アメリカはなぜ自由と正義を主張するのか(1)

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 トランプ政権になって内向きの姿勢が目立ちますが、それまでのアメリカ歴代の政権は、世界の警察として世界各地の紛争に介入してきました。その際にアメリカが主張するのが、自由と正義でした。「人民の自由を抑圧する独裁者を打倒する正義の戦い」というのが、戦いを行う際のアメリカの言い分でした。アメリカはなぜ自由と正義にこだわり、なぜ世界に向かって自由と正義を主張するのでしょうか。

 

国家創成の歴史

 この問題を検討するためには、まずアメリカという国家が形成された歴史を検討しなければなりません。

 フロイトは次のように述べています。

 「生まれてから五年間の経験は人生に決定的な影響を与え、その後の経験はこれに抵抗することなどできない。(中略)この体験され理解されなかった事柄は、後年になって何らかのときに強迫的衝動性を伴って彼らの人生に侵入し、彼らの行動を支配し、彼らに否も応もなく共感と反感を惹き起こし、しばしば、理性的には根拠づけられないかたちで彼らの愛情選択まで決定してしまう」(「モーセ一神教1)188-189頁)

 

 これは個人の人生について述べた文章ですが、国家の歴史についても同じように考えることができます。国家が生まれた当初の経験はその後の歴史に決定的に影響を与え、この体験され理解されない経験は強迫的衝動性を伴って国家の行動を支配し、理性的には根拠づけられないかたちで国家の選択まで決定してしまうのです。

 それでは、アメリカの創成期の歴史について検討して行くことにしましょう。

 

アメリカ建国の神話

 アメリカがイギリス本国から独立戦争を起こし、合衆国として独立した18世紀後半に、アメリカ建国に関する一つの重要な神話が創られました。その神話が、「ピルグリム・ファーザーズの神話」です。
 ピルグリム・ファーザーズとは、イギリス絶対王政の宗教的圧迫を逃れて、1620年にメイフラワー号で北米のプリマスに上陸した102人の清教徒を指しています。彼らは、イギリス人によるアメリカ植民の先駆けとなり、ニューイングランド建設の基礎を作ったとされます。そして、巡礼の父として、またはアメリカ人の始祖として、長らくアメリカ人の精神を支え続けることになりました。
 ピルグリムたちは、信仰の自由を実現するという崇高な目的を持って、大西洋を渡った宗教的な一団でした。彼らは、本国での宗教的な弾圧にも屈することなくその信仰を貫き、大西洋を渡航するという当時においては命がけの冒険を断行しました。

 彼らは上陸前に船中で「メイフラワー盟約」を結び、強い宗教的信仰と不屈の精神で新大陸を開拓することを誓い合います。その冬の厳しい気候に耐えられずメンバーの半数が餓死しましたが、二年目の秋には豊かな収穫に恵まれ、その間に援助を受けたインディアンを招いて感謝の機会を持つことも忘れませんでした。さらに、入植後に起こった数々の困難をも乗り越えながら、信仰の自由を守り抜いたのでした。
 そのため、彼らが造ったプリマス植民地には、市民的自由と信仰の自由の原点があると考えられています。そして、彼らは自由を愛するアメリカ人の起源であり、メイフラワー盟約は、近代社会を形成