オウム真理教とは何だったのか(7)

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 前回のブログでは、麻原彰晃が起こさせた地下鉄サリン事件と、西郷隆盛が倒幕の口実とするために、江戸で赤報隊によって起こさせた事件を比較しました。なぜこのような大胆な比較を行ったかと言えば、麻原と西郷がともに内的自己を代表する人物だからです。

 今回のブログでは、西郷が自決後にどのような経緯で英雄になったのかを述べながら、オウム真理教の今後について考えみたいと思います。

 

英雄となった西郷

 西南の役で敗れ自決した西郷は、明治政府にとってはまさに賊軍の将でした。反政府軍を導いたのですから、通常であれば悪行を成した者として後の歴史に名を残したはずです。ところが西郷は、明治22年大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって賊軍の将という汚名を解かれただけでなく、正三位という高い官位まで追贈されます。そればかりか、明治31年に上野に銅像まで建立され、時の内閣総理大臣山縣有朋をはじめとする多くの政府関係者が除幕式に立ちあい、生前の西郷の偉業を称えました。

 なぜこのような不可解なことが起こったのでしょうか。その理由を原田伊織は、『大西郷という虚像』1)のなかで次のように述べています。

 

 「一体何が、このような奇異な現象をもたらしたのか。

 それは明治新政府の核である長州閥の『後ろめたさ』であろう。権力と、それに付いてくる富を求めて政争を繰り返し、汚濁に首まで浸かった長州閥の、西郷に対する、そして、大西郷という虚像を愛する大衆に対する後ろめたさであったと断言して間違いはない」(『大西郷という虚像』299頁)

 

 この「後ろめたさによって死者を称える」という行動様式は、日本に独特のものです。以前のブログでも取り上げましたが、ここで少し振り返っておきましょう。

 

御霊信仰

 日本において古来から神として祀られるのは、菅原道真崇徳上皇後醍醐天皇などいずれも不幸な死に方をし、恨みをのんで死んでいった人であると指摘されています。不幸な死に方をした人が、後に祟りを起こすことを恐れ、彼らを神として祀ったのです。これを御霊信仰と呼びます。

 では、どのような人が神として祀られるのでしょうか。不幸な死に方をして、恨みを飲んでいっただけでは怨霊になるとは限りません。以前にも検討しましたが、大儀のない死に方をした人で、しかも冤罪によって死に追いやられた人だけが怨霊になると考えられています。罪のない者を、冤罪によって殺してしまったという残された人々の後ろめたさが、祟られるのではないかという恐怖を生み、その恐怖が投影されて怨霊が生まれるのです(詳細は、2018年3月のブログ『聖徳太子は実在したのか』をご参照ください)。

  翻って西郷について考えてみましょう。西郷は賊軍の将として最後を迎えたのですから、その死には大儀がなかったと言えます。一方で、反政府勢力の将として実際に戦争を起こしていますから、少なくともその罪は冤罪ではありません。したがって、西郷が大きな恨みを飲んで死んでいったとは思われておらず、怨霊と見なされることもありませんでした。

 

西郷への後ろめたさとは

 西郷への後ろめたさは、御霊信仰を生むような種類のものではありませんでした。では、明治政府の為政者たちが抱いた後ろめたさとは、一体どのようなものだったのでしょうか。それは新政府の為政者たちが、西郷の方に義があると感じていることから来る後ろめたさではないでしょうか。

 先のブログでも指摘したように、明治維新は改革を行った武家自身の手によって武家の存在を抹殺するという前代未聞の大改革でした。この大改革がスムーズに断行されたのは、王政復古尊王攘夷というスローガンに士族たちが共鳴したからです。ところが明治政府は、維新がなった途端に手のひらを返したように西欧化を推し進め、西欧文化の模倣を始めます。旧士族たちは、明治政府に裏切られたと感じたことでしょう。その不満が頂点に達したのが、西南の役でした。

 明治政府の首脳たちは、西欧化を現実的な、やむを得ない政策だと信じていました。しかし、旧士族だった彼らは、心の底では反乱軍の気持ちは手に取るように分かっていたはずです。気持ちを充分に理解できるにも拘わらず、身分を失った旧士族たちに何もすることができませんでした。一方で西郷は、旧士族たちの思いを一身に背負って彼らとともに滅んで行きます。明治政府の首脳たちは、心情的には西郷のように振舞いたかったのに、現実的な政治を続けるために、戦って旧士族たちを伐たねばならなかった。こうした忸怩たる思いがあったからこそ、反乱軍の将として戦い、賊軍の将として散っていった西郷に対して、後ろめたさを感じたのでしょう。

 義のある者を死なせてしまったというこの後ろめたさも、西郷が英雄として復活するために貢献したと考えられます。

 

第二の西郷の出現を恐れた

 西郷の復権には、さらに別の理由がありました。それは明治政府の首脳たちが、第二、第三の西郷が現れることを恐れたことです。

 旧士族たちの不満は、古来からの日本の政りごとを復活させ、外国勢力を排除することを目指して改革を行ったのに、新政府は西欧文化を取り入れることばかりに腐心しているというものでした。言い換えれば、これは内的自己の不満でした。そして、内的自己の不満は燻り続けました。明治政府は、内的自己の不満が爆発することを恐れました。

