アメリカはなぜ自由と正義を主張するのか(2)

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 前回のブログで、アメリカ大陸に移り住んだ移民の多くは、他では生きていけない人たちであり、抑圧された被征服者であったことをみてきました。そして、新たな大陸で抑圧された生活から解放されたとしても、彼らは精神的には相変わらず抑圧された被征服者のままだったことを指摘しました。
 では、精神的に被征服者であった移民者たちは、どのようにしてそれを克服しようとしたのでしょうか。

 

インディアンの虐殺
 旧世界で抑圧された被征服者であった移民たちの心の中には、抑圧され、征服されてきたことによって生じた屈辱感が渦巻いていました。抑圧されてきた社会から離れるだけでは、屈辱感を完全に消し去ることはできませんでした。この屈辱感が、彼らの攻撃欲動を増大させました。
 この攻撃欲動を最初に向けられたのが、その地にいた先住民でした。インディアンの虐殺と駆逐は、アメリカ建国後も着実に進められました。コロンブス北米大陸に到着した1492年には、合衆国領域に200万人以上いたと推定されるインディアンは、フロンティアが消滅した1890年には25万人まで激減しました(『アメリカインディアンの歴史』1)35頁、164頁)。
 インディアンの数が激減した主な理由は、移民たちが持ち込んだウィルス性の伝染病にに感染したからだという説があります(『近代世界と奴隷制2)42-43頁)。確かに、移民が入植した当時に、伝染病によって東海岸領域に住む多くのインディアンが死亡したことは事実でしょう。しかし、仮にその説の一端が正しいとしても、移民たちがその後にインディアンを大量に殺戮した事実が消えるわけではありません。
 17世紀から18世紀に頻発したインディアン戦争によって絶滅状態に陥る少数民族が出たことや、「野蛮人の頭皮を剥いで持参した者には褒賞金を与える」(!)という議決を行った18世紀初頭のマサチューセッツ議会の政策によって、インディアン掃滅熱が一気に加速した事実などがそれを物語っています(以上、同上71-72頁)。

 

神から委ねられた天命

 インディアンの悲劇は19世紀に入っても続きました。

 19世紀にアメリカの領土は、北米大陸の西方へと拡大しました。この領土的な発展は、急速な西部開拓運動と結びついており、それはフロンティアの西進を意味していました。

 西部開拓は、不毛の土地を開拓して西進するアメリカ人に、自由で不屈の個人主義を養うとともに、膨張は神から委ねられた天命であるという「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」の思想を植えつけました。
 フロンティアの西進には、森林の伐採とともにインディアンの征服が必要でした。そのためインディアンは土地を追われ、西へ西へと逃げ延びることになりました。そして、西部の開拓が終了することは、インディアンの土地がアメリカ大陸から事実上失われることを意味しました。

 そして、神から天命を委ねられたと信じることは、インディアンの虐殺も含めた西部開拓が正義の行いであるという信念を人々に与えることになったのです。

 

奴隷制の始まり

 先住民から土地を奪った移民者たちは、生活の基盤を確固たるものにするために奴隷制度を構築しました。彼らが獲得した地で豊かな生活を送るためには、経済的な要請として奴隷制度が必要とされました。その奴隷制の実態を、池本幸三らによる『近代世界と奴隷制』を参考にしながらまとめてみましょう。
 北米大陸奴隷制度は、中南米の先住民が奴隷化されたのと同じように、インディアンを奴隷化することから始められました。

 スペインが北米に侵攻することで始まったインディアンの奴隷化は、オランダが植民基地を築いたニューアムステルダムや、フランスが支配したカナダ東部とミシシッピー川流域でも進められました。そして、イギリス領植民地では、さらに広範囲にわたってインディアンの奴隷化が展開されることになりました。

 

黒人の奴隷制

 18世紀になると、常時安定して獲得できないインディアンの奴隷に代わって、黒人が奴隷制度の中核を占めて行きました。

 黒人奴隷の数が急速に増加した背景には、15世紀半ばから19世紀半ばにわたって繰り広げられた、大西洋奴隷貿易の存在がありました。ポルトガルによって始められた奴隷貿易は、後にオランダ、フランス、イギリスによっても行われました。ヨーロッパの奴隷商人は、アフリカ社会に存在した奴隷を商品として買い取り、西インド諸島、ブラジル、北米およびヨーロッパなどへ輸送しました。その数は900万人から1000万人とも言われています(同上126-127頁)。
 ちなみに、英領北アメリカに移送された黒人奴隷は意外に少なく、その数は40万人程度であったと推計されています(その後の自然増加や奴隷の「飼育」によって、南北戦争当時には、黒人奴隷および自由黒人の数は444万人になりました)。(以上、同上124-125頁)。

