縄文人はなぜ戦争をしなかったのか(2)

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 前回のブログで、縄文人は、アフリカ人、ヨーロッパ人、アジア人のいずれからも独立した存在として位置づけられ、それは縄文人が、現世人類の中でより古い集団に属する存在であることを意味しました。そして、他の地域で駆逐された縄文人の祖先が日本列島で生き残れたのは、日本列島が海に囲まれた天然の要塞だったからだと考えられることをみてきました。

 こうして生き残った縄文人は、世界で類をみない特異な文化を形成しました。その縄文文化の特徴をみて行くことにしましょう。

 

集落を形成し、植物を栽培していた縄文人

 縄文人の祖先の多くは、他の集団に駆逐されてしまいました。ようやく日本列島にたどり着いた人々の集団だけが、やがて縄文時代を形成しました。このように縄文人の祖先たちは、他の地域では生きては行けない集団でした。ただし、それは、彼らの文化が劣っていることを意味するのではありません。彼らによって作られた縄文時代の遺跡や出土品が、それを明瞭に物語っています。
 旧石器時代から縄文時代へ移行する際のもっとも大きな変化は、定住でした。獲物を追って狩りをしていた生活から、竪穴住居と呼ばれる家や食料を蓄える貯蔵設備を造り、石皿や土器などの家財道具を備え、一ヶ所に腰を落ち着けて生活する文化が始まりました。

 こうした生活を可能にしたのが、温暖化による豊かな森の出現でした。森ではクリやドングリなどのナッツ類が豊富に採れ、イノシシやシカ、ウサギなどの中小動物の狩りもできました。さらに、温暖化による海流の活性化がサケやマスの遡上を促し、河川漁撈(ぎょろう)が行われた地域もあったようです。
 定住はやがて集落を生み、時の進行とともに集落は大型化して行きました。8500年前には、広場を真ん中にして竪穴住居が同心円上に並ぶ、150メートルを超す環状集落が出現しました。さらに7000年前になると、中心の広場に墓地を配し、300を超えるような住居を備えた環状集落がみられるようになりました。

 人口も徐々に増加し、遺跡数などによる推定によれば、8000年前に2万人であった人口は5000年前には8万人に増加し、最盛期の4300年前には26万人まで達していたと考えられています。
 また、各地の遺跡からはクリやトチなどのナッツ類や、エゴマやリョクトウなどの栽培植物の出土が多く認められます。特に6000年前から1500年間にわたって繁栄した青森市の三内丸山(さんないまるやま)遺跡では、エゴマヒョウタン、ゴボウ、マメといった栽培植物に加え、クリの栽培も行われていたようです。

 遺跡から出土したクリのDNAを分析したところ、自然状態では考えられないほど、それぞれのクリが非常に似通った遺伝子構造であることが分かっています。これは、縄文人がクリの品種を見極めながら、食用に適したクリを選別して栽培していたことを示しています。

 

華やかな縄文文化

 集落の発達は人々の生活環境を変えただけでなく、文化の発展も促すことになりました。縄文の前期から中期の頃に、東日本を中心に派手で華麗な飾りを備えた縄文土器が創られました。

 縄文土器は、世界で最も古い土器の一つと言われています。さらに、1万4千年前頃には日本全国に土器が普及していることを考えると、世界最古の土器普及文化であることが分かっています。

 土器はその特徴によって、北陸の馬高(うまだか)式(火炎土器)、甲信から関東の勝坂(かつさか)式、関東の東から北地域の阿玉台(あたまだい)式、東北南部の大木(だいぎ)式、東北北部から北海道南西部の円筒上層(えんとうじょうそう)式などと呼ばれ、各地域ごとに鮮やかな個性が表現されました。

 4500年前の縄文後期になると、環状集落に代わって、中心部の墓地の部分に環状や日時計状の石組みが造られた「環状列石」が登場します。環状列石は次第にモニュメント化して巨大になりました。

 秋田県の大湯からは2つの環状列石が並んで発掘されています。驚くべきことに、直径が100メートル弱にもなるこの二つの列石の中心を結ぶ直線の一方が冬至の日に太陽が昇る方角を示し、他方が夏至の日に太陽が没する方角を示すように造られているのです(『列島創世記』1)139頁)。

 縄文後期になると派手な文様の土器が陰を潜める一方で、奇抜な姿をみせる土偶が登場します。ハート型の顔を持つハート型土偶、三角形の頭をした山形土偶、顔が鳥のミミズクに似たミミズク型土偶イヌイットが雪中行動をする際に着用する遮光器のような目を持つ遮光器型土偶などが登場しました。

 頭部のこのような特徴に加え、体全体にもヘラ描きの文様や縄文がびっしりと付けられるなど独特の外観を呈するようになりました。その様は、人間の具象的な表現からはほど遠くなり、近代の抽象芸術さえ彷彿とさせます。
 ところで、縄文時代の遺跡は本土だけでなく、伊豆大島八丈島にも残されています。つまり、縄文人は船を使って数百キロ沖の離島まで行き来していました。この事実は、縄文人が住居の建造技術だけでなく、高い航海技術も持ち合わせていたことを示しています。さらに、先に述べたように、深い海峡で隔てられたオーストラリアに縄文人と近縁の人々が存在していたことから、縄文人の祖先たちもまた、優れた航海技術を有していたことを窺わせます。

 

