バブル崩壊後になぜ日本は失われた10年を迎えたのか

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 バブル経済によって浮かれて日本社会は、バブル崩壊後に長い停滞を迎えることになります。1991年から始まった不況はなかなか回復せず、後に失われた10年とも失われた20年とも呼ばれています。

 なぜ不況はこれほどまでに長期化し、日本社会は長い停滞を迎えることになったのでしょうか。

 

バブル崩壊の衝撃

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、世界経済はグローバル化の方向に流れ始めました。91年の12月にソ連が解体すると、唯一の超大国となったアメリカは、「グローバル・スタンダード」という名のアメリカ基準の経済戦略を展開して、世界の覇権を再び取り戻して行きます。
 一方、日本では1991(平成3)年にバブルが崩壊し、土地や株価の下落に伴う投機意欲の急激な減退や信用収縮が起こりました。必要以上の金融引き締め政策を行ったことも手伝って景気は急速に後退し、日本経済は長い停滞を迎えることになりました。
 浮かれていた日本社会は冷水を浴びせかけられ、人々は夢から覚めて冷徹な現実に向き合わなければなりませんでした。バブル景気に浮かれている間に、日本人が失ったものは余りにも膨大でした。日本人は自信と誇りをも喪失し、躁状態から一転してうつ状態に陥りました。日本経済が停滞を続け、1990年代に失われた10年を迎えたのは、日本社会全体が重度のうつ状態になっていたからです。

 

第二の敗戦

 日本経済の停滞とアメリカの覇権回復は、日本では「第二の敗戦」と呼ばれました。

 アメリカに対する日本経済の敗北は、日本人の無意識に眠っていた記憶痕跡を呼び覚ましました。それは敗戦後の占領時代に刻まれた、「日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にある」という記憶痕跡でした。この記憶痕跡の出現は、日本人を根底から支配し、理性的には根拠づけられないかたちで日本人の行動選択まで決定します。その影響は、政治と文化の両面にわたって現れました。

 

拒否できない日本

 『拒否できない日本』1)の中で関岡英之は、日本が近年様々な分野で、アメリカにとって都合のいい社会に作り替えられてきたと指摘しています。

 建築基準法の改正、半世紀ぶりの商法大改正、公正取引委員会の規制強化、弁護士業の自由化や様々な司法改革等、これらはすべて、アメリカ政府が彼らの国益のために、日本政府に要求して実現させたものだといいます。同書によれば、その手法は次のようでした。
 1993(平成5)年7月の宮沢・クリントン首脳会談による政府間合意を根拠として、1994年から毎年、アメリカから日本に「年次改革要望書」が提示されるようになります。そこには、日本の産業、経済、行政から司法に至るまで、そのすべてを対象にした様々な要求が列挙されました。この文書によって示された要求が、現実の政策となって、日本社会を改革して行きます。

 

 「『年次改革要望書』は単なる形式的な外交文書でも、退屈な年中行事でもない。アメリカ政府から要求された各項目は、日本の各省庁の担当部門に振り分けられ、それぞれ内部で検討され、やがて審議会にかけられ、最終的には法律や制度が改正されて着実に実現されていく。(中略)そして日本とアメリカの当局者が定期的な点検会合を開くことによって、要求がきちんと実現されているかどうか進捗状況をチェックする仕掛けも盛り込まれている。アメリカは、日本がサボらないように監視することができるようになっているのだ」(『拒否できない日本』55頁)

 

 これは、明らかな内政干渉だと言えるでしょう。そして、さらに特筆すべきことは、この「年次改革要望書」は全文が日本語に翻訳されて在日アメリカ大使館のホームページで公開され、誰でも簡単に読むことができるようになっていることです。

 

一方的な要求

 「年次改革要望書」は、正式には「日米規制改革および競争政策イニシアティブに基づく要望書」といい、日本政府とアメリカ政府が両国の経済発展のために、改善が必要と考える相手国の規制や制度の問題点についてまとめた文書です。つまりアメリカからの一方的な要求ではなく、日本がアメリカに対しても要求ができる仕組みになっています。また実際には、アメリカからの要望がすべて日本で実現しているわけではありません。
 それにも拘わらず、この問題が注目されているのは、「年次改革要望書」が相互要求の形式をとっているものの、アメリカからの要求が余りにも一方的に目に見える形で実現している点にあります。1994年以降の日本は、半ばアメリカの言うままに政策を実行してきたといっても過言ではないでしょう。

