安倍政権はなぜ歴代最長になったのか(番外編)『Fukushima 50』からみえること ③

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 原子炉格納容器の爆発という最悪の事態を防ぐために、福島第一原発の現場では、東電の職員と自衛隊員による決死の作業が続いていました。

 上がり続ける線量計の数値と闘いながら、現場の人たちは真っ暗な原子炉建屋に突入し、命がけでベントを決行しました。また、1号機が水素爆発を起こして瓦礫が散乱し、放射能汚染が進行するなかでも、消防車による注水活動は続けられていました。

 それにもかかわらず、福島第一原発の現場では、危機的な状況が次から次へと彼らに襲いかかって来たのです。

 

3号機の爆発 

 海水による注水活動が続けられていた時、突如として3号機が水素爆発を起こしました。爆発で吹き飛ばされた破片や瓦礫が、現場で働いている人たちの頭上に降り注ぎました。爆風の直撃を受けて負傷する人、落ちてきた瓦礫に当たって負傷する人が続出する中で、吉田所長には「行方不明者四十名」という報告が届けられます。

 さらにこの爆発で、海水注入を行っていた消防車が破損し、冷却活動が止まってしまいました。

 このとき原子炉1号機、2号機を操作する中央制御室は、5人の交代制になっていました。爆発によって放射線量が上がっていたため、交代の時間になっても中央制御室(通称「中操」)に行けない状態になっていました。伊沢氏が中操に電話した時、残った職員は覚悟を決めたかのように、「もう、来なくていいですよ」と答えました。

  彼らは、中操の中で死を覚悟していたのです。

 

できることを続ける

 これを聞いた伊沢氏は居ても立っても居られなくなり、待機していた免震重要棟から、許可が出ないまま4、5人で中操に向かいました。中操に着いたとき、残っていた職員は泣いていたと言います。自分たちを見捨てず、一緒に闘ってくれる仲間の存在は、どれほど頼もしく、心強いものだったでしょう。

 一方、原子炉建屋近くの消防車は破損しましたが、そこから離れた場所にあった消防車が2台無事だったことが分かりました。吉田所長の指示で、ズタズタになったホースを交換し、再び注水が開始されました。さらに、行方不明者が次々と見つかって行き、最後にはゼロになりました。けが人は多数出たものの、死者が出なかったことは、現場の幹部たちを安心させました。

 

それでも続く危機

 しかし、危機的な状況は、収束することはありませんでした。3号機が爆発したタイミングで、2号機の原子炉冷却装置が止まり、炉内の圧力が上昇し始めました。圧の上昇によって、注入しようとしても海水が入らなくなってしまったのです。

 やがて格納容器内の圧力は、設計圧力の2倍近い750キロパスカルまで上昇しました。もういつ何が起こっても、不思議ではない状況が訪れました。

 吉田所長は、格納容器爆発という最悪の事態に備えて、免震重要棟に詰めていた協力企業の人たちに帰ってもらうことにしました。

 その後、事態はさらに悪化しました。2号機のサプレッション・チェンバーの圧力がゼロになったのです(実際に圧力がゼロになったのではなく、圧力計の故障だったという見方もあります)。

 サプレッション・チェンバーとは、格納容器の圧力を調整する圧力抑制室のことで、この圧力によって放射線が外部に漏れることを防いでいます。もしこの圧力がゼロになったとすれば、それは原子炉から放射線の放出が始まったことを意味しました。

 

必要最小限の人間を除いて退避

 最後の時が、容赦なく刻々と近づいていました。

 吉田所長は、ついに次のような指示を行います。

 

 「各班は、最少人数を残して退避!」

 

  この指示に従って、免震重要棟に残っていた人の多くが、福島第二原発に退避しました。その際に、棟に残ると訴える若者もいました。どうしても残ると主張する若者に対して、映画では女性職員が、「あなたたちには、第二、第三の復興があるのよ!」と諭す場面が描かれています。

 こうして免震重要棟にいた600人以上の人のうち、残ったのは69名でした。彼らが後に、海外メディアによって「フクシマ・フィフティ」と呼ばれることになったのです。

 

自衛隊による注水活動

 最後まで免震重要棟に残った69人は、吉田所長の指示のもと、ひたすら1号機から3号機までの原子炉に注水を続けました。

 自衛隊も最後まで注水活動に加わりました。それは空と陸の両面から行われました。

 空からは陸上自衛隊のヘリコプターで、上空から水を投下する試みがなされました。水素爆破によって建屋が吹っ飛び、水蒸気が発生している3号機では、使用済み核燃料プールの水位が低下していました。大型輸送ヘリに取り付けた、本来は野火を消火するための巨大バケットに7.5トンもの海水をため込み、その水を建屋の上空から放水したのです。この放水は、二度にわたって行われました。

