いじめはなぜなくならないのか 森会長へのバッシング(2)

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 前回のブログでは、オリンピック・パラリンピック組織委員会の森会長(当時)が、日本オリンピック委員会JOC)の臨時評議会で行ったあいさつに、本当に女性蔑視発言があったのかを検討しました。

 今回のブログでは、このあいさつが世界中からバッシングを受けるようになった経緯を振り返り、いじめの構造との類似点を検討したいと思います。

 

朝日新聞の情報操作

 臨時評議会のあいさつの中で森会長は、組織委員会が女性登用に努力していることと、登用された女性理事が団体競技の出身で国際的に大きな場を踏んでおり、話もきちんとして的を射ているころを賞賛しました。

 ところが朝日新聞は、この発言の主旨とは異なる部分を恣意的に切り取り、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」と森会長が語ったと報じました。そして、この発言に対して、当初は女性への「差別的発言」という評価を、後には「女性蔑視発言」という見出しをつけて、日本のみならず世界に向けて発信しました。

 その結果、森会長はいつの間にか女性蔑視発言をした人物というレッテルを貼られ、朝日、毎日を始めとした新聞社やその系列テレビ、野党だけでなく自民党の一部の政治家、アスリートや芸能人、ネット民、そしてIOCやオリンピック協賛企業や都知事からも一斉に非難を受け、会長を辞任せざるをえない状況に追い込まれたのです。

 この状況は、さながら世界を巻き込んだ、集団でのいじめだと言えるでしょう。

 

正義の立場で非難する

 このように森会長へのバッシングを主導したのは朝日新聞ですが、そこにはいじめの問題と通じる次のような特徴が認められます。

 まず、この問題を主導した朝日新聞を始めとしたマスコミは、自らが正義の立場に立って森会長を糾弾していることです。ジェンダー間の格差をなくそうという世界的な風潮に則り、森会長を前時代的な女性差別的、蔑視的発言をする人物と規定して非難するという構造をとっています。

 しかし、森会長が本当に女性を差別するような思想を持っているのか、女性を侮蔑的に扱っているのかは一切検証されていません。日本オリンピック委員会JOC)の臨時評議会で行ったあいさつの一部を切り取り、それだけで森会長を女性蔑視者と決めつけて世界中に発信したのです。

 つまり、朝日新聞は正義、森会長は悪という立場を恣意的に作り上げ、森会長を攻撃することを正当化しました。

 いじめの首謀者も、同じ行動をとります。いじめを受ける人間はなにがしか問題があるという風潮を作り上げます。そのため、いじめ行為は悪いことだという認識がなくなり、まるでいじめの被害者が悪いかのような錯覚が生じます。本来はいじめを受けた人が被害者なのにもかかわらず、いじめられる自分がダメな人間であるかのように捉えていることが多いのはそのためです。

 

安心して非難できる

 もう一つの特徴は、逆説的ですが、森会長が本当の差別主義者ではないために、気兼ねなく非難できることです。

 森会長がもし本当の女性差別主義者、女性蔑視主義者であったなら、非難はこれほど広がらなかったのではないかと思われます。なぜなら、その場合は森会長と対峙し、対決しなければならなくなるからです。森会長の思想に対して、自らの主義主張をぶつけて闘わなければなりません。そうしなければ、森会長を辞めさせることはできないでしょう。

 しかし森会長は、発言の翌日には、「昨日の発言については、オリンピック・パラリンピックの精神に反する不適切な表現だった」として発言を撤回し、謝罪しています。ただし、「発言の表現が不適切だった」と述べているだけで、女性差別や女性蔑視をする意図はなかったと釈明しています。

 これなら発言だけを非難すればよく、森会長と思想的に闘う必要はありません。しかも、森会長は謝罪して自らの非を認めているわけですから、非難するための心理的な抵抗は少ないでしょう。自らは反撃されることなく、安心して森会長を非難することができるのです。

 

小さな相違に対する非寛容

 フロイトは、ユダヤ人が迫害される理由の一つとして、ユダヤ人がほとんど定義できないようなかたちで、ヨーロッパの諸民族、特に北方諸民族とは異なっている点を挙げています。つまり、集団が示す不寛容というものは、根本的な差異に対してよりも、むしろ小さな相異に対してより一層強く現れるのだとフロイトは指摘しています。

 これは、学級の中でのいじめにも当てはまる心理的な機序です。いじめを受ける子どもの多くは、特別に変わった子などではありません。彼らはほんの少しの差異をことさら強調されて、集団の和を守るためにいじめによって排除を受けています。

 これと同じことを、森会長に対するバッシングにも指摘できます。森会長は、女性を差別や蔑視するために周到な用意をしたり、オリンピックやパラリンピックを使ってそれらを実現しようと目論んでいるわけではありません。オリンピックとパラリンピックのパレードを一緒に行おうと尽力したことからも分かるように、むしろ差別をなくそうとする姿勢がみられます。

 朝日新聞が取り上げた発言は、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」でした。つまり森会長は、女性は話が長いという、一般の人とそれほど違わない認識を持っています(そして、前回のブログでも指摘したように、自分自身の話が長いと自覚しています)。これだけの発言を使って、ジェンダー問題としてことさら強調し、リベラルの和を守るために、森会長を徹底して非難し、排除しようとしたのです。

 

ウィグルでの問題は取り上げない

 新疆ウイグル自治区の収容施設では、ウイグル族などの少数民族100万人以上が拘束されていると推測されています。2月3日にイギリスBBCは、収容施設で警官や警備員らから、組織的にレイプや性的虐待をされたとする女性収容者たちの生の証言を報じました。

 この証言は、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」発言とは比べものにならないほど重大で重要な、女性の人権問題を提起しています。果たして朝日新聞は、女性の人権を踏みにじったこの国家的な犯罪行為を、日本や世界に向けて発信するでしょうか。

 残念ながらその可能性は、限りなくゼロに近いでしょう。朝日新聞共産主義思想を盲信していることが主な理由ですが、もう一つの理由は、中国の行為がわたしたちの常識とはあまりにかけ離れているからです。フロイトが指摘するように、集団が示す不寛容というものは、根本的な差異に対してよりも、むしろ小さな相異に対してより一層強く現れます。民族の拘束や集団レイプはもはや根本的な差異であって、小さな差異に対して非難するといういじめの構造をとりにくくなっているのです。(続く)