人はなぜ依存症になるのか 脳を支配される人々(2)

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 前回のブログでは、スマホが社会の隅々まで普及し、人々が多くの時間をスマホに費やすようになった問題を採り上げました。スマホは人々の生活に入り込み、生活を一変させ、さらには人々の行動を支配するようになりました。

 なぜスマホは、これほど人々を魅了し、生活になくてはならないもの、または生活を左右するものになったのでしょうか。

 今回のブログでは、その理由を検討してみたいと思います。

 

魔法の携帯電話

 スマホは手のひらに収まるモバイルですが、実に驚くべき機能を備えるようになりました。もともとは携帯電話であったことを忘れてしまいそうです。高機能携帯で使えるようになったメール機能だけでなく、インターネットを自由に使えるようになりました。また、アプリを自由にダウンロードしたり、基本ソフトをバージョンアップすることもできるようになりました。2010年代中盤以降のスマホでは、高速通信機能や、人工知能(AI)を使った音声認識によるバーチャルアシスタント機能を備えるものも多いといいます。

 つまり、スマホによって多くの人と瞬時に連絡が取れるようになり、インターネットで自由に調べ物ができ、好きなときにお気に入りのゲームができるようになったのです。まさに、手のひらに収まる魔法のモバイルであると言えるでしょう。

 

究極の便利さを追求

 今では当たり前になっていますが、スマホの便利さについて少し述べてみましょう。例えば、言葉の意味を調べようとします。以前であれば、自分の手で国語辞典を開いて調べたでしょう。古い言葉であれば古語辞典で、英語であれば英和辞典で、イタリア語であれば伊和辞典で調べます。しかし、スマホがあれば、これらを一瞬で調べることができます。しかも、何種類もの辞典によって意味が掲載されています。

 では、次にもう少し深い意味を調べる場合を考えてみます。例えば、依存症について調べてみる場合です。言葉の意味だけでなく、依存症について詳しく調べる場合は、依存症についての書籍を探すことから始まります。書店に行ったり、図書館に行ったりして、依存症について書かれている本を探します。それらの本をいくつか読みながら、依存症についての知識を広げてゆきます。専門的に調べようとすれば、専門書を紐解いたり、医学雑誌のバックナンバーから、興味の持てる論文を探し、それを読み込みます。依存症を深く調べようとすれば、こうして多大な労力と時間をかけて資料を読み解く必要があります。

 ところが、スマホで依存症について調べようとすれば、その場にいながら様々な資料に当たることができます。なかには要点をまとめたものや、マニアックな知識、さらに個人の体験談や、治療するための病院や自助グループまで簡単に探すことができます。

 このようにスマホは、調べるための労力と手間を一気に省き、居ながらにして膨大な知識に触れることができる、究極の便利さを実現したモバイルだと言えるでしょう。

 

 簡単に人と人を繋げる

 電話機能についても同様です。わたしが大学生だった頃と比べてみましょう。当時は携帯はもちろん、下宿先に固定電話がないことが珍しくありませんでした。そうしたときに、例えば彼女と連絡をとるにはどうしたでしょうか。今では少なくなった、公衆電話からかけるのです。当時は夜の公衆電話ボックスに並ぶ、若い男性の姿がありました。

 彼女の家に電話をかけても安心出来ません。なぜなら、彼女が電話に出るとは限らないからです。運が悪いと、彼女のお父さんが電話口に現れます。そして、「君はうちの娘とはどういう関係だ」などと問い詰められる可能性すらありました。そうした困難な状況を乗り越えて、初めて彼女と電話で話すことができたのです。

 スマホのように、いつでもどこからでも、簡単に電話をかけることはできませんでした。スマホでは、電話でなくても、メールで連絡を取ったりすることもできます。さらに、グループメールで、複数の人と同じ情報を共有することもできます。スマホによって、実に簡単に人と人を繋げるようになりました。

 

試行錯誤や紆余曲折が生む達成感

 以上は簡単な例ですが、SNSスマホが普及する前と後では、人々の生活様式が大きく変わりました。

 SNSスマホが普及する前は、物事を行う際には多くの試行錯誤が必要であり、成功を達成するためにはさまざまな紆余曲折が必要でした。そうした試行錯誤や紆余曲折を経て成功した場合に、大きな達成感が得られました。

 その過程をシェーマ化すると、以下のようになります。

 

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                図1

 

 図1のように、何かをしたいという欲求が生じたときに、人は自分なりに思いついた行動を起こします。しかし、その行動によって、すぐに欲求が叶えられるわけではありません。欲求を叶えるためには、現実のさまざまな壁が立ちはだかります。そこで、欲求を叶えるための試行錯誤が始まります。その試みの多くは上手く行きませんが、失敗を繰り返しながら次第に現実に即した行動が採れるようになります。そして、欲求を叶えることに成功したとき、大きな達成感や満足が得られます。

 

すぐに得られる満足

 ところが、SNSスマホの登場は、この過程を大きく変えました。途中の労力や手間を一気に省き、上手くゆかないことに対しての試行錯誤の多くを飛ばすことことができるようになったのです。

 その過程をシェーマ化すると、以下のようになります。

 

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                 図2

 

 図2のように、スマホによってわたしたちは多くの労力を省略し、欲求を満足させることができるようになりました。欲求は直線的に叶えられるようになり、その過程には多くの失敗や試行錯誤は含まれなくなりました。

 つまり、スマホの出現によって、わたしたちは多くの労力を費やしたり苦労をすることなく、簡単に快感や満足を得られるようになったのです。

 

使わないものは衰える

 スマホによって生活がより便利になり、簡単に快感や満足を得られるようになったことを、社会の進歩と捉えていいのでしょうか。

 ここには重大な問題点が潜んでいます。便利さによって努力しなくなったり、使われなくなったものは、次第に衰えてゆくことです。それは天敵のいない環境で飛翔能力が退化し、鳥が飛べなくなるようなものです。飛ばなくても生存できるのであれば、鳥は身体を極限まで軽くし、大きな羽を保ち続け、多くのエネルギーを飛翔に使う努力をしなくなるのです。

 スマホが便利であればあるほど、そして簡単に快感や満足を得られれば得られるほど、人は快感や満足を得るための努力をしなくなります。失敗から学ぶこと、試行錯誤を繰り返したり諦めずに努力を続けることは、無駄で非効率なものにしか見えなくなってしまうからです。

 しかし、その結果として鳥が飛翔能力を失うように、人は自ら学ぶ力、問題を見つける力、失敗に耐える力、努力を継続する力を失ってゆきます。対人関係においても、現実的な人間関係の経験、相手の感情を理解したり共感する力、対人関係がこじれた際の対応力などが育たなくなるでしょう。

 便利を追求して努力を怠れば、育たないもの、失われるものが出てくるのです。「二つ良いことさてないものよ」は、心理学者の河合隼雄先生がよく使われていた言葉ですが、まさに現代のさまざまな事象に当てはまる名言です。

 

 さて、スマホの問題は、便利さからさまざまな努力を怠ることにとどまりません。スマホは、心の成長を妨げる要因にもなるのです。

 この点については、次回のブログで検討しましょう。(了)