祖国を貶める人々 共産主義の信奉者(2)

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 前回のブログで、共産主義を掲げる国家では、例外なく独裁者が存在し、しかも独裁者となった指導者が、自国民を大量に虐殺している事実を指摘しました。

 それにもかかわらず、現在でも共産主義を信奉している人々が存在します。今回のブログでは、なぜこのような信じられないことが起こっているのかを検討したいと思います。

 

社会主義という欺瞞

 共産主義は人類史発展の最終段階としての社会体制であり、そこでは階級は消滅し、生産力が高度に発達して、各人は能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けるとされました。まさに共産主義は、究極の平等が達成され、理想の社会が実現されるための思想であると言えるでしょう。

 これに対して社会主義は、共産主義に移行するための前段階の社会制度と位置づけられました。ここに社会主義社会に欺瞞が入り込む余地が生まれます。それは、共産主義という崇高な概念を掲げ、共産主義という究極の理想を実現するためには、社会主義の段階では多少の無理や犠牲はあってもやむを得ないという欺瞞です。

 この欺瞞が拡大解釈され、指導者が恣意的に社会を変革したり、共産主義の実現を阻む者を排除してもいいのだという正当化を生みました。つまり、正しい目的を達成するためには、どのような手段を用いても構わないという正当化が、国の間違った方向性を生み、多くの国民が虐殺される結果に繋がったのです。

 

なぜ独裁者に従うのか

 それにしても、社会を恣意的に変革したり、国民を虐殺するような独裁者に、人々はなぜ従ってしまうのでしょうか。独裁者の政策に逆らうことができず、反対の声を上げることはできないのでしょうか。それとも反対の声を上げている人々は皆、殺害されてその存在が知られていないだけなのでしょうか。

 確かに反対の声を上げることができない人たちや、虐殺されてしまった人たちも存在したでしょう。しかし、それだけでは国家の体制を長期的に維持することはできません。社会主義体制を何十年にもわたって維持するためには、独裁者を信奉する人たちが一定数以上存在する必要があると考えられるからです。

 ではなぜ、国民を虐殺するような独裁者を信奉する人たちが現れるのでしょうか。

 その理由を、精神分析的に検討してみましょう。

 

 全能感への憧憬

 前々回のブログで検討したように、人は何もできない状態で生まれてきます。言わば、母親の庇護が無ければ生きることができない存在です。

 感覚器の発達も不充分な赤ちゃんは、周囲の世界を充分に認識できていません。母親から庇護を受け、おっばいを与えられ、おむつを替えてもらい、お風呂に入れてもらっているとは理解できていません。そこで赤ちゃんは、自分の望むことがすべて自分の力によって叶えられると認識しています。つまり、他者からしてもらっていることを、自分が行っていると錯覚しています。自分の望むことがすべて叶えられると感じているのですから、この錯覚には全能感が伴われています。

 このように乳幼児期には、他覚的には無能である一方で、自覚的には全能感を抱いています。

 人は成長するにつれ、現実を理解するようになります。そして、自分でしていると認識していたことが、実は母親にしてもらっていたことに気づきます。児童精神科医ウィニコットは、母親にしてもらっていることを自分でしていると認識することを錯覚、自分の認識が錯覚であったと理解できるようになることを脱錯覚と呼びました。

 脱錯覚は、苦痛を伴います。全能だと思っていた自分が、実は無能だったことを認めることになるからです。それは人が最初に感じる、耐えがたい苦痛であると言えるでしょう。

 人は成長に伴って、現実の世界でできることが少しずつ増えてゆきます。人は実際にできることが増える達成感によってこの苦痛に耐え、ゆっくりと全能感を諦めてゆきます。

 しかし、全能であった頃への果てない憧憬は失われることなく、心の奥底にそっとしまい込まれています。そこで人は、いつまでたっても、わずかでもチャンスさえあれば、全能感を再び抱きたいと願い続けています。

 この願望の隙にすっと入り込むのが、独裁者です。

 

全能感を独裁者に投影

 独裁者は、人々が諦めていた全能感を取り込むことに成功した者です。人々の全能感を集中して投影されているために、独裁者は多くの人から全能者として振舞うことを認められます。独裁者本人も、自らの全能感を呼び覚まし、現実の世界の中で実際に全能者のように生きることができます。

 これまでにも、人々の全能感を一身に集めて強大な全能性をまとった存在者がいました。それは、全能の神です。特に一神教の神は、すべの信者からの全能性を一身に集めるわけですから、その全能性は多神教の神々とは比較にならないほど強大になります。旧約聖書で現わされた唯一の神ヤハウェはこうして、宇宙のすべてを無から創造するという究極の全能性をまとうようになりました。

 近代にいたって神が「殺害」されると、旧約聖書の世界観を踏襲した共産主義を掲げる国々では、神の代わりに独裁者が君臨することになりました。生身の人間でありながら、全能の神のような存在者になることが、近代以降に誕生した独裁者の特徴であると言えるでしょう。

 人々は全能の神のように振舞う独裁者を支持し、さらに独裁者と一体化することによって、独裁者の全能感を分け持つことができます。そして、全能感を分け持つことによって、心の奥底に閉じ込めていた幼少期の全能感を蘇らせ、再び全能感に浸ることができます(この全能感は、例えれば心酔するミュージシャンのコンサートで、一体感を得たときの感覚に近いでしょうか)。

 この感覚に浸りたい人々によって、独裁者は多くの国民から支持され、政権の座に就き続けることができるのです。

 

独裁者に依存する人々

 国民が独裁者を信奉するもう一つの理由は、独裁者と国民との関係性にあります。

 人々が独裁者に自らの全能感を投影するとき、人々は幼少時に子ども返りしています。全能感は幼少期、特に乳幼児期に育まれるものだからです。

 子どもが自らが全能ではないと気づいたとき、その全能感は、母親(またはその背後に存在する父親)に投影されます。そして、全能の母親(または父親)に庇護されることで安全感と安心感を得ることができるのです。

 共産主義を掲げる国では、国民と独裁者の関係は、乳幼児と親と近似の関係になります。独裁者は全能の神に倣って男性ですから、国民と独裁者の関係は乳幼児と父親との関係に近似であると言えます。

 もっとも、フロイトが『トーテムとタブー』という論文で指摘しているように、神の原型は強大な力をもった父親であったことを考えると、神のように振る舞う独裁者は、乳幼児期の父親を容易に思い起こさせることになるでしょう。

 このように国民と独裁者の関係が、乳幼児と父親の関係に近似であるとすれば、国民は全能者に守られ、導いてもらえるという安心感に浸ることができます。そして、全能者に従っていれば間違いはなく、余計なことに悩んだり苦しんだりする必要もないと考えることができます。

 独裁者に従っていさえすればいいという国民の依存心が、独裁者を信奉するもう一つの理由になっているのです。

 

 以上のように、共産主義を掲げる国においては、国民が独裁者を信奉し、支える理由が存在しました。では、自由主義国家である日本において、共産主義を信奉し、独裁者を礼賛する人々が存在するのはどうしてでしょうか。次回のブログで検討したいと思います。(続く)