マッカーサーは日本社会にどのような足跡を残したのか(1)

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 日本は第二次世界大戦において、完膚無きまでの敗戦とその後の屈辱的な占領を受けることになりました。現人神を立て、中央集権国家としてひたすら近代化を推し進めてきた日本社会は、アメリカの占領政策によって劇的な変革を強いられることになりました。その変革は、日本固有の社会に立ち戻ることではなく、自由主義・資本主義というもう一つの近代社会に組み込まれることを意味しました。それは近代化の最後の道のりであり、一方において、日本文化の断絶と破壊への道のりでもあったのです。

 

アメリカの占領政策

 敗戦によって日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の管理下に置かれることになりました。GHQによる日本の占領は、1945年から6年8ヶ月に渡って続けられました。この間に日本は、まず軍事機構と国家警察を解体され、極東国際軍事裁判所で東条英機A級戦犯28名が戦争責任を問われて刑に処されました。並行して憲法改正が行われ、GHQの原案をもとに日本国憲法が制定されます。この新たな憲法は、主権在民象徴天皇制戦争放棄基本的人権の尊重など、明治憲法の内容を一新したものでした。
 新憲法のもとで政治の民主化が図られ、続いて資本財閥の解体、そして農地改革が行われました。内政は日本政府が担ったもののGHQの影響下に置かれ、日本政府は外交権すら持てませんでした。このように日本は、アメリカから完全に支配され、統治されていたのです。

 

天皇人間宣言

 新憲法発布に先立つ昭和21(1946)年の元旦に、いわゆる「天皇人間宣言」が盛り込まれた詔書が発表されました。太平洋戦争時には現人神として、何人たりとも犯すことのできない神性をまとっていた天皇は、敗戦によって象徴的な存在、そして人間としての存在に戻されました。日本では、近代化の過程でみられる唯一、絶対の神の「殺害」は、このように日本人自ら行ったのではなく、敗戦によって他国から強制的に行われました。
 敗戦によって天皇が現人神から人間に戻ったという事実は、国家神道という宗教の終焉を意味しました。国家の中心を成す概念の突然の消失は、国家神道という擬似一神教が支えてきた社会に、混沌と崩壊をもたらす可能性を生みました。たとえばそれは、キリスト教社会からキリスト教が消失する事態や、社会主義国家からマルクス・レーニンの教義が失われる事態と同様の危険性を孕んでいました。

 

ダグラス・マッカーサー

 しかし、現実には日本が無秩序状態となり、社会が崩壊することはありませんでした。それは日本社会に、天皇に代わる新たな支配者が現れたからです。その支配者とは、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーでした。
 昭和22年9月27日に、昭和天皇マッカーサーが初めて会見します。この会見の写真には、天皇マッカーサーが並んで写されていました。マッカーサーの横で正装し、緊張した面もちでたたずむ天皇の姿からは、もはや神の威光を窺い知ることはできませんでした。一方、天皇を見下ろすような長身でリラックスして立つマッカーサーは、まるで天皇の庇護者のようでした。この写真が新聞に掲載されると、たちまち日本中に大きな反響を呼び起こしました。この写真は、支配者の移行を象徴的に示す効果を人々に与えたのです。

 

絶対的な支配者

 マッカーサーは、戦後日本の絶対的な支配者でした。そのことは、マッカーサー自身もはっきりと自覚していました。彼は、自身の回顧録で以下のように述べています。

 

 「私は八千万を越える日本国民の絶対的な支配者となり、日本がふたたび自由諸国の責任ある一員となる用意と能力と意志を示すまでその支配権を維持することとなったのである」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』1)179頁)

 

 この時の占領政策における課題は、政治、経済、軍事の領域を超えて、日本人の精神的な側面にまで及びました。

 

 「私は戦争でほとんど完全に破壊された一つの国家を再建する、という仕事を課されたのであった。私はかつて学んだ道義的な教えや、自分のもつ個性や、あるいは私の心の底にある人間観といったものからとにかく何かをひきずり出して、この政治的、経済的、精神的空白の中に名誉、正義、同情の観念をつぎ込むという任務に当面していた。日本はいまや、国民を全体主義的な軍部の支配から解きはなち、政府を内部から自由化するという実験の一大研究所となったのである」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』182頁)

 

 そして、占領施策を行うマッカーサーは、日本人の保護者であると自認し、保護者としての深い責任感すら感じていました。

 

