人はなぜ依存症になるのか 依存症をつくらない社会とは(2)

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 前回のブログでは、現代の資本主義の問題について検討しました。現代の資本主義は、「国や社会が豊になる」「人々が幸せになる」ことが目的ではなくなり、「特定の個人が豊かになる」「多くの金を得る」ことが目的になりました。その結果として、少しでもたくさんのものを売るという目的のためにリピーターや依存症者が生まれ、社会問題化するようになりました。

 社会から「国や社会が豊になる」「人々が幸せになる」という公益性が失われるのは、資本主義なら当然の帰結なのでしょうか。

 今回のブログでは、この問題について検討したいと思います。

 

資本主義は金儲けが目的ではない

 資本主義は、元来は金儲けをするための経済システムではありませんでした。

 そのことを最初に指摘したのは、宗教社会学の泰斗として有名なマックス・ヴェーバーです。

 ヴェーバー研究の第一人者である大塚久雄氏によれば、ヴェーバーの考察は次の疑問に注目することから始まっています。それは、近代の資本主義がなぜ中世以降のヨーロッパに興り、その他の地域や別の時代には興らなかったのかという疑問です。

 それまでにも中国やインド、ギリシア・ローマにおいて、商業の発達や流通機構の整備がなされ、加えて商業に対する倫理規制のない自由で合理的な精神が育まれていました。通常の考え方によれば、資本主義はこのような条件のもとに発生するはずでした。
 しかし、現実にはこれらの地域では近代的な資本主義は興りませんでした。そればかりか、営利の追求を敵視するプロテスタンティズムの倫理が支配した地域で発達することになりました。この歴史的事実の逆説を解明したのが、ヴェーバーによる考察の主旨なのです。
 近代資本主義の成立には、産業技術の発達が必要です。イギリスに興った産業革命が、資本主義社会の確立を後押ししたことは異論のないところでしょう。しかし、技術が発達しただけでは資本主義は成立しません。なぜなら、資本主義が成立するためには「資本主義の精神」が不可欠だったからです。

 

資本主義の精神とは

 資本主義の精神について、ヴェーバーは次のように述べています。

 

 「少なくとも勤労時間の間は、どうすればできるだけ楽に、できるだけ働かないで、しかもふだんと同じ賃銀がとれるか、などということを絶えず考えたりするのではなくて、あたかも労働が絶対的な自己目的- 》Beruf《「天職」-であるかのように励むという心情が一般に必要となるからだ。しかし、こうした心情は、決して、人間が生まれつきもっているものではない。また、高賃銀や低賃銀という操作で直接作り出すことができるものでもなくて、むしろ、長年月の教育の結果としてはじめて生まれてくるものなのだ」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神1)67頁)

 

 労働に対するこのような精神が存在しない社会では、資本主義は成立しません。なぜなら、労働が単に生活を維持するためだけに行われるのであれば、必要な賃金だけを得られればいいのであって、それ以上の労働を必要としないからです。

 資本主義の精神が存在しない社会では、賃金が増えれば人々はその分だけ働かなくなり、労働以外に時間を振り分けることになります。余分な労働が行われないために、その結果として社会的規模で資本の蓄積が生まれることはありません。
 つまり、資本主義の精神とは、過剰な労働が社会的規模で行われるための精神であると言い換えることができるでしょう。そこでは、労働は人生におけるある目的のために行われる手段ではなく、労働自体が生きる目的になるという逆転が起こっています。このような心情は、人間が生まれながらに持っているものではなく、長年の教育によってもたらされるのだとヴェーバーは言うのです。

 

ルターの天職概念

 では、資本主義の精神はどのようにして生まれたのでしょうか。ヴェーバーは、それがルターの「天職概念」と、カルヴァンが導いた「禁欲的生活態度」によって形成されたと指摘しています。
 ここでは、ルターの天職概念について述べてみましょう。
 教皇による免罪符の販売に反対したルターは、信仰の根拠を聖書のみに置くことを主張したことで知られています。教皇を頂点とした教会の権威と対立することになったルターは、宗教の実践を、教会という世俗の外部から世俗の内部に移し替えることを目指しました。そして、世俗的職業における義務の遂行を、道徳的実践の持ちうる最高の内容として重視しました。
 つまり、宗教的実践は、教会に祈りを捧げることではなく、日常の職業を全うすることによって達成されるという道標を提示したのです。それは世俗的日常労働に宗教的意義を認める思想を生み、そうした意味での天職(Beruf)という概念を最初に作り出すことに繋がりました。
 その結果を、ヴェーバーは次のように述べています。

 

 「どんな場合にも世俗内的義務の遂行こそが神に喜ばれる唯一の道であって、これが、そしてこれのみが神の意志であり、したがって許容されている世俗的職業はすべて神の前ではまったくひとしい価値をもつ、ということがその後指摘されつづけたばかりでなく、ますます強調されるようになっていった」(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』111頁)

