日本はなぜ超大国アメリカと戦ったのか(3)

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 これまでに検討してきたように、日本人は長年来抑圧し続けてきた屈辱感を解消するために、中国との、さらには超大国アメリカとの戦争に突入して行きました。その際に、戦いを避けるブレーキの役割を果たしてきた和の文化は、その姿を変容させることになりました。

 今回のブログでは、太平洋戦争時における和の文化に変容についてみていくことにしましょう。

 

和の精神の変容
 日本が戦争に踏み込んで行く過程で、和の文化は大きく姿を変えることになります。和とはそもそも、戦いを避け、社会や集団が平和で温和で和やかなことを目指す精神でした。聖徳太子が「和を以て貴しと為す」と語ったときの和とは、このような意味だったはずです。
 ところが、欧米列強と対峙しなければならなくなってからの和の精神は、日本の社会が一つにまとまるために専ら向けられるようになりました。そして、民族が一糸の乱れなく団結し、欧米列強からの脅威に対抗するための精神として高められて行きます。これがさらに純化され、戦闘に向かう姿勢として利用されるに及んで、和の精神は「大和魂」と表現されるようになりました。

 

大和魂とは

 元来大和魂とは、漢才、すなわち中国から伝えられた知識や学問を、「日本の実情に合わせて応用する実務的な能力」の意味で用いられていました。江戸時代になって、これに日本古来から伝わる固有の精神という意味が賦与されました。

 さらに明治維新後の帝国主義の台頭に伴い、国家への犠牲的精神と外国との戦闘を鼓舞する精神という意味が付け加えられます。こうして完成された大和魂とは、「日本民族に固有の、身命をも惜しまない勇猛果敢な精神的伝統である」と表現されるようになったのです。

 

命を惜しんで逃れてきた人々

 しかし、日本民族に固有の伝統と、身命をも惜しまない勇猛果敢な精神ほど相容れないものはないでしょう。日本民族に固有の伝統とは、本来は戦いを忌避し、何よりも集団の平和を優先する精神のはずでした。

 そもそも身命をも惜しまない勇猛果敢な人々は、勝利してその地で繁栄を遂げるか、敗れて死に絶えてしまうかの歴史をたどったでしょう。つまり、身命を惜しまない勇猛果敢な人々は、日本列島まで逃げ延びて来ることはありませんでした。そうではなくて、命を惜しんで戦いから逃れ続けた人々の末裔こそが、日本列島にたどり着いて戦いのない文化を構築してきました。
 つまり、大和魂という言葉が、身命を惜しまない勇猛果敢な精神として日本人の神髄を表現することなど、本来はあり得ないはずでした。

 

忌み嫌う戦いを無理に行うとき

 では、なぜ大和魂という言葉が、新たな意味を伴って創り上げられたのでしょうか。それは日本人の無意識の底流に、戦いに敗れ続けたことに対する屈辱感の記憶が存在していたからです。この屈辱感を刺激されると、日本民族は平和で温和で和やかな状態を求める志向から一転して、屈辱感を晴らそうとする戦闘的な一面が現れます。その結果として、和の精神は、身命を惜しまずに戦う大和魂に姿を変えたのだと考えられます。
 ただし、この身命を惜しまない勇猛果敢な精神的伝統は、日本人に本来備わっているものではありません。むしろ、日本人の本来の姿からはもっとも遠い精神のはずです。それがわざわざこのように表現されたのは、日本人の無意識の中に、一方で戦いへの忌避感が確固として存在しているからでしょう。つまり、本来は戦いを忌み嫌う人々が無理を押して戦うとき、自らを必要以上に、そして非現実的なまでに鼓舞しなければならなかったからこそ、このような過剰な表現を採らざるを得なかったのです。

 

自らを鼓舞するための作戦

 太平洋戦争では、大和魂の発露による特攻や玉砕までが実行に移されました。この特攻や玉砕といった「身命を惜しまない勇猛果敢な」作戦は、現実の戦況にはほとんど影響を与えることはありませんでした。

 それは、これらの作戦が敵にどれほどの損害を与えられるかを計算して実行されたのではなく、専ら自らを鼓舞するために行われたからです。そうでもしなければ日本人は、本来は忌み嫌っている戦いをこれ以上継続することができなくなっていました。日本人は、戦争に勝つために戦っていたのではなく、戦いを続けるためだけに戦っていたのだと言えるでしょう。

 このときの日本人は、それほど現実がみえておらず、ひたすら屈辱感から逃れるためだけに戦いを続けていたのです。(了)