人はなぜ依存症になるのか 依存症をつくらない社会とは(1)

f:id:akihiko-shibata:20210511014033j:plain

 オリンピックの話題で中断していましたが、今回のブログから再び依存症の問題に戻りたいと思います。

 前回7月4日のブログでは、資本主義と依存症の関係について検討しました。資本主義経済では、リピーターをいかに多く作るかが成功の鍵になります。リピーターは、ともすれば依存症者になりかねません。端的に言えば、多くのリピーターやそれに隠された依存症者をたくさん作って多くの売り上げを得ることが、資本主義で成功するための必要条件になっているのです。このように捉えると、依存症は資本主義から必然的に生み出される、社会的な病理であるとも言えるでしょう。

 では、資本主義社会には、依存症を生み出さないための安全弁は存在しないのでしょうか。

 

論語と算盤

 そのヒントになるのが、今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である、渋沢栄一の思想です。渋沢栄一は、生涯で約五百もの会社の設立に関与し、約六百の社会事業事業に関わり、近代日本の社会や経済の礎を築いた人物です。近代日本への多大な功績から、「日本資本主義の父」と呼ばれています。その渋沢の思想の中に、現在の資本主義が内包する問題を解決するヒントが隠されています。

 渋沢は日本に近代的な経済を根付かせるために、日本人に馴染みの深い論語を使って、人々が経済活動に向かうべき姿勢を説きました。このとき渋沢が行った講演の口述筆記をまとめたものが、現在ベストセラーになっている『論語と算盤』です。

 

商業は尊い仕事である

 まず、『論語と算盤』にそって、渋沢栄一の思想を紐解いてみましょう。

 渋沢は、明治6(1873)年に官僚をやめて、もともと希望していた実業界に入ります。その際に同僚から、「お互い官職にあって国家のために尽くす身だ。それなのに、賤しむべき金銭に目がくらんで、官職を去って商人になるとは実に呆れる」と忠告されたといいます。

 この忠告に対して、渋沢は次のように答えました。

 

 「金銭を取り扱うことが、なぜ賤しいのだ。君のように金銭を賤しんでいては、国家は立ちゆかない。民間より官の方が貴いとか、爵位が高いといったことは、実はそんなに尊いことではない。人間が勤めるべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いわけではない」(『現代語訳 論語と算盤』1)23頁)

 

 当時は、「商売は賤しいこと」という認識がありました。江戸時代には、士農工商という身分制度があったことは周知の通りです。商人は、身分的には最下層の地位にありました(代わりに、経済的には最も恵まれていましたが)。

 明治時代になっても、社会的には官は尊く、商は賤しいという価値観が残っていました。しかし、渋沢は国家が近代化するにあたって、経済が発展することの重要性を理解していました。経済が発展するためには、「金銭を取り扱うこと」が賤しいことではなく、商業は尊い仕事であるというという認識を広めることが必要でした。

 

論語を読み替える

 そのために渋沢は、日本人に馴染みのある『論語』を活用しました。『論語』を例にあげて、経済活動に対する姿勢を説いたのです。

 その際の『論語』の引用は、渋沢流の解釈を伴っていました。

 例えば、『論語』の中には次にような一節があります。

 

 「人間であるからには、だれでも富や地位のある生活を手に入れたいと思う。だが、まっとうな生き方をして手に入れたものでないなら、しがみつくべきではない。

 逆に貧賤な生活は、誰しも嫌うところだ。だが、まっとうな生き方をして落ち込んだものでないなら、無理に這い上がろうとしてはならない」

 

 これを渋沢は、「孔子は富と地位を嫌っていた」と解釈するのはひどい間違いだと指摘したうえで、次のように解釈し直しました。

 

 「道理をともなった富や地位でないなら、まだ貧賤でいる方がましだ。しかし、もし正しい道理を踏んで富や地位を手にしたのなら、何の問題もない」(以上、『現代語訳 論語と算盤』91ー92頁)

