アメリカはなぜ自由と正義を主張するのか(3)

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  前回までのブログで、アメリカ大陸に移り住んだ移民たちは、インディアンを虐殺しながら進めた西部開拓や、黒人を奴隷にして発展した奴隷制度を通して、自らが征服者になり、初めて抑圧からの自由を実感してきたことを検討しました。

 これらの行為を正当化するために、白人の開拓を妨害する凶悪で野蛮で戦闘的なインディアン像や、「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」の思想、そして家父長的温情主義(パターナリズム)などが利用されました。彼らの残虐な行為は、これらの正当化によって正義の行いとして人々に認識されてきたことも検討しました。

 その後のアメリカは、どのように振舞うようになったのでしょうか。

 

奴隷制の廃止

 奴隷制は、次第に批判の対象になって行きます。18世紀後半のイギリスでは、クウェーカー教徒や福音主義者、または啓蒙化された人々が奴隷貿易奴隷制の批判を始めました。この運動は次第に広がりをみせ、1834年にはイギリス帝国の奴隷制は廃止されました。
 しかし、アメリカ合衆国では、奴隷制南北戦争(1861-65)という近代最初の総力戦によって、100万人の死傷者を出してしか廃止できませんでした。しかも、奴隷制が廃止に向かった理由は、人道的な見地だけからは捉えられません。より重要な理由は、アメリカ社会の産業構造の変化にありました。南北戦争当時になると、南部の黒人奴隷制の存在が、北部の発展に必要とされる自由な労働力の確保と国内市場の拡大を妨げる要因となっていたのです。
 奴隷制が廃止された後も、黒人の社会的地位は相変わらず改善されませんでした。南北戦争後の経済的な混乱期に、自由労働市場で白人の貧困層と仕事を奪い合っても、黒人が仕事を得られる機会はきわめて乏しかったからです。敗戦と奴隷解放に不満を募らせた貧しい白人によって黒人は社会的に低い立場に追いやられ、経済的にも虐げられて行きました。黒人の社会的・経済的状況が、奴隷制時代よりむしろ悪化したケースも珍しくありませんでした。
 20世紀に入ると、大量の黒人が仕事を求めて南部から北部に移住しました。そのことによって、アメリカ合衆国が抱える人種問題が、いっそう顕在化されることになったのです。

 

アメリカ社会の発展

 アメリカ社会の歴史における最初の大きな転換点は、南北戦争でした。南北戦争以後のアメリカは、産業革命の進行によって、農業国から工業国へと転換して行くことになりました。

 資本主義が進展するとアメリカ経済は急速に成長し、アメリカ合衆国は世界に類を見ない豊かな国へと変貌を遂げて行きます。豊かなアメリカに魅せられるかのように、19世紀のアメリカ合衆国には、年を追うごとに外国からの移民が殺到するようになりました。1800年には525万人だったアメリカ合衆国の人口は、1870年には4000万人近くにまで膨れあがりました。それに伴い、1870年代にはすでに国民一人あたりの所得額が世界最高になり、1890年代には工業生産が、世界の工場と謳われたイギリスをしのいで世界第一位になりました。
 また、工業の発展だけでなく、アメリカ合衆国では農業生産も増大しました。大量の機械が導入されたことによって農業の生産性が飛躍的に向上し、アメリカ西部は合衆国最大の農業地帯になるとともに、ヨーロッパなどにとっての「穀物倉庫」と呼ばれるまでになりました。
 南北戦争後のアメリカ合衆国は、自由と民主主義という理念を実践した最初の国家として、また経済的な発展を遂げた豊かさを象徴する社会として、世界の中で特別の地位を占めるようになりました。そこで生活する人々には、もはやかつての抑圧された被征服者としての面影や、社会の最下層に喘ぐ貧しい姿は見られなくなりました(社会の底辺には、相変わらず差別を受け続けた先住民や黒人、極貧層が存在しましたが)。

 屈辱感を抱き続けた移民たちが希求した願望、すなわち社会の抑圧から解放され、豊かな生活を送るという願望が、決して夢物語でなく現実のものとなる途が開かれたのです。

 

モンロー主義

 こうしてアメリカ人は希望と誇りを取り戻すことに成功しました。彼らは、この理想の社会を未来永劫にわたって守り続けたかったのであり、他国によって理想の社会を侵略されることだけは、いかなることがあっても防がなければなりませんでした。

 こうした気持ちはすでに、第5代大統領ジェイムス・モンローが1823年に提出したモンロー宣言の中に見出すことができます。「自由かつ独立の立場を維持してきた南北アメリカ大陸は、今後ヨーロッパのいかなる国によっても植民地化の対象と見なされてはならない」ことを謳ったモンロー宣言は、当時の国際状況には大きな影響を与えませんでした。

 それにも拘わらず、モンロー宣言が19世紀から20世紀初頭にかけてアメリカ外交の聖典として蘇り、アメリカ外交史上不滅のものとして位置づけられたのは、理想の社会を他国の干渉から守りたいという国民感情の率直な現れであったと思われます。その結果、アメリカ合衆国がヨーロッパ国内の政治問題に干渉したり、ヨーロッパ諸国間の争いに加わることはないというモンロー宣言に基づいた外交の基本方針が、今日に至るまでアメリカ外交に影響を及ぼし続けることになったのです。

 

