天皇はなぜ現人神になったのか(1)

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 天皇は、日本という国を一つにまとめるために不可欠な存在として、建国当初から連綿と受けつかれてきました。しかし、武家が実権を握ってからは事実上は権力を失い、権威のみを有する象徴的な存在となっていました。

 明治の時代になると、天皇は権威に権力を兼ね備えた存在に生まれ変わりました。さらに、その威光はかつてないレベルにまで高められ、ついには神の領域にまで達するまでになりました。

 なぜ天皇は、人でありながら神の威光をまとうようになったのでしょうか。

 

神道の紆余曲折

 明治維新以降の歴史の流れの中で、天皇の神性は、紆余曲折を経ながら徐々に高められて行きました。その過程を、以下でたどってみましょう。
 先に述べたように、政府は明治初期において、国家の統制のもとに神道の確立を目指しました。それは日本が擬似古代国家として再出発したためですが、もう一つの要因として「欧米諸国をまね、その属性を装う」ためでもありました。近代西洋文化の背景を成すキリスト教に相応する宗教として、神道を国家の支柱に据える必要があったからです。
 しかし、神道による国民強化の方針は、当初は充分な成果を上げることができませんでした。日本には多くの宗教を受け入れる文化的な素地が存在していましたし、そもそも天皇は、一神教の神のような唯一、全能、絶対の存在ではありませんでした。
 信教の自由を認めるべきだという社会的な要求が高まり、日本帝国憲法には、条件付きながら信教の自由が明文化されることになりました。仏教は、廃仏毀釈の風潮が弱まると共に勢力を回復しました。また、キリスト教は欧米の文化・思想に伴って布教され、新島襄内村鑑三のような優れた日本人信徒が現れました。こうして日本社会には、多神教的な要素が復活し始めたのです。

 

国家神道の誕生

 ところが、日本が帝国主義植民地主義に傾倒して行くに従って、神道の役割が次第に強調されるようになりました。日清、日露戦争は国民に大きな犠牲を強いて遂行されましたが、これら大国との戦争を乗り切るためには、愛国心と国家意識を高めることが不可欠でした。

 そこで国民の心を一つにまとめるために、天皇を中心とした国家神道体制はより強固なものに姿を変えて行きます。明治末年の小神社の廃止合併を通じて、神社制度は、大正初期には神道を柱とした一元的神社体系として整備されました。それと共に、教派神道、仏教、キリスト教は政府から公認され、国策奉仕と国民教化を図るための役割を与えられました。その一方で、これらの諸宗教は、超宗教として君臨することになった国家神道に従属することになったのです。

 

大正デモクラシー

 大戦景気による空前の好況や、世界的なデモクラシーの気運の高まりに影響を受けた大正デモクラシーに伴って、大正時代に天皇の神性は一時的に低下します。第一次大戦後には大衆文化が華開き、普通選挙(男性のみ)が実施され、自由主義的な立場に立った学問や研究が広まりました。

 美濃部達吉天皇主権説を批判し、統治権の主体は「法人たる国家」であり、天皇は「国家の最高機関として、憲法の条規に従って統治権を行使する」とする天皇機関説を唱えました。また、津田左右吉は、日本古代史の実証的研究を通じて「記紀」の記述が史実ではなく、皇室の支配の由来を示すための創作であると説きました。

 

帝国主義の台頭

 しかし、戦後恐慌、関東大震災によって日本経済が大打撃を受け、さらにアメリカに端を発する世界恐慌の煽りを受けるに及んで、日本には再び帝国主義植民地主義の風潮が復活しました。

 軍部が台頭し、国家主義の気運が急速に高まるなか、自由主義、民主主義的な思想や学問は厳しい取り締まりの対象となりました。昭和に入ると、国家主義グループや青年将校らによるテロやクーデター未遂事件が相次いで起こります。「内外の現状打破」を叫ぶ軍部の政治的発言力が高まり、それに伴って官僚統制が強化されて行きました。そして、軍部や官僚を中心とする支配体制が徐々に形成され、天皇機関説の否定、国家総動員法制定、大政翼賛会の成立などにより、大日本帝国憲法によって制定された立憲主義的側面は大幅に後退しました。

 

天皇の威光の高まり

 日本を中心として中国大陸と南方をブロック化するという日本政府の方針は、日中戦争では「東亜新秩序」の建設として、さらに太平洋戦争時には、アジア人による共存共栄を目指す「大東亜共栄圏」の建設としてスローガン化されました。国民が一致団結して戦局を乗り越えるために、国家主義的教育が推し進められました。学校教育では、天皇中心の歴史観である皇国史観が教え込まれました。
 「大東亜共栄圏」の確立と共に、太平洋戦争では「八紘一宇」というスローガンも唱えられました。八紘一宇とは、全世界が一家のようであるという意味ですが、その家の中心にあるのが日本の天皇でした。このような教育は日本の植民地でも行われ、天皇を頂点に据えた文化圏の拡大が図られました。戦局が拡大するにつれて天皇の神性はいっそうの高まりをみせ、太平洋戦争時にその神性は頂点に達したのです。

 では、太平洋戦争時に、天皇の神性が特に強調されたのはどうしてなのでしょうか。(続く)