無差別殺傷事件はなぜ起こるのか(3)

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 前回のブログでは、成育環境における母性の働きについてみてきました。

 もし母性が乏しければ、安全な胎内から危険に満ちた世界へと投げ出された子どもの不安は、解消されるどころか増幅されることになります。それは、無力な子どもにとって、母親からの世話を受けられないことは、死へと直結する事態になるからです。子どもは死の恐怖におののき、自らが消失する不安に苛まれます。そして対象世界は、自らを死へと追いやる存在として映るでしょう。

 今回のブログは、この状況をもう少し詳しく検討することから始めましょう。

 

メラニー・クライン

 乳幼児の精神世界を垣間見るために、ここではメラニー・クラインを取り上げてみましょう。

 メラニー・クラインは、対象関係論や児童精神医学を開拓したオーストリア出身の女性精神分析家です。治療上の対応を巡って、フロイトの娘であるアンナ・フロイトと論争を行ったことは有名です。クラインの思想は、その後の精神分析や哲学などに幅広い影響を与えました。

 クラインの精神分析理論は、フロイトの本能二元論をそのまま受け入れて、生物学的な生の本能と死の本能の葛藤とその変遷が、人格発達に基本的な影響を与えると考える立場を採っています。さらにその葛藤が、フロイトのいうエディプス期からではなく、乳幼児期から認められると主張するところに大きな特徴があります。

 

死と迫害の恐怖

 メラニー・クラインが、その著書である『妄想的・分裂的世界』1)で提唱した乳幼児の精神内界の有り様は、この時期の危機的状態を克明に描いています。

 

 「私が主張するのは、生体の内部において死の本能の活動から生じる不安が、絶滅(死)の恐怖として感じられ、迫害の恐怖という形をとるということである。破壊衝動への恐怖は、直ちに対象に帰せられるようにみえるが、しかしむしろ、支配的で圧倒的な力を持つ対象に対する恐怖として体験される。一次的な不安(primary anxiety)を生み出す他の重要な源泉は、出産外傷(分離不安)と、身体的欲求の挫折である。しかもこれらの体験もまた最初から、対象によってひき起こされるものとして感じられる。これらの対象はたとえ外的なものとして感じられるにしても、取り入れを通して、内的な迫害者(internal persecutors)になり、内部で破壊衝動への恐怖を強化する」(「妄想的・分裂的世界」7-8頁)

 

 クラインは、乳幼児に生じる絶滅(死)と迫害の恐怖の源泉を、フロイトの死の本能に求めています。

 しかし、死の本能という概念を用いなくても、子どもに生じる一次的な不安、そして絶滅(死)と迫害の恐怖は説明することができます。それこそが、母性の喪失によってもたらされる事態なのです。(死の本能の詳細については、2018年1月のブログ「死の本能は存在するのか」をご参照ください)。

 

母性の喪失と強力な父性

 母性が失われると、子どもの精神世界にはどのような影響がみられるのでしょうか。それは端的に、母性の喪失によってもたらされる、実生活における死への恐怖感覚です。クライン自身が指摘する出産外傷と身体的欲求の挫折という要因は、母性の喪失によって増強されます。

 母親からの庇護を得られず、身体的欲求が満たされない状況が続けば、無力な子どもは現実の死に直面します。この状況において子どもの精神内界には、自らが消滅する不安と死への恐怖が引き起こされます。
 また、クラインは、死の本能から生じる破壊衝動への恐怖が、子どもには支配的で圧倒的な力を持つ対象に対する恐怖として体験されると述べていますが、これについても死の本能を仮定する必然性はありません。

 前回のブログで取り上げた、シュレーバーの父親にみられるような強力な父性が、子どもにとって支配的で圧倒的な力を持つ対象への恐怖として感じられるからです。支配的な父性を持つ父親(またはその代替者)は、子どもの精神内界では、将来の内的な迫害者の原型となります。

 父性とは本来、アシャニンカの父親のように、世界と民族の成り立ちを語り、その中でいかに生きるのかを伝える役割を担うのだと考えられます。

 

クラインの世界は一般的ではない

 クラインは、先に挙げたような精神内界の有り様を、乳児一般に認められるものと捉えています。しかし、豊かな母性に支えられた乳児の精神内界が、死と迫害の恐怖によって占められているとは考えにくいのではないでしょうか。それはむしろ、母性の喪失が生んだ、特殊な状況がもたらす精神状態と考えた方が自然であるように思われます。
 クラインは、多くの臨床経験に基づいて自らの理論を構築したのですが、そもそも彼女が観察した乳幼児は何らかの精神的問題を抱えていたはずであり、さらには当時の時代背景において母性を喪失した社会的状況が存在していたことが、彼女の理論に大きな影響を与えたのではないかと考えられるのです。