ソーシャルダーウィニズム

 ただし、アメリカ合衆国は、必ずしもモンロー宣言の精神通りに行動したわけではありません。19世紀末に、世界的な帝国主義の風潮にそって、増大した国力にふさわしい地位と役割を求める衝動がアメリカ社会にも高まりました。
 19世紀末のアメリカ社会は、経済が繁栄する一方で貧富の格差が拡大しました。成功を収めた世界的な大富豪が誕生する陰で、目を覆うばかりの悲惨なスラム街で生活する人々も存在しました。経済的な成功者たちは、豊かさは自らの努力によって能力を最大限発揮した結果であると自認し、貧困は努力をしなかった当然の報いであると考えました。そうした考えを「科学的」に正当化する根拠が、進化論に根拠を置いた社会進化論(ソーシャル・ダーウィニズム)によってもたらされたのです。
 ソーシャル・ダーウィニズムが人々に浸透すると、自由競争による適者の繁栄は、社会にとって有益であるばかりか、人類の未来の進歩のために不可欠なものであると考えられるようになりました。

 この理論は、発祥の地であるイギリスよりもアメリカで熱心に受け入れられました。それは、アメリカ社会が自由競争の活力によって世界経済をリードしてきた歴史を持つためですが、さらに言えば、かつて最下層階級に属する者たちであった彼らが、新たな社会で上層階級に登りつめるための精神的な支えとして、ソーシャル・ダーウィニズムが最適な理論だったからです。

 

膨張主義者たち

 ソーシャル・ダーウィニズムは、アメリカ合衆国の膨張政策に格好の論拠を与えました。アメリカ合衆国は、崇高な理念を実現させた最も進歩した国家であり、最も進んだ文明国であるからこそ、未開社会に自由と民主主義を伝道する使命を託されていると考えられました。そして、この使命を実現するために、海外に進出しなければならないという正当化がなされたのです。
 この時すでに、アメリカ社会の中に、全能の神の支配から離反する人々が現れ始めたことを見て取ることができます。ソーシャル・ダーウィニズムに根拠を置いた膨張主義者たちは、神からその全能性を奪い取って万能感に浸り、自らが他国を支配する力と資格を持つ存在になったと考え始めました。

 このとき彼らが利用したスローガンが、フロンティア開拓時代に使われた「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」でした。彼らはソーシャル・ダーウィニスト(つまり、キリスト教の教えと矛盾する進化論を正しいと考える立場)であったにも拘わらず、膨張政策を実現するために、海外への進出は神から託された「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」だと主張したのでした。

 

米西戦争

 アメリカ合衆国帝国主義に傾倒して行く最初の出来事は、1898年に起こった米西戦争です。スペイン支配下キューバでは、キューバ人による独立戦争が起こされたものの失敗に終わっていました。専制的な抑圧者スペインと戦う果敢なキューバという図式が、アメリカ世論の正義感を煽りました。世界に進出したいと考える膨張主義者たちは、この世論を味方に戦争の準備を着々と進めていました。
 その時、キューバハバナ沖に停泊していたアメリカ軍艦メイン号が爆沈し、250名の乗組員が死亡するという事件が起きました。この爆発が外部からの攻撃によるものだという証拠はどこにもありませんでしたが、アメリカはこれをスペインの謀略であると決めつけ、「メイン号を忘れるな」という大合唱のもとスペインに宣戦布告しました。

 わずか3ヶ月で勝利を収めたアメリカは、キューバ支配下に置いただけでなく、フィリピンからスペインを駆逐し、アジアにおけるアメリカの拠点を確立することに成功しました。
 米西戦争以後のアメリカ合衆国は、他国の紛争には介入しないというモンロー主義と、自由と民主主義を広めるために他国を近代化する(実際は、他国を侵略することに他ならないのですが)という帝国主義の間を揺れ動くことになります。そして、この問題の解決策は次のように図られました。
 アメリカ合衆国は、基本的には他国の紛争には介入しないが、アメリカ国民およびアメリカ本土が戦渦にさらされる危険が生じた際には、自由と民主主義を守るために、自国の外でなら紛争に介入するという外交方針が採られたのです。

 

第一次大戦のアメリカ

 第一次世界大戦は、この外交方針が典型的に示された戦争でした。1914年にヨーロッパで大戦が勃発すると、時の大統領ウィルソンは直ちに中立を宣言し、アメリカ合衆国はこの戦争に介入しない方針を表明しました。

 しかし、ドイツの潜水艦攻撃によってイギリス客船シルタニア号が沈没し、アメリカ人128名を含む1198名が死亡するという事件が勃発してからアメリカ世論の風向きが変わりました。ドイツが無制限潜水艦戦を開始してアメリカ商船が撃沈され、さらにドイツがメキシコにアメリカを攻撃させる工作をしているという情報が流れると、アメリカ合衆国は当初の方針を転換して第一次大戦に参戦しました。
 その際のアメリカの大義は、「自由と民主主義を守り、究極的な世界平和を実現するため」でした。アメリカ合衆国の介入により戦局は決定的に変わり、第一次世界大戦は連合国側の勝利に終わりました。大戦後ウィルソンは、恒久的な世界平和を目指して国際連盟を提唱しました。

 しかし、議会の批准を得られなかったアメリカ合衆国は、国際連盟に加盟することはありませんでした。戦渦にさらされる危険が去ったアメリカ社会は、再びモンロー主義に回帰していたのです。(続く)