 地上からは、自衛隊保有する消防車による注水が行われました。この消防車は強力な噴射機を備えており、遠方から1分間に6トンもの水を噴射できる機能を持っています。消防車による放水は建屋に直接送り込むものではなく、建屋が壊れた3号機の上空から噴射した水を注ぎこむ方式で行われました。この放水は4日間にわたって、全部で5回行われました。

 映画では、自衛隊の活躍は詳しく描かれてはいません。ただ、吉田所長が自衛隊員に、「自衛隊の方も退避してください」と要請した時に、

 「われわれは残ります。国を守ることがわれわれの仕事ですから」と答え、吉田所長がにっこり笑って、「失礼しました」と語る場面が描かれています。

 

最悪の事態は回避された

 現場に最後まで残った職員と、自衛隊員の献身的な給水活動にもかかわらず、事態は最終局面へと近づいていました。2号機の格納容器内の圧力が下がらないのです。

 免震重要棟に残った人たちは、最悪の事態までを覚悟しました。家族に「今までありがとう。これまで幸せだった」「あとを頼んだぞ」といったメールを送る人もいました。諦めにも似た空気が、福島第一原発に残った人たちを支配していました。

 そのときに、奇跡が起こりました。

 格納容器の一部が破損し、そこから蒸気が噴出しました。放射性物質は格納容器から放出されましたが、その結果圧力は劇的に低下し、2号機への注水が可能になりました。

 こうして、格納容器の爆発という最悪のシナリオは回避されたのです。

 

神様が救ってくれた

 津波によって引き起こされた福島第一原発の事故は、建屋の水素爆発と格納容器のメルトダウンという未曽有の惨事を引き起こしました。その結果、福島と周辺地域に放射性物質をまき散らし、農林水産業への甚大な被害と、未だに人が住めない帰宅困難地域を残しました。

 しかし、原子炉格納容器の爆発によって、東日本一帯に人が住めなくなるような、最悪の事態だけは免れることができました。

 映画では2014年の春に、伊沢氏が吉田所長の手紙を携えて、事故現場の近隣の町を訪れるシーンが描かれます。たった3年前の大惨事がまるで嘘だったかのように、その町では何百本もの桜が咲き誇っていました。その美しい桜の花々を眺めていると、神様は本当は存在しているのではないか、そして、神様がこの美しい日本を救ってくれたのではないのかという思いが頭をよぎります。

 もし神様が助けてくれたとしても、それは現場の人々の、最後まで諦めない決死の作業があったからこそです。自らの命をも顧みない彼らの行いが、日本に奇跡が起こることを可能にしてくれたのです。

 

なぜ「Fukushima 50」は存在しえたのか

 この映画の原作者である門田隆将氏が、外国人記者からまず尋ねられる質問はこうだといいます。

 

 「なぜ彼らは事故後も福島第一原発に残ったのか」

 

 原発事故の後に、福島第一原発の職員が現場に残って作業に当たったこと自体が、外国人記者からは信じられないことのようです。

 想定外の津波の浸水によって原発が破壊されたことには、現場の職員には何の責任もありません。また、不慮の事故が起こった際に、彼らが危険を冒してまで対応に当たらなければならない義務もないと思われます。

 それにもかかわらず、彼らが命の危険も顧みず、最後まで原発事故の処理に当たったこと自体が、海外の人々からは理解出ないことだったようです。

 それだけではありません。国のトップの度重なる失態をもろともせず、また東電本店のミスリードすら克服し、彼らは最後には自分たちの力で未曾有の大事故を収束させました。

 なぜそれが可能だったのか。もちろん吉田所長はじめ、現場の人々が技術者としてだけでなく、人間的にも極めて優れていたからでしょう。

 

中空均衡構造の社会で生まれた偉業

 それに加え、もう一つの理由が考えられます。それは日本が、中空均衡構造の社会だからです。

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                                                                  図1

 

 図1で示したように、日本は中空均衡構造であるため、社会の中心は空であり、周辺にバウムクーヘンのような多層構造が創られています。

 そのため菅内閣がどのような失敗を繰り返そうと、東電本社がいかにミスリードをしようと、原発現場は独立して存在し、独自の判断で動くことができます。そして、現場の人々は関連企業や自衛隊と協力しながら、危機的な状況に対処することができるのです。

 福島第一原発で起こった事故処理は、日本社会の構造の利点が生かされることによって奇跡的な成果を収めることができた、典型例なのだと考えられます。(「『Fukushima 50』からみえること」了)

 

 

参考文献
・ 門田隆将:死の淵を見た男 吉田昌朗と福島第一原発の五〇〇日.PHP研究所,東京,2012.