 彼らはまず、植民地の主要作物であったタバコのプランテーションでの重要な労働力になりました。さらに18世紀にイギリスで産業革命が興ると、アメリカ南部ではイギリス向けの原綿栽培への特化が進み、綿花のプランテーションが産業として発展しました。ここでも黒人奴隷は、重要な労働力でした。

 労働を課せられた奴隷の日常生活は、当然のごとく過酷をきわめました。彼らは早朝から日没まで、プランテーションでの作業に没頭させられました。

 予定通りの作業がこなせない奴隷には、容赦なく鞭が打たれました。彼らは徹底した統制と監視を受け、無駄な動作は一挙手として許されませんでした。昼休みは、猛暑の続いた地方では2~3時間に及ぶ場合もありましたが、大抵は15分程度でした。満月の日は、真夜中まで単調な作業が続くこともありました。特に4月から12月までの耕作期・収穫期には、毎日15時間~16時間の労働が当たり前とされ、監督の鞭のもと、朝の3時半から夜の9時まで働かされたという記録さえ残されています(以上、同上235頁)。

 

新大陸での支配者層

 このような奴隷制度を背景にして、白人移民の中からは、広大な土地を集積する巨大プランターが出現するようになりました。彼らは新世界において新たな上層階級を形成しました。

 以下は、それを如実に物語る記述です。

 

 「ヴァージニアで最大級のプランターであったバード二世が、イギリス本国の一貴族に宛てて『私はあたかも貴族のように、羊や牛の群れ、男女の奴隷たち、そしてあらゆる手仕事をする奉公人たち(servants)を所有しておりますので、神の摂理に従うほかは、なにびとからも独立したような状態で生活しております』と書いていることからもわかるように、タバコ・プランターは自立的で自己完結的な荘園に住む貴族のようでさえあり、また、絶対不可侵の権威をもつ家長のようであった」(『近代世界と奴隷制』199-200頁)

 

 こうして北米大陸では、一方の極に奴隷や奉公人を蓄積しながら、他方の極にはまったく前例のない富裕な企業家的農園主層を生み出していきました。彼らは、ヨーロッパ本国の貴族制社会と相通ずる性格を有し、「神の摂理に従うほかは、なにびとからも独立したような生活」と、「絶対不可侵の権威」を持つようになりました。彼らは新大陸でのエリート層となり、社会の支配体制を築きあげていったのです。

 

家父長的温情主義

 ところで、彼らは奴隷制についてどのように捉えていたのでしょうか。自由を掲げる国が、独立革命を経た後も、奴隷制を存続させたことは問題にならなかったのでしょうか(独立革命後に、北部・中部諸州においては奴隷制は徐々に廃止されましたが、南部諸州では逆に、奴隷制による綿花プランテーションは拡大していきました)。それとも奴隷は、人間とは捉えられていなかったのでしょうか。
 実は、奴隷制を擁護する者たちは、奴隷制が奴隷たちのためにもなっていると考えていました。彼らは主観的には、人種的に劣った、道徳性のない怠惰で無気力な黒人たちを、充分に生活して行けるように善意によって保護していると認識していました。これを家父長的温情主義(パターナリズム)といいます。
 『奴隷制賛成論』を出版したことのある上院議員J.H.ハモンドが、1858年の連邦会議で行った演説に、その一端を垣間見ることができます。

 

 「南部の動産奴隷制は北部の賃金奴隷制に比べて、ずっと人道的、民主的であり、かつ効果的なのであります。みじめに搾取されている南部の下層の白人どもに比べても、黒人奴隷たちは、よほどましな生活を享受しております。我々の奴隷どもには飢餓の心配もなく、物乞いの必要もない。議員一同の皆さんが、ただの一日でもニューヨークの町角にお立ちになったなら、皆さんは、南部全体で一生かかって出会うよりも、もっと多くの乞食を見つけるはずなのです」(『近代世界と奴隷制』216頁)