 明治11年、外的自己の中心的存在であった大久保利通が、旧士族たちに暗殺されます。政府の首脳たちは、政府への不満がさらに昂じることを恐れました。そこで、旧士族の不満、内的自己の不満を軽減させるために、西郷の名誉を回復させることにしたのだと考えられます。明治22年大日本帝国憲法発布に伴う恩赦は、その絶好の機会でした。西郷は汚名を解かれただけでなく、正三位という高い官位まで追贈されました。西郷の名誉回復は、上野に銅像を建立することで完成します。

 こうして旧士族たち、すなわち内的自己の不満を軽減させ、再び不満を暴発させないために、西郷の名誉回復は実現しました。西郷が英雄となることで、旧士族および内的自己は逆賊ではなく、英雄とともに生きたと感じることができました。この策は一定の成果を収め、その後は旧士族たちの暴発は影を潜めることになったのです。

 

麻原彰晃は神として復活するか

 さて、ずいぶんと遠回りをしましたが、オウム真理教に話を戻しましょう。死刑になった麻原彰晃は、西郷隆盛のように復活を遂げることがあるのでしょうか。

 報道機関を通して伝えられる麻原の言動は、復活を困難にする内容ばかりです。『オウム真理教事件とは何だったのか?』2)によれば、その言動は以下のようでした。

 上九一色村に警察の強制捜査が入った際、第六サティアン2階の天井部分に作られた小さな隠し部屋で発見された麻原は、1千万円近い札束を腹に巻くように隠し持ち、埃まみれになって捕まりました。この逮捕劇は、麻原が小心な俗物であり、聖人とは程遠い人物であることを印象付けました。

 さらに裁判中に、怪しげな英語交じりの妄想的な発言を繰り返したり、拘置所では号泣しながら独り言を呟いたり、大声で突然叫んだりするため、保護房に入れられたこともありました。また、運動や入浴時間以外は、独居房の中でぶつぶつ言いながら一日を過ごしていました。さらに、入浴も一人ではできず、身体を洗うことはもとより、オムツの交換もすべて刑務官に手伝ってもらわなければ、何一つできない状態だったといいます。

 これらは拘禁反応、つまり刑務所や拘置所などで自由を強制的に抑圧された際に現れる精神病様症状であるのか、または逮捕や信者の離反を誘因として実際に重い精神疾患を発症したのかは、文面だけでは分かりません。しかし、このような姿は、修行を積んで悟りを開いた者とは程遠い姿にしか見えないでしょう。

 さらに死刑執行の最後の時に、「何をする。バカヤロー」と泣き叫ぶ麻原を4人がかりで抱え上げるように死刑台にのせたと伝えられるなど、麻原はただの小心な俗人であったとしか思えない最後の姿を見せました。

 以上のように、逮捕されて以降の麻原の言動は、神として復活する要素を何一つとして備えていないことがわかります。オウム真理教が、死んだ麻原を神と仰いで隆盛を取り戻すことは、当面の間は難しそうです。

 ただし、オウム真理教が復活する可能性がまったくなくなったわけではありません。それは、麻原の目指したものが、われわれの心の奥底にも潜んでいるからです。

 

オウム真理教の目指したもの

 公安調査庁は、オウム真理教の活動目的と攻撃対象を次のように捉えています。

 

「(1) 活動目的
 教祖である麻原及び麻原の説く教義への絶対的帰依を培い、現行憲法に基づく民主主義体制を廃し、麻原を独裁的主権者とする祭政一致専制政治体制を我が国に樹立すること。
 (2) 攻撃対象
 上記の活動目的の実現にとって障害となるあらゆる勢力」(『公安調査庁』ホームページより)

 

 「現行憲法に基づく民主主義体制を廃し」とあるのは、これまでの検討から、対米追従している政府、つまり外的自己である現行政府を転覆させることを意味します。「麻原を独裁的主権者とする祭政一致専制政治体制」とは、麻原が首相を超える権力を持った独裁者になることです。以前のブログで指摘したように「天皇もすでにアメリカの傀儡になっている」とオウムは考えていましたから、麻原は、天皇の代わりになろうとしていたのかも知れません。麻原が天皇であり、政治的指導者でもある祭政一致の政治体制をオウムは目指していました。

 このオウム王国の実現にとって障害になるあらゆる勢力が、オウムの攻撃対象でした。そして、その究極の攻撃対象が、「日本を滅ぼそうとしているアメリカ」でした。 麻原が「ワシントンに原爆を落としたらどうなるか」と質問した後、「オウムでは原爆もつくれるんだぞ」と話したと林郁夫が回想していますが、これはオウムの攻撃の最終目標でもあったと思われます。アメリカ政府も、教団の抱く強い反米思想に大きな衝撃を受け、CIAにオウム真理教の詳細な調査をさせているほどです(『オウム真理教事件とは何だったのか?』166‐167頁)。

 

繰り返される内的自己の問題

 さて、これまでに検討してきたように、オウム真理教は根底に内的自己の特徴を有し、オウムの目指すものは内的自己の目指すものと共通していました。岸田秀が指摘するように、戦前の軍部が目指すものと、オウムが目指すものが同じであるのは、両者がともに内的自己であるためです。

 麻原およびオウムの幹部の死刑が執行されましたが、それでオウムの問題が解決したわけではありません。日本社会が抱える問題、すなわち内的自己と外的自己が分裂し、抑圧された内的自己が時々暴発するという問題を何とかしない限り、オウム真理教が起こした問題は、姿を変えて何度でも現れると考えられるのです。(了)

 

 

文献

1)原田伊織:大西郷という虚像.悟空出版,東京,2016.

2)一橋文哉:オウム真理教事件とは何だったのか?麻原彰晃の正体と封印された闇社会.PHP研究所,東京,2018.