 

 こうして、自らに与えられた職業の実践こそ最高の信仰の証しであるという見解が、プロテスタントの教義として示されました。このことによって、職業は生活の糧を得るための手段ではなくなり、職業の実践そのものが神の意思に従う行為であり、世俗内労働がキリスト教徒としての生きる目的に変換されました。

 さらに、カルヴァンが導いた「禁欲的生活態度」によって、自らが救われていることを確証するために善行を重ねるかのごとく働き続けるというエートスが、資本主義の精神となって結実したのです(その詳細については、2018年2月~3月のブログ『資本主義はなぜ世界を席巻しているのか』をご参照ください)。

 

神の退場と資本主義の精神

 こうしてキリスト教から多大な影響を受けて成立した資本主義の精神でしたが、近代化が進展して神が社会の表舞台から退場すると、次第にその実態が変容して行きました。

 社会の表舞台から神が退場した後には、ヒトラーチャーチルローズヴェルトといった全能の神の代替者が一時的に資本主義の精神を支えました。しかし、神の代替者が失われると、資本主義の精神を支えるものは貨幣そのものになりました。つまり、神が失われた現代の資本主義社会では、貨幣が神の後継者になったのだと考えられます。わたしはこれを、金を拝む宗教、すなわち「拝金教」と呼ぶことにしています。

 

拝金教とは

 拝金教の教義は単純です。金こそが最も価値のあるもの、最も尊いものであり、世界の中心に位置するものであるということです。なにせ、金は神なのですから。むかし「お客様は神様です」と言った歌手がいましたが、「(お金を運んでくれる)お客様は神様です」という意味だとすれば、まさにその通りでしょう。また、「愛は金で買える」と言ってひんしゅくを買ったIT企業の社長がいましたが、これも拝金教の信者同士であれば当然のことです。お互いが金こそ神だと信じているなら、金によって結びつくことこそむしろ神聖な行為だと言えるでしょう。これはキリスト教の信者同士が、結婚式で神を介して結ばれるのと同じ構造だと考えられます

 もう一つの教義が、金を持つ者が神から全能の力を分け与えられるということです。全能の神が失われることによって、神が有していた全能の力は金に移し替えられました。したがって、多くの金を持てば持つほど、神の全能の力をそれだけ多く所有できることになります。金ですべての価値が判断される資本主義社会では、金があればあらゆるものが手に入り、したいことが実現できます。つまり、金こそ万能の力なのです。そこでは金をどのような方法や手段で所有したかは、まったく関係がありません。金を持っていることがすなわち、神の力を有していることに等しいことになります。

 このような教義をもつ拝金教は、資本主義社会の中で次第に勢力を増して行きます。

 

新自由主義というルール変更

 1980年代になると、日本式の資本主義経済に圧倒されかかっていた欧米社会では、新たな戦略が採られました。その戦略とは、市場原理主義を根幹に据えた、新自由主義と称する経済政策を世界に広めることでした。

 新自由主義では財政赤字を是正するための小さな政府が目指され、福祉や公共サービスの縮小、公共事業の民営化、労働者の保護廃止、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、市場の自由化などの政策が打ち出されました。これらの政策は、イギリスのサッチャー政権やアメリカのレーガン政権で採用されて一定の成果をあげました。

 さらに、クリントン政権下においては、国際通貨基金IMF)や世界銀行が融資を行う際の政策改善の条件に組み入れられ、新自由主義は世界中に広められました。そして、経済の対外開放と金融の自由化が進展した国々では、多くの企業や銀行がアメリカの資本に買収されて行きました。

 

金融資本主義で加速する拝金教

 新自由主義が進展すると、市場原理主義はさらに幅を利かせるようになります。経済は市場が支配するようになり、市場から導かれた判断が正義だと考えられました。

 市場では利益が最大の価値基準となり、企業が社会に対してどのような貢献を行ったかよりも、企業がどれだけ収益を上げたかが重要視されました。そのため、長期的な展望よりも短期的に業績を上げることが目指され、経験や知識の蓄積が必要な「もの作りの文化」は廃れて行きました。

 実業の役割が減少し、金融が経済の主役に躍り出ました。金融工学をバイブルとした金融資本主義は、アメリカから世界に広まりました。世界の富はこのような経済の仕組みを確立したウォール街に集められ、アメリカは再び経済的な覇権を取り戻していったのです。

 資本主義のこうした変化によって、拝金主義はますます幅を利かせるようになりました。その結果として、「特定の個人が豊かになる」「多くの金を得る」ことが資本主義社会の目的になったのです。(続く)

 

 

文献

1)マックス・ヴェーバー大塚久雄 訳):プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神岩波文庫,東京,1989.