 山本は、この人骨・髑髏が日本人の心理に影響を与えたものが、「空気の基本型」であるといいます。そして日本人二人は、墓地発掘の「現場の空気」に耐えられず、ついに半病人なって休まざるを得なくなったと指摘しています。(以上、同上32-33頁)。

人骨が呼び起こすもの
 人骨は単なる物質に過ぎませんが、確かにわたしたち日本人は、他の物質と同じように扱えないかもしれません。遺骨という言葉があるように、わたしたちは骨をその人の形見と捉え、先祖代々の墓で大切に保管しているからです。したがって、人骨は日本人にとっては故人を思い出させるものであり、故人から連想される喜怒哀楽などのさまざまな感情を呼び覚ますものでもあるでしょう。また、死を連想させると同時に、怨霊信仰の強い日本人では、祟りや災いをもたらすものと認識される場合もあるでしょう。骨を扱って半病人になった先の日本人は、まさに「骨に祟られた」と言えるのかもしれません。

無意識の記憶
 では、同じ人骨が、日本人とユダヤ人では異なるものとして認識され、墓地発掘の場に、日本人とユダヤ人では異なる空気が形成されるのはどうしてでしょうか。
 ここで、フロイト精神分析を紐解いてみましょう。
 フロイトは、個人の精神発達の過程を次のように説明しています。

 「生まれてから五年間の経験は人生に決定的な影響を与え、その後の経験はこれに抵抗することなどできない。(中略)この体験され理解されなかった事柄は、後年になって何らかのときに強迫的衝動性を伴って彼らの人生に侵入し、彼らの行動を支配し、彼らに否も応もなく共感と反感を惹き起こし、しばしば、理性的には根拠づけられないかたちで彼らの愛情選択まで決定してしまう」(『モーセ一神教2)188-189頁)

 個人の成育史において、自我が形成されるまでの最初期の体験は、意識され、理解されることはありません。それまでに存在していた欲動やそれを呼び起こす経験の記憶が、他者からの禁止によって無意識へと抑圧させられるからです。一方で、禁止を受け入れることによって個人は初めて社会の掟に参画できるのであり、その結果として、社会的存在としての自我が成立します。
 しかし、無意識へと追いやられたものは消滅したわけではなく、無意識のうちに残存し続けます。そして、無意識の中にあるものは、その成り立ちからの性質上、意識できないものであるからこそコントロールすることができず、個人の精神を揺り動かし、行動までも支配してしまうのです。
 人骨を扱って半病人になった先の日本人たちは、生まれてから5年間に、日本文化に基づいた規範やさまざまな経験の記憶を積み重ねたのでしょう。そのために彼らは、クリスチャンであったにもかかわらず、日本人に典型的な反応を示したのだと思われます。

共通の欲望や感情が形成されるのは
 以上の検討では、日本人二人が同じ反応を示した事例をみてきました。次に、これがもう少し大きな集団で起こる場合を検討してみましょう。
 数人から数十人の集団で空気が形成される場合は、まずこの集団の中で個人から非言語的コミュニケーションによる情報が発せられます。この情報は、さまざまな欲望や喜怒哀楽などの感情などです。

 そして、この情報は、他の人たちの共感や反発を呼び起こします。こうして何人かの人々の間でコミュニケーションが交わされる中で、次第に場の中で共通した欲望や感情が形成されて行きます。
 この共通した欲望や感情が形成される過程で、無意識の記憶が重要な役割を果たすのです。

 

個人の無意識に共通する記憶

 個人の欲望や感情は、一般に言われるように本能によって発現されるのではありません。文化に従って生きるようになった人間は、本能に従って生きられなくなり、その結果本能は、欲動や欲望に姿を変えました。欲動や欲望、そしてこれらから導かれる感情は、本能の代わりの役割を果たす無意識の記憶に触発されて起こります(この経緯の詳細は、1月のブログ「人はなぜ戦争をするのか」をご参照ください)。

 したがって、無意識に同じ記憶があるとすれば、その記憶は共通の欲望や感情を引き起こします。つまり、その場に共通の欲望や感情が起こるのは、その場にいる人々の無意識に共通の記憶が存在しているからだと考えられます。

 もし、無意識に共通の記憶を持たない人がその場にいれば、人骨を扱っても何も感じなかったユダヤ人のように、同じ欲望や感情を感じることはないでしょう。

 さて、以上の検討から考えられる場の空気の正体とは、以下のように定義できると思われます。

 

 空気とは、人々に共通する無意識の記憶によって惹起された、共同化された欲望や感情である。

 

 では、空気がその場だけではなく、社会全体の空気になっていくのはどうしてでしょうか。次回のブログでは、その経緯を検討してみたいと思います。(続く)

 

 

文献

1)山本七平:「空気」の研究.文藝春秋,東京,1983.
2)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.