 

アメリカに黙従する日本

 2001(平成13)年から5年5ヶ月にわたった小泉政権では、日本の対米追従はいっそう顕著になります。内政では、新自由主義的な改革が推し進められ、あらゆる分野で民営化が推進されました。市場原理主義を旗印にしたアメリカ式の新自由主義経済に、日本経済は大きくシフトしました。改革の本丸と位置づけられた郵政民営化は、小泉首相のかつてからの持論ではありましたが、「年次改革要望書」でアメリカから要求されていた点も見逃すことはできません。
 また、9・11同時多発テロ以降のアメリカへの追従外交も、かつての枠組みを大きく逸脱するものでした。ブッシュ大統領が行った「テロへの報復攻撃」をいち早く支持したのは小泉首相でしたし、対米協力が強化されて自衛隊が海外に派兵されたことは、戦後の安全保障政策の大きな転換点になりました。以上のように、第二の敗戦後の日本は、政治においても経済においても、対米追従を鮮明にしました。

 ここで特筆すべきは、この対米追従が、アメリカの軍事力を背景に強要されたものでも、巧妙な謀略によって日本人が知らぬ間に達成されたものでもないことです。アメリカは「年次改革要望書」を日本人の誰もが分かるように公開し、日米首脳会談の模様は詳しく報道され、日本の政策決定は国会の正当な手続きに則って行われました。そして、対米追従政策を推進した小泉首相は、選挙によって国民の圧倒的な支持を受けました。

 この現象は、政治家が、官僚が、マスコミが、そして日本国民が、そうとは意識しないまま自らアメリカに黙従した結果としか考えられないのではないでしょうか。

日本文化への影響

 では、このような現象はなぜ起こったのでしょうか。それは第二の敗戦によって、「日本はアメリカよりも文化の成熟度において劣っており、そのためアメリカに黙従する立場にある」という記憶痕跡が無意識から出現したからだと考えられます。そして、この記憶痕跡に日本人は根底から支配され、理性的には根拠づけられないかたちでその行動選択までが決定されてしまったのです。
 この記憶痕跡の出現は、日本の文化にも影響を与えました。アメリカ文化を模倣することが何よりも重要であると、日本人は知らず知らずのうちに捉えるようになりました。

 

文化が断絶される危機

 その影響は、平成の時代になってより鮮明に現れました。文化に基づく人々の行動様式が、大きな変化を見せ始めました。

 他者を畏れ礼節をわきまえる対人関係は過去のものとなり、フレンドリーで平等な対人関係が好まれるようになりました。謙虚さや奥ゆかしさを尊ぶ精神は軽んじられ、個人の権利が声高に叫ばれるようになりました。社会に対する責任や公共心が薄れ、個人の自由や個性が重要視されるようになりました。物質的豊かさが至上の目的になり、財を有することが尊敬の対象になりました。勤勉や禁欲は顧みられなくなり、消費と享楽が礼賛されました。助け合い、支え合うための均質な共同体は解体され、格差の容認と自己責任論が現れました。

 日本古来から続いてきた「和を以て貴しと為す」精神や「恥の文化」は、すでに風前の灯になりました。文化においても、自由と権利、そして個人主義や拝金主義が、大手を振って巷を闊歩するようになったのです。

 

生きる意味の喪失
 その結果日本人は、文化と伝統を分断され、歴史に根ざした誇りを根本的に失う危機に直面することになりました。この状況が日本人の精神状態にどれほど壊滅的な影響を与えるのかは、われわれの想像をはるかに凌駕するものがあります。
 文化の正当性と継続性は、その文化に属する個人の精神世界を構築する基盤として、必要不可欠な要素です。日本文化は、この必要不可欠な要素をまさに喪失しつつあります。文化的基盤の喪失は、人々から自尊心を奪い取り、個々人が社会に存在する意義さえも浸食して行きます。

 世界で有数の経済的な豊かさに囲まれ、戦争のない平和で恵まれた環境にありながら、現代の日本人は幸福感に浸ることができないでいます。そればかりか、日本の巷間には、生きている実感を失い、生きることの意味さえも分からない人々が溢れているのです。(了)

 

 

文献

1)関岡英之:拒否できない日本-アメリカの日本改造が進んでいる.文藝春秋社,東京,2004.