なぜ善人よりも悪人の方が救われるのか(1)

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 これまでのブログでは、日本仏教が独自の変化を遂げ、戒律の意義が失われていった経過をみてきました。その結果、僧が肉食妻帯や飲酒を公然と行うことになったことを検討しました。

 肉食妻帯を最初に公にした親鸞は、さらに独自の境地に達します。それが有名な「悪人正機説」です。日本仏教では、なぜこのような教義が生まれたのでしょうか。

 

絶対他力悪人正機説
 日本の仏教において、最も信者が多いのが浄土真宗だと言われています。浄土真宗は、阿弥陀仏の救いにいっさいを委ねる「絶対他力」を標榜しており、悟りを開くためにたゆまぬ修行を続ける古来の仏教とは、明らかに異なる教義を有するようになりました。

 絶対他力の思想が成立する過程では、「悪人正機説」が重要な役割を担っています。親鸞の教えの根本をなす悪人正機説とは、どのような思想なのでしょうか。

 親鸞の教説が集められた『歎異抄』の第三段には、次のように記されています(以下の現代語訳は、『ひろさちやと読む歎異抄1)を参考にした、筆者による意訳です)。

 

 善人でさえ極楽浄土に往生できるのだから、悪人が往生できるのは言うまでもないことだ。それなのに世の人は常に、悪人が往生するのだから、善人が往生できるのは当たり前だと言っている。この内容は、一見その通りのようであるけれども、阿弥陀仏の本願(誓願)と他力の教えからすれば、その意趣に反するものである。

 

 悪人でも往生できるのだから、当然善人は往生できるのはありません。善人でも往生できるのだから、当然悪人は往生できると親鸞は言います。

 ではなぜ、善人よりも悪人の方が、極楽浄土に往生できると言えるのでしょうか。

 

阿弥陀仏が望まれた

 さまざまな解釈があるようですが、もっともシンプルな解釈は、この続きをそのままその理由と考えるものでしょう。

 

 その理由を述べれば、自分の力で善行を行おうとする者は、一途に阿弥陀仏の力に頼ろうという心が欠けており、これは阿弥陀仏の本願に沿うものではない。しかし、自力で善行をしようとする心を翻して阿弥陀仏の力におすがりすれば、極楽浄土の真ん中に往生できるのである。

 煩悩ばかりのわれわれが、どのような修行を行っても輪廻転生から解脱できない様を憐れみ、これを救おうと願を立てて下さった阿弥陀仏の本意は悪人を成仏させることなのであるから、他力におすがりする悪人を往生させることこそが、もっとも阿弥陀仏が望まれたことなのだ。よって、善人でも往生できるのだから、ましてや悪人は往生できるのだと、親鸞聖人は(または、法然上人は)おっしゃったのである。

 

 その理由は、「阿弥陀仏の本意は悪人を成仏させること」という文言に込められています。

 阿弥陀仏の本願とは、どのような修行を行っても解脱できないわれわれを、漏れなくすべて浄土に往生させることです。漏れなくすべて往生させるためには、まず悪人を往生させなければなりません。悪人だからといって往生させなければ、すべての人々を往生させるという最も重要な目標が達成できないからです。
 これが、「悪人を往生させることこそが、もっとも阿弥陀仏が望まれたこと」の意味です。したがって、阿弥陀仏の本願をよくよく考えてみれば、悪人こそ必ず救われる対象であるという結論に至ります。

 以上が、文面をそのまま理解した最もシンプルな解釈です。なお、この段については、「親鸞聖人がこうおっしゃった」と捉える説と、「『法然上人がこうおっしゃった』と親鸞聖人が話された」と捉える説の二つがあります(『ひろさちやと読む歎異抄』95-97頁)。後者の説であれば、「悪人正機説」はもともと法然が提唱したことになります。

 

阿弥陀仏にどれだけすがれるか

 ただし、厳密に言えば、以上の解釈は善人だけでなくもちろん悪人も救われると考えるもので、善人でさえ往生できるのだから当然悪人は往生できることの理由にはなっていません。悪人の方がより往生しやすい理由を探るためには、悪人とは何かという点に焦点を当てる必要があります。
 上記の文中では、善人は「自分の力で善行を行おうとする者」であり、「一途に阿弥陀仏の力に頼ろうとする心が欠けている」と記されています。これに対して悪人は、「他力におすがりする悪人」と記されています。善人が自分の力で善行を行おうとすれば、阿弥陀仏に頼る心が欠けてしまいます。一方悪人は、自分の力では絶対に往生できないため、阿弥陀仏にすがるしか道がありません。この差が、悪人の方が往生しやすい理由になっているのでしょう。つまり、阿弥陀仏にどれだけ一途にすがれるかが往生にとって最も大切なことであり、悪人にこそそれが可能なのです。
 この考えは、阿弥陀仏の力にすべてを委ねると表明すること、すなわち「南無(=帰依する)阿弥陀仏」と称えることで、極楽浄土に往生できるとする法然の思想に近いように思われます。仮にこれを、「法然悪人正機説」と呼んでおきましょう。

 

人とは

 さらに、悪人とは何かについて、もう一歩踏み込んだ思索が行われています。それは『歎異抄』の第十三段に述べられています。

 

  良い心が起こるのは、その人に宿った業がそうさせるのであり、悪いことを思い付いてそれを実行してしまうのも、その人に宿った悪い業がそうさせるのである。故親鸞聖人はかつて、兎の毛や羊の毛の先についた塵ほどの罪であっても、宿った業に拠らないものはないと知るべきだとおっしゃった。