戦争の痕跡がない
 このように縄文人の文化は、同時代の他の文化と比しても決して劣ったものではないばかりか、土器の製造や航海などの技術では、世界最先端であったと言っても過言ではありません。それにも拘わらず、彼らの祖先たちが、世界の各地域で生き延びることができなかったのはどうしてしょうか。
 その原因を探るうえで見逃せないのは、縄文時代に戦争の痕跡が認められないことです。

 たとえば、縄文時代の遺跡からは攻撃用の武器や防具が見つかっていません。縄文時代も後期になると、剣や刀の形をした磨製石器が出現するようになりますが、石剣や石刀は先端が丸みを帯び、両側縁には刃が研がれていません。それらは武器として使用されたというよりも、それを振るう人の力や権威を呼び起こすための象徴であった可能性が高いと考えられています(以上、『列島創世記』150頁)。
 また、道具や利器で傷つけられた人骨が、縄文の遺跡からは10例ほど知られていますが、集団で戦闘を行った形跡を示す縄文時代の人骨は発掘されていません。さらに、戦いのリーダーを奉った墓や戦いを現した芸術作品など、戦争の存在を示唆するものが縄文時代には認められないのです。

 

戦争の始まり

 一般的には世界のどの地域でも、規模の大きな明確な戦争は、農耕社会が成立してから現れるといいます。農耕によって生まれる余剰や富の奪い合いが始まること、開拓した農地や定住する住居に対する執着や排他的な防衛意識が生まれることなどがその理由として指摘されます。

 さらに、定住生活が始まることによって、個々の集団が本格的に交わる機会が生じることも挙げられます。定住生活が固定化すると、他の集団から離れたり逃げたりすることができなくなり、集団間の関係性もまた固定化されることになります。別々の集団が固定した関係性に置かれるとき、集団に固有の記憶痕跡が一方に呑み込まれたり、否定されたりする可能性が生まれます。そうなれば過去から伝承されてきた文化は否定され、集団に属する個人の精神は崩壊する危機に直面します。

 この事態は、人間が人間として存在することの否定を意味するのであり、そのため文化を守ろうとして人間同士が戦い、殺し合いを演じる原因となるのです。

 

稲作文化の拒絶

 縄文時代にはすでに定住が始まっており、各地の遺跡からはクリやトチなどのナッツ類や、エゴマやリョクトウなどの栽培の跡が認められています。稲作ですら部分的には行われていたようであり、約4500年前の土器からは、イネ籾の圧痕が見つかっています。このような状況においては、戦争が発生しても何ら不思議はないはずです。
 この問題に対して、考古学者の松木武彦は次のような指摘を行っています。

 

 「大陸では、縄文時代の中頃に当たる紀元前5000~前4000年には戦争が始まり、縄文時代のおしまい頃には、中国は戦国の動乱のまっただ中だ。さらに、その余波がかなり早くから朝鮮半島にまで迫っていることも考古資料から確かだが、縄文社会はそれを受けつけた気配がないのである。(中略)本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人々が稲作農耕を『拒絶』したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか、という想定が浮かびあがってくる」(『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』2)18-19頁)

 

 このように松木は、縄文の人々は固有の伝統を守り続ける傾向が強かったために、稲作農耕を拒絶したと捉えています。そしてそのことが、文化として稲作農耕とセットをなしていた戦争の導入を阻むことに繋がったのではないかと指摘しています。

 

戦争を拒絶した縄文人

 しかし、この事情は順序が逆だったのではないでしょうか。つまり、縄文人が拒絶したのは、「稲作農耕」ではなくむしろ「戦争」だったのではないでしょうか。

 いくら縄文人が伝統を守り続ける傾向が強かったとしても、定住生活をして他の食物の栽培を始めていた彼らにとって、稲作農耕は選択肢の一つになり得たに違いありません。それでも稲作農耕を受け入れなかったのは、縄文人にとってそれほど戦争に対する拒否感が強かったからです。つまり、戦争を拒絶したかったからこそ、戦争とセットになっていた稲作農耕を拒絶せざるを得なかったのです。逆に言えば、戦争とセットになっていない稲作農耕があれば、縄文人はそれを喜んで受け入れたのではないでしょうか。
 松木自身も、次のように述べています。

 

 「ある社会に戦争という行為が現れる根底には先に述べたような経済上・生活上の前提があるとしても、その戦争行為が実際に発動される具体的プロセスには、人々の意識や思想-ここでいう思想とは、人びとの世界観やものの考え方をさす- のレベルでの要因が、かなりの比重をもって働いていると判断されるだろう」(『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』19頁)

 

 縄文人にとってのものの考え方や世界観には、戦争はまったくなじまなかったのでしょう。それは、縄文人の祖先たちが、戦いに対する有用な文化を持っていなかったからではないでしょうか。そして、縄文人の祖先たちが戦いへの有用な文化を持たなかったことが、他の集団から追われ、ユーラシア大陸で駆逐されてしまった直接の原因となったのではないでしょうか。
 他の集団に駆逐されながら日本列島にたどり着いた縄文人の祖先たちは、四方を海に囲まれた天然の要塞に守られ、初めて安穏な生活を送ることができました。遙かなる旅の果てに、ようやく彼らは戦いの日常から逃れることができました。

 だからこそ彼らの末裔である縄文人は、定住生活をし、農耕を始めていたという経済上、生活上の前提があったとしても戦争行為を発動しなかったのであり、さらには戦争の文化そのものを受け入れなかったのです。(続く)

 

 

文献)

1)松木武彦:全集 日本の歴史 第1巻 列島創世記.小学館,東京,2007.
2)松木武彦:人はなぜ戦うのか.講談社,東京,2001.