 

理想化と否認
 さて、クラインの描く乳児の精神内界が、母性の喪失によって形成されていると仮定して、さらに彼女の理論を読み進めてみましょう。

 クラインは、早期の防衛機制として、理想化と否認を挙げています。
 母性の喪失によって絶滅(死)や迫害の恐怖を感じた子どもは、対象にわずかに認められる良い部分だけを探し出して強調し、さらにこれを理想化することで恐怖を克服しようとします。世界の中に理想的な対象を作り出し、その理想化された対象に守られていると感じることで、子どもは絶滅(死)の恐怖を解消しようとします。
 そして、対象を理想化するためには、現実から目を逸らし、悪い対象の存在を否認することが必要になります。

 

 「欲求不満をひき起こし、迫害する対象は、理想化された対象からはるかに遠くに置かれる。けれども悪い対象は良い対象から隔てられているだけでなく、欲求不満の結果生じる悪い感情(痛み)が否認されてしまうのと同じように、その存在そのものも否認されてしまう」(「妄想的・分裂的世界」11頁)

 

 クラインが述べる、欲求不満をひき起こし、迫害する悪い対象こそが、現実に存在する母性を喪失した母親(またはその代替者)です。

 このように母性を喪失した母親に対して乳幼児は、少しでもいいところがあればこれを強調して理想化し、同時に現実のだめな部分は極力否認して存在しないかのように認識しようとするのです。

 

自我も一緒に否認される

 このように対象の否認は、子どもの精神内界において、自我を防衛するために行われています。ところがこの否認は、一つの対象関係として、自我にも及ぶことになるとクラインは指摘しています。

 

 「否認され絶滅されるのは、一つの状況や一つの対象だけではない。この運命をこうむるのは、まさに一つの対象関係である。それゆえ対象へ向かう感情を生みだすような自我の一部も、同じように否認され絶滅されてしまう」(「妄想的・分裂的世界」11頁)

 

 絶滅(死)と迫害の恐怖を生み出す対象は、子どもの精神内界において自我を守るために否認され、絶滅されます。しかも、対象へ向かう感情を生み出すような自我の一部も、「一つの対象関係」として同じように否認され、絶滅されます。
 それは、この否認という現象が、まさに一つの対象関係の中で生じているからです。実は、否認の起源は対象の側にあります。母性を喪失した母親(またはその代替者)が、子どもの存在そのものを認めていないことがそもそもの否認の始まりです。

 対象からその存在が認められず、対象から何の庇護も受けられない状況において、無力な子どもは絶滅(死)の恐怖を体験します。この恐怖から逃れるために、子どもは恐怖を与える対象の存在そのものを否認するようになります。つまり、否認は一つの対象関係として、対象と子どもの双方で同時に行われるのです。

 

自分が無い、家族が無いという嘆き

 さて、ここで無差別殺傷事件を起こした加藤の検討に戻りましょう。

 加藤は『解』2)の中で、「自分が無い」とか「家族が無い」と繰り返し記しています。3歳以前の成育歴が分からないため断定はできませんが、その後の経過から推察して、乳幼児期の加藤が母性に恵まれた環境にいたとは考えにくいでしょう。

 3歳以降の養育環境では、彼は母親からしつけと称する度重なる虐待を受け続けました。さらに、母親の意向に添わないことは徹底的に否定され、自分の意志や希望を押しつぶされる経験を繰り返しています。

 つまり、加藤にとって母親は自らを慈しみ庇護してくれる対象ではなく、自らを迫害する対象、または自らが存在する意義を認めない対象として映ったでしょう。一方で父親は、一緒に遊んでくれた幼少時はともかく、家を新築して以降は家に帰らないことも増え、虐待を受けていた加藤を助けずに「見て見ぬふりをしていた」ことから、やはり加藤の存在意義を充分に認めていなかったものと思われます。
 このように両親は、加藤が母親の意向に添っているときを除いて、彼の存在する意義を認めて来ませんでした。つまり、両親は彼の存在そのものを否認し続けたのです。そして、彼自身も、このような扱いをする両親が存在する意義を否認したのでした。

 こうして彼は、「自分(の存在)が無い」と感じ、「家族(の存在)が無い」と認識せざるを得なかったのだと考えられます。(続く)

 

 

文献

1)メラニー・クライン(小此木啓吾岩崎徹也 責任編訳):メラニー・クライン著作集4 妄想的・分裂的世界.誠信書房,東京,1985.
2)加藤智大:解.批評社,東京,2012 .