 

 こうした見方が、白人支配層からの一方的な捉え方であることは言うまでもありません。どのような理由を掲げようとも、黒人たちが強制的にアフリカから新大陸へ連行されたのは紛れもない事実であり、奴隷を保有した人々が豊かな生活を送れるようになったことも、疑いようのない真実だからです。新大陸での初期の繁栄は、奴隷たちの犠牲のうえに築かれたといっても過言ではないでしょう。

 

屈辱感を解消する奴隷制

 ただし、奴隷制が果たした役割はそれだけではありません。奴隷制は、移民たちの心理的な問題を解決するためにも重要な役割を果たしました。
 旧世界で抱き続けてきた屈辱感を解消するために、彼らは自らの下に有色人種の階層を作りました。彼らは征服者となって、被征服者としての有色人種に攻撃欲動を向けました。つまり、インディアンや黒人を中心とした奴隷制度を構築するという過程を通して、移民たちは経済的な貧困から抜け出せただけでなく、精神的にも抑圧されてきた屈辱感から解放されたのです。

 アメリカの奴隷制度が、イギリス本国で廃止された後にもなかなか廃止されなかった理由の一つがここにあると考えられます。アメリカの奴隷制は、1861年から65年にかけて起こった南北戦争によって、100万人の死傷者を出してしか廃止されなかったことがそれを物語っています。

 奴隷制度が、奴隷たちの自由意志や日常生活の隅々までを束縛したのは先に述べた通りですが、さらに移民たちは、逃亡を図った奴隷には容赦のない折檻を加え、奴隷たちの反乱は徹底的に鎮圧しました。彼らは見せしめのために、日頃の鞭打ちから、反乱時の四肢切断、絞首、火あぶりまで、ありとあらゆる残酷な方法で処罰を加えました(以上、同上251頁)。
 こうした行為は、奴隷制の維持と白人の支配力を誇示するために行われたと理解されています。しかし、奴隷という貴重な「財産」を働けない状態にしたり、殺害したりする方法までが採られたことからも分かるように、彼らの行った処罰は、奴隷制を維持するための合理的な手段としての範疇を超えていました。奴隷制を維持すること自体が目的であれば、奴隷が奴隷として働ける環境を整えることの方がより重要なはずです。たとえば、これが家畜であれば、四肢を切断したり、絞首したり、火あぶりにしたりすることは考えられないことでしょう。

 残酷きわまる処罰の本当の目的は、自由を希求する奴隷に激しい憎悪を向け、奴隷から自由そのものを奪い取ることに向けられていました。その結果、移民たちは、自らの自由をよりいっそう実感することができたのです。

 

正当化される残虐な行為
 こうして移民たちは、抑圧された被征服者という立場から脱却するために、自らが抑圧者、征服者となる方策を選択しました。それまでの立場を正反対に転倒させることによって、彼らは心の中に巣くっていた屈辱感を消し去ろうとしました。

 それは、近代ヨーロッパの人々が攻撃欲動を解消させた方法、すなわち支配階級に攻撃欲動を向け、支配階級を打倒していった方法とは、その向かうベクトルの方向が180度異なる方法であったと言えます。彼らは自らの下に被支配者を作ることで屈辱感を軽減させ、さらにはその被支配者に攻撃欲動を向けることで、完全に屈辱感の解消を図ろうとしたのです。
 この方策は何と残酷で、しかも理不尽な解決法だったでしょうか。自らを支配してきた者に攻撃欲動を向けることには、それなりの道理もあるでしょう。しかし、被支配者に選ばれ奴隷にされたのは、何の罪もなかっただけでなく、それまで彼らとはまったく関係すらなかった人たちでした。

 以上のような行為を正当化するために、白人の開拓を妨害する凶悪で野蛮で戦闘的なインディアン像や、「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」の思想、そして家父長的温情主義(パターナリズム)などが利用されました。そして、彼らの行った残虐な行為は、これらの正当化によって正義の行いとして人々に認識されるようになったのです。(続く)

 

 

文献

1)富田虎男:アメリカ・インディアンの歴史[第3版].雄山閣,東京,1997.

2)池本幸三,布留川正博,下山 晃:近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で.人文書院,京都,1995.