 

 こうして渋沢は、『論語』に独自の解釈を加えながら、正しい道理をともなって得た富や地位には、賤しむべきことはなく、何の問題もないのだと主張したのです。

 

渋沢の合本主義

 富や地位を得るための「正しい道理」とは何でしょう。

 渋沢は、自らが理想としていた経済システムを「合本(がっぽん)主義」と呼んでいました。 

 では、合本主義とはどのようなものだったのでしょうか。渋沢栄一に関する多くの著作・翻訳を手がけている作家の守屋淳氏は、次のように述べています。

 

 「合本主義には『公益を追求する』という使命や目的が根本に置かれています。もう少し具体的に言えば、事業を行う場合に『自分がもっと儲けたい』という思いは、事業の推進力として絶対に必要です。しかし同時に、その結果として『国や社会が豊になる』『人々が幸せになる』という目的が達成されなければならない、と考えたのです。

 そのためには、一部の人に富が集中する仕組みではなく、『みんなでヒト、モノ、カネ、知恵を持ち寄って事業を行い、その成果をみなで分かち合い、みなで豊かになる』という道筋を考えた ーこれが渋沢が唱える合本主義なのです」(『100分de名著 渋沢栄一 論語と算盤』2)74頁)

 

 資本主義という、ともすれば自らの利益のみを追求することに終始しがちな利己的なシステムの中に、渋沢は「公益を追求する」というまったく対極の概念を取り入れました。個人の利益を追求する商いの精神と、公の利益を追求する『論語』の道徳を合わせ持つ思想、これが渋沢が唱えた合本主義でした。

 この合本主義を実現することによって、経済活動は正しい道理に導かれると渋沢は考えたのです。

 

資本主義と公益

 「個人の利益」と「公の利益」という対極の概念を両立させ、しかも、人々にそれを広く知らしめることは容易ではありません。

 それでも、個人の利益と公益を両立させなければ、近代日本に資本主義を根付かせることはできませんでした。なぜなら、個人が自分の利益だけを追求すれば、お互いの利害が対立し、社会は弱肉強食の世界に陥ります。やがて勝者と敗者が明確になり、富める者と貧しい者の格差が拡大します。そうなれば社会全体の消費は冷え込み、経済活動は停滞してしまいます。これはデフレが起こる原理ですが、デフレが起これば経済は停滞し、日本の資本主義は当初から行き詰まっていたでしょう。

 つまり、資本主義を社会に導入するためには、「一部の人に富が集中する仕組みではなく、みんなでヒト、モノ、カネ、知恵を持ち寄って事業を行い、その成果をみなで分かち合い、みなで豊かになる」という公益の精神が不可欠なのです。

 渋沢栄一は、ケインズが登場する以前から、資本主義における公益の重要性に気づいていたと言えます。なんという慧眼の持ち主だったのでしょうか。

 

公益性のない資本主義

 ところが、現在の資本主義からは、この公益性の思想が失われてしまったかのようです。富は一部の者に集中し、中間層が減少して貧困層の増加を招いています。「みなで豊かになる」という思想が失われ、他者を蹴落としても成功しようとする人が増えています。数字を上げた者が評価され、その中身は問われなくなりました。

 こうした風潮から、ものが売れることが第一である、買った者がその後にどうなるかは関知しない、といった合本主義と正反対の資本主義が蔓延るようになりました。つまり、現代の資本主義は、「国や社会が豊になる」「人々が幸せになる」ことが目的ではなくなり、「特定の個人が豊かになる」「多くの金を得る」ことが目的になりました。その結果として、少しでもたくさんのものを売るという目的のためにリピーターや依存症者が生まれ、社会問題化するようになったのです。(続く)

 

 

文献

1)渋沢栄一(守屋 淳 訳):現代語訳 論語と算盤.精興社,東京,2010.

2)守屋 淳:100分de名著 渋沢栄一 論語と算盤.NHK出版,東京,2021.