日本にはなぜ祖国を貶めようとする人々がいるのか(1)

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 前回までのブログで検討したように、安倍内閣の支持率が下がっている理由の一つとして、安倍総理を引きずり下ろすためであれば、日本に損失を与えても構わないという一部マスコミの存在がありました。また、以前のブログでも取り上げたように、従軍慰安婦の話をねつ造した吉田清治氏や、中国人の話を一方的に記事にし、南京大虐殺という虚構を創り上げることに最大の貢献を果たした本多勝一氏といった、日本に多大な損失を与えた人物が現れました。そして、現在の日本社会にも、彼らと同じように日本政府を不当に非難し、日本を貶めようと奮闘している人たちがいます。

 なぜ彼らは、自分の国である日本を、血眼になって貶めようとするのでしょうか。改めて考えてみれば、これは実に不思議な現象です。

 今回からのブログでは、この問題について検討したいと思います。

 

アメリカ兵に爆撃地点を指示した日本兵の捕虜

 大東亜戦争中に捕虜になった日本兵の中には、自ら進んでアメリカ軍に協力した者がいたといいます。岸田秀氏の『幻想の未来』1)には、そうした人物が以下のように描かれています。

 

 「捕虜のなかには、聞かれもしないうちから日本軍の機密をベラベラしゃべったり、自分から申し出てアメリカ軍の爆撃機に乗り込み、日本軍の重要な拠点を教えたりした者が少なからずいたとのことである」(『幻想の未来』64‐65頁)

 

 このような日本人がいたとは、にわかに信じがたいことでしょう。日本軍の機密を話せば、日本に残る家族や友人を危険をさらすことに繋がりますし、爆撃拠点を教えれば、戦友の頭上に爆弾を降らせることになるからです。

 しかし、米軍の資料には、日本人の捕虜が爆撃地点を指示している現場を撮影した写真が残っており、彼はミヤジマ・ミノルという少尉だったと記されています(上掲書80頁)。

 

彼らは平和主義者だったのか

 アメリカ軍に協力した彼らは、大東亜戦争に反対する平和主義者だったのでしょうか。

 

 「彼らは、この戦争を間違っていると考え、日本の敗北を一日でも早める方が結局は日本のためであると信じていたというような反戦主義者であったわけでもなく、拷問によって強制されたわけでもなく、また、とくに卑怯な臆病者だったわけでもなく、捕虜になる直前までは他の者たちと同じように祖国のために勇敢に戦った兵士であった」(『幻想の未来』65頁)

 

 彼らは、反戦主義や平和主義に従って行動したわけではありませんでした。つまり、彼らは自分の信念に従ったわけでも、アメリカに強制されたわけでも、卑怯な臆病者だったわけもないのに、敵国の軍隊に自ら協力をしたということになります。

 なぜ彼らは、このような不可思議な行動を採ったのでしょうか。

 

日本人ならではの倫理観や感性が育まれない

 上述のミヤジマ・ミノル少尉の資料を紹介した岩川隆氏は、「ミヤジマ・ミノル」が生まれた背景について、次のように述べています。

 

 「戦友の頭上に爆弾を落とすことができるか、妻子の頭上に爆弾を落とすことができるか、という問いにたいする答えは、教育とか思想の段階ではなくそれ以前の個人の倫理や感性にかかわる問題だろうと思った。

 私はこういうとき日本語ではないヒューマニティとかモラルという言葉を用いて考えたくはなかった。そういう外来語が外国人のなかでかれらが共有する意味を失って輸入され、日本人ならではの倫理と感性を育てない原因になっているとすら考える。

 『していいことと悪いこと』についての感覚が日本の風土のなかに生きる躰のなかに逞しく育っていれば、その感覚が日本人としての誇りにもつながり、“不思議”でない国民性ともなるだろう」(『幻想の未来』81頁)

 

 岩川氏は、ミヤジマ・ミノル少尉がとった行為は、教育とか思想のレベルではなく、もっと深層にある個人の倫理や感性にかかわる問題だと指摘します。そして、日本人ならではの倫理と感性が育まれない原因として、「外来語が外国人のなかでかれらが共有する意味を失って輸入され」たことを挙げています。

 これはどういうことでしょうか。

 

日本の文化に基盤をもたない

 岩川氏は続けます。

 

 「国家をさきに考えるような『愛国心』はけっきょくミヤジマ・ミノルと同じようなうらはらな、新しい権力集団に追従する『裏切者』を生むのではないか。

 状況が変わろうと支配体制が変わろうと、その変化にはゆるがされぬ頑固な日本人としての個人の倫理観をそれぞれが自由に育て、保持して行くことが結果的に『愛国心』の保持ということにもなるにちがいない。

 この感覚を育てる基盤は教育や政治体制ではなくて、この風土自然のなかの風俗習慣もろもろの文化ともいうべきものだろう」(『幻想の未来』81‐82頁)

 

 近代化によって輸入された、欧米式の「ヒューマニティとかモラル」といった道徳観は、日本人の倫理観としては根付きませんでした。また、欧米式の「国家を先に考えるような愛国心」も日本のことを第一に考える行動倫理にはつながらず、「新しい権力集団」に追従するだけの行動規範を生みました。

 日本の風土自然のなかの風俗習慣、つまり伝統的な日本文化に基盤を持たない欧米式の道徳観や、日本文化に基盤を持たない欧米式の愛国心は、日本人の倫理規範としては根付くことはありませんでした。そのことがミヤジマ・ミノル少尉のような米軍に追従することを良しとする、「裏切者」を誕生させることにつながったというのです。

 

日本人の行動様式

 伝統的な日本文化に基盤を持たない道徳観や愛国心は、捕虜という特殊な状況下において、自ら進んで日本を危険に晒すような行動をとらせました。それにしても、ミヤジマ・ミノル少尉の行動は、戦時という状況を差し引いても、われわれには理解できないものがあります。

 岸田秀氏は、「ミヤジマ・ミノル」の行動の源流として、「義務としてしなければならない以上のことをすることによって、友好関係を築こうとする日本人の行動様式」を挙げています。

 

 「本当の話かどうか知らないが、たとえばのちの豊臣秀吉は、草履取りのとき、信長の草履を懐中に入れて暖め、取り立てられるきっかけを摑む。草履取りにそんなことをしなければならない義務はない。

 今はやりのおしんは、奉公先でこき使われ、苛められる。それでも恨むどころか逆に、主家の娘が事故に遭いそうになったときに身の危険を顧みず、助ける。そこで主家の信用を得る。

 秀吉やおしんの行動は、義務以上のことをして相手に気に入れられようとする『卑屈な』ふるまいであると言えば、言えなくもない。欧米人が神に対して『卑屈』なように、日本人はもともと対人関係において『卑屈』なのである」(『幻想の未来』69頁)

 

 こうした日本人の行動様式、秀吉やおしんのような、義務としてしなければならない以上のことをすることによってよりよい関係を築こうとする態度は、ミヤジマ・ミノル少尉の行動と共通しています。

 すなわち、「自分から申し出てアメリカ軍の爆撃機に乗り込み、日本軍の重要な拠点を教えた」と言う行動の源流は、本来は日本人の行動様式にあると言えるでしょう。

 

 しかし、そうであったとしても、ミヤジマ・ミノル少尉は、日本を裏切り、日本の家族や戦友を危険に晒すような行動を採ることに、良心の呵責を感じることはなかったのでしょうか。

 この点については、次回のブログで検討することにしましょう。(続く)

 

文献

1)岸田 秀:幻想の未来.河出書房新社,東京,1985.