 また、ある時には、「唯円房はわたしの言うことを信じるか」とお尋ねになったので「もちろんです」と申し上げたところ、「それならわたしが言うことに背かないか」と重ねておっしゃったので、謹んで「その通りに致します」と申し上げた。すると、「人を千人殺してくれないか。そうすれば往生は間違いないだろう」と言われたので、「わたしの器量では、たとえ一人でも殺すことはできません」と申し上げたところ、「ではなぜ親鸞の言うことに背かないと言ったのか」と問いただされた。

 そして、「これで分かったであろう。何事も自分の心に従ってするだけなら、往生のために千人を殺せと言われれば、すぐに殺せるだろう。しかし、業や縁が備わっていなければ、どんなに願っても一人の人間でさえ殺せないのだ。それは、自分の心が善だから殺さないのではない。逆に、殺したくないと思っても、百人、千人を殺してしまうこともあるのだ」とおっしゃられた。これは、自分の心の良いことが善、悪いことか悪だとわれわれが思いこんでしまって、阿弥陀仏の本願の不思議によって助けられることを知らずにいることを指摘されたものである。

 

 悪人とは、悪い心を持つ人ではありません。また、誰かに悪いことをせよと命じられて、悪事に染まる人でもないといいます。ならば、悪人とはどんな人をいうのでしょうか。

 親鸞は、「毛の先についた塵ほどの罪であっても、宿った業に拠らないものはないと知るべきだ」と述べています。その一方で、「業や縁が備わっていなければ、どんなに願っても一人の人間でさえ殺せないのだ。それは、自分の心が善だから殺さないのではない。逆に、殺したくないと思っても、百人、千人を殺してしまうこともあるのだ」とも語っています。つまり、千人の人を殺す悪行も、塵ほどのわずかな悪行も、程度の差こそあれ、いずれも自らに宿る業と、その人が巡り会った縁によってそうさせられているに過ぎないというのです。

 

業による悪行

 では、悪人にはなぜ悪い業が宿っているのでしょうか。

 もとをたどれば、仏教の輪廻転生の考え方に行き着きます。それによれば、わたしたちは生まれ変わり死に変わりして、永遠に長い時間の中で六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅 ・人・天)を転生しています。そして、その過程で様々な業を抱えています。その業には、良い業もあれば悪い業もあるでしょう。しかし、未だに輪廻転生から解脱できずに人間道にいることから考えれば、わたしたちには多かれ少なかれ、悪い業が宿っていることになります。すると、わたしたちは程度の差こそあれ、悪行を行う可能性を秘めていることになります。

 この悪行を行う可能性の業(直接因)にさまざまな縁(間接因)が加わって、初めて悪行は現実のものとなるのです。
 この考え方からすれば、人を殺すという悪行をしないのは、その人の心が善だからではありません。その人に宿る業に、たまたま縁が加わらなかっただけかも知れません。

 これは何も極端な結論ではありません。たとえば、戦争の時代に生まれれば、日常的に人を殺さなければならない状況に置かれることもあります。平和な時代にあっても、家族や自分の身を守るために、正当防衛で人を殺してしまうことがあるかも知れません。また、その意思がなくても、過失で人を死なせてしまうこともあるでしょう。殺人を自らの意思で行う場合ですら、その人が幼少時から何度も何度もひどい目に遭わされ、追いつめられた末の悪行だったという可能性もあります。

 つまり、悪行をしていないときは、自らの心によって悪行を避けられているのではなく、たまたま悪行に至るような縁に出会っていないに過ぎないのです。

 見方を変えれば、わたしたちはすべて、悪人になる可能性を秘めていると言えます。そして、それは可能性でなく、すでに目立たない悪行なら行っているかも知れません。ただ単に、そのことに気づいていないだけなのです。そのように仮定すれば、われわれは皆、自分が悪人であると認識できていないだけだと捉えられるのではないでしょうか。

 

人とは悪の自覚のない人

 以上の検討から、善人、悪人を次のように定義し直すことができます。
 すなわち善人とは、悪行に導く縁にまだ出会っていないため、自らの悪い業に気づいていない人(一時的な善人)、または悪行に導く縁に出会い悪行を行っているにも拘わらず、自らの悪い業に気づいていない人(自覚的な善人)です。つまり、善人とは自らの悪い業に気づいていない人であり、さらに言えば、自らを悪人であると自覚できていない人です。
 一方悪人とは、悪行に導く縁に出会って悪行を行い、自らの悪い業に気づいている人(自他共に認める悪人)、または悪行に導く縁にまだ出会っていないにも拘わらず、自らの悪い業に気づいている人(自覚的な悪人)です。つまり、悪人とは自らの悪い業に気づいている人であり、さらに言えば、自らを悪人であると自覚している人です。
 これをまとめると、以下のようになります。

 

 善人=自らの悪い業に気づかず、自分が悪人であると自覚していない人
 悪人=自らの悪い業に気づき、自分が悪人であると自覚している人

 

 この定義からすれば、悪人正機説は次のように解されるでしょう。

 

 自らが悪人であると気づいていない人でも往生できるのであるから、自らを悪人であると気づいている人が往生できるのは言うまでもないことである。

 

 先に述べた「法然悪人正機説」に対して、これを「親鸞悪人正機説」と呼ぶことにしましょう。(続く)

 

 

 

文献

1)ひろさちやひろさちやと読む歎異抄 心を豊かにする親鸞の教え.日本実業出版社,東京,2010.