 「私が一貫して、時には自分の代表する諸大国に反対してまでも、日本国民を公正に取り扱うことを強調していることがわかってくるにつれて、日本国民は、私を征服者ではなく、保護者とみなしはじめたのである。私は、これほど劇的な形で私の責任下に置かれた日本人に対して、保護者としての深い責任感を感じていた」(『マッカーサー大戦回顧録[下]』185頁)

 

 マッカーサー自身が語っているように、彼は日本国民の絶対的な支配者であり、保護者だったのです。

 

父と子の関係

 マッカーサーと日本人は、まさに圧倒的な力を持った父親と子どもの関係にありました。戦後の日本人はこの関係を受け入れ、自分自身を「マッカーサーの子」と呼ぶことが習慣のようになっていました。マッカーサー解任が発表された翌日、朝日新聞は次のような社説を掲載しています。

 

 「われわれは終戦以来、今日までマッカーサー元帥とともに生きて来た。・・・日本国民が敗戦という未だかつてない事態に直面し、虚脱状態に陥っていた時、われわれに民主主義、平和主義のよさを教え、日本国民をこの明るい道へ親切に導いてくれたのはマ元帥であった。子供の成長を喜ぶように、昨日までの敵であった日本国民が、一歩一歩民主主義への道を踏みしめていく姿を喜び、これを激励しつづけてくれたのもマ元帥であった」(『敗北を抱きしめて[下]』2)403頁)

 

 このように日本人は、日本の復興を親切に導き、「子供の成長を喜ぶように」激励し続けてくれたマッカーサーに対して、最大限の感謝の言葉を贈りました。

 

占領を自ら引き受けたという欺瞞

 しかし、この感謝の気持ちは、日本人がマッカーサーの子供の立場を自ら進んで引き受け、マッカーサーの政策を自らの意志で受け入れたという欺瞞のうえに成り立っていました。

 現実的には、絶対的な征服者であったマッカーサーに対して、被征服者である日本人は黙従するしかなく、彼の示す政策に異を唱える余地は残されていませんでした。もちろん、ゲリラ的に徹底抗戦する方法もありましたが、日本人はそれを選びませんでした。敗戦によって日本人は我に返り、本来の戦いを忌避する民族に戻ったのです。
 しかし、その現実を直視することは、当時の日本人には到底できることではありませんでした。なぜなら、この敗戦・占領による屈辱的な体験の背景には、それから遡ること約一世紀前に同様の体験があったからです。

 

ペリーショックの再来

 それは、鎖国政策を敷いていた日本が、アメリカの東インド隊司令官であったペリーに開国を迫られた事件です。黒船によって示された技術力と軍事力に圧倒された幕府は、200年以上に渡って続けてきた鎖国政策を解き、アメリカとの間に屈辱的な不平等条約を結びました。

 この事件の衝撃は計り知れず、265年続いた江戸幕府は倒れ、新たに明治政府が樹立されました。明治以降の日本は、この屈辱体験の記憶を無意識の中に抑圧し、富国強兵政策を掲げて国を富ませ、軍事力を蓄えてきたのです。

 

屈辱感を晴らすための戦争

 日本人は、この屈辱感を晴らすために、アメリカに対して戦争を仕掛けたと言っても過言ではありませんでした。

 もちろん、開戦の原因は一つではないでしょう。アメリカは、対日経済封鎖や日本の対外政策を全面的に否定したハル=ノートの提示などによって、日本を徹底して追いつめました。そこには、根強く続いていた米国民の参戦反対論を、日本の攻撃によって一掃したいというローズヴェルト大統領のしたたかな計算があったとも言われています。

 しかし、その思惑に乗って戦争を仕掛ければ、短期間で戦争が終結しない限り、経済力で圧倒的に劣っていた日本が敗北を喫することは火を見るよりも明らかでした。開戦の決断には、理性的には説明できない無意識の衝動、つまり、アメリカに対する屈辱感が大きく作用したのだと考えられます。(続く)

 

 

文献

1)ダグラス・マッカーサー(島津一夫 訳):マッカーサー大戦回顧録[下].中公文庫,東京,2003.
2)ジョン・ダワー(三浦陽一,高杉忠明,田代泰子 訳):敗北を抱きしめて(下) 第二次大戦後の日本人.岩波書店,東京,2001.