安倍政権はなぜ歴代最長になったのか(番外編)『Fukushima 50』からみえること ②

f:id:akihiko-shibata:20200310000804j:plain

 福島第一原発の事故では、津波の浸水によって全電源が喪失し、冷却機能を失った原子炉では、核燃料ペレットが圧力容器の底に落ちる炉心溶融メルトダウン)が始まりました。このままでは原子炉格納容器が爆発し、核燃料はすべて原発建屋から放出されて、放射性物質が福島だけでなく東日本全体に飛散する危機が近づいていました。

 こうした危機的な状況において、国のトップである菅直人総理は、あろうことか事故現場の福島第一原発を直接訪れたり、東電本社に乗り込んで「撤退などありえない」と幹部を叱責するなど、現場を混乱させる対応を行いました。

 しかし日本は、トップの度重なる失態にもかかわらず、最悪の事態だけは逃れることができました。なぜそれが可能だったのか。『Fukushima 50』を参考にしながら、その理由を検討してみましょう。

 

最悪の事態を防ぐために

 原子炉格納容器の爆発という、最悪の事態を防ぐ方法は二つでした。原子炉を冷やすことと、格納容器内の圧力を下げることです。

 冷却機能を失った原子炉を冷やすためには、建屋の外から水を注入することが必要になります。そのために消防車を使うことが検討されましたが、この案には次のような問題点がありました。

 まず、福島第一原発には3台の消防車がありましたが、2台が津波の影響を受けて使用できず、まともに動けるものが1台しかありませんでした。そして、巨大なプールにたまった海水で原子炉を冷やすためには、津波で散乱したおびただしい量の瓦礫やゴミを取り除き、さらにテロ対策のために囲われた厳重な柵を壊して、消防車の作業に必要な道を確保する必要がありました。

 一方、格納容器の圧を下げるためには、ベントが必要でした。ベントとは元来、蒸気などを抜くための通気孔の意味ですが、ここでは原子炉炉心から大気中への排気を行い、原子炉格納容器の内部圧力を下げる作業を指します。放射性物質が含まれた気体が建屋外に放出される問題点がありますが、ベントが行われなければ、原子炉格納容器内の圧力が異常に上昇し、格納容器自体が爆発する危険がありました。そのため、ベントは何が何でも行われなければならない作業でした。

 しかし、ベントが行われたことは未だかつてなく、福島原発で行われたベントは、世界で初めて行われるまったく未知の作業だったのです。

 

誰がベントを行うか

 ベントが必要なことは、プロ集団である現場の人たちも分かっていました。原子炉1号機、2号機を操作する中央制御室の当直長だった伊沢邦夫氏の苦悩は、誰が建屋に入るかを決めなければならないことでした。それは、どれだけの放射線が飛び交っているのか見当もつかない原子炉建屋の中に突入する、命がけの作業だったからです。

 伊沢当直長が「俺がまず現場に行く。一緒に行ってくれる人間はいるか」と口火を切ったとき、現場に駆けつけていた先輩当直長の大友喜久夫氏と平野勝昭氏がそれを遮るように言いました(映画では吉田氏以外は別名で描かれています)。

 

 「現場には私が行く。伊沢君、君はここにいなきゃ駄目だよ」

 「そうだ、お前は残って指揮を執ってくれ。私が行く」

 

 現場の中心には、指揮をとる責任者の存在が必要不可欠です。だからこそ先輩の大友氏と平野氏は、伊沢氏を現場のリーダーとして残すために、自分たちが行くと名乗りを上げたのです。(ここが、菅総理との決定的な違いだと言えるでしょう)。

 すると、堰を切ったように若手の作業員たちが、「僕が行きます」「私も行けます」と次々と手を挙げました。

 この場面からは、現場が一体となって難局に当たろうという空気がその場を支配したことが窺われます。空気の支配についてはマイナスの側面もありますが(その詳細については、2018年5月のブログ『空気とは何で、どのようにして作られるのか』をご参照ください)、ここでは、危機的状況を一致団結して打開するための力として作用したのだと思われます。

 いずれにしても、中央制御室に集まっていた人たちは、上から命令されたからではなく、自分たちの意志でベントをやり遂げようと決心したのです。

 

 決死のベント作業

 最初のベント作業を行ったのは、大友喜久夫氏と当直副長の大井川努氏でした。彼らは全面マスク、空気ボンベ、耐火服、線量計という重装備をまとい、電源を失って真っ暗になった原子炉建屋に突入しました。

 上がり続ける線量計の数値と闘いながら、ベントを行うバルブを探し当てます。そして手動でバルブをこじ開け、設定されたぎりぎりの時間内で中央制御室に帰還しました。それがいかに困難な作業であったかは、映画では圧倒的な臨場感と、息をもつかせぬ緊迫感で描かれています。

 第二陣は遠藤英由氏と紺野和夫氏の二人でした。彼らが開けようとしたバルブは、コンクリート壁のない圧力制御室の上にありました。つまり、コンクリート遮蔽のない、より危険な場所へ突入したのです。

 やはりというか、当然であったというか、放射線量は想像を越えるものでした。彼らが原子炉建屋に突入した時点で、線量計はすでに900ミリシーベルトを指していました。さらに進んだとき、線量計はついに振り切れました。ベントを断念した二人は、中央制御室に戻らざるを得ませんでした。

 帰還した彼らは、「済みませんでした」「もう一度行かせてください」と絶叫します。この場面から、ベントがまさに命を懸けた挑戦であったことが分かります。それにもかかわらず、ベントができなかったことに謝らずにはいられない、日本人のメンタリティーを示す場面でもあったと言えるでしょう。

 

海水の注入

 1号機が水素爆発を起こして瓦礫が散乱し、放射能汚染が進行するなかでも、消防車による注水活動は続けられていました。自衛隊の駐屯地から運ばれた消防車による注水作業が行われ、これには自衛隊の隊員も数多く加わりました。

 注入する真水がなくなった後には、残された方法は海水をの注入するしかありませんでした。不幸中の幸いというべきか、巨大なプールには、津波によってたまった大量の海水がありました。その海水を消防車によって原子炉に注入する作業が、東電の職員と自衛隊員の合同作業によって始まりました。

 

官邸からの妨害

 しかし、ここでも官邸からの妨害が入ります。官邸に詰めていた東電の武黒一郎フェローから、吉田所長のもとに、突然海水の注入を止めるように電話が入ったのです。

 もう注入は止められないと訴える吉田所長に、武黒フェローは次のように言い放ちます。

 

 「官邸が、グジグジ言ってんだよ!」

 

 なんと、官邸が海水の注入を渋っていると言うのです。そして、その理由が、海水の注入によって原子炉が「再臨界」を起こすかもしれないというものでした。

 再臨界とは、原子炉が停止して未臨界状態になった後、何らかの理由で核分裂連鎖反応が再び始まって臨界に達することです。

 海水を注入することで、再臨界が起こることなどあり得るのでしょうか。たとえ可能性があったとしても、それは現場の専門家の方がずっと詳しいはずであり、官邸という「素人」が口を出す問題ではないはずです。

 

吉田所長の機転

 吉田所長は、本店から改めて海水注入中止を指示する命令が来るかもしれないと気づきます。そこで吉田所長は機転を働かせて、あらかじめ担当者に「俺が中止命令を出したとしても、海水注入を続けるように」と耳打ちしました。

 そして、実際にテレビ電話で本店から海水の注入を中止するように命令されたとき、吉田所長は「海水の注入を中止しろ」と部下に指令を与えます。しかし、打ち合わせ通り、海水は注入され続けました。

 もしもこの時、海水の注入を止めていたら、福島第一原発はどうなっていたでしょうか。もしかしたら東日本は、人が住めない場所になっていたかも知れません。

 

 以上で述べてきたように、福島第一原発の事故では、現場の人々の命がけの闘いによって、原発の暴走はなんとか食い止められていました。ただし、これで問題が解決したわけではありません。この後も危機的な状況が、次から次へと彼らに襲いかかって来たのです。(続く)

 

 

参考文献

・ 門田隆将:死の淵を見た男 吉田昌朗と福島第一原発の五〇〇日.PHP研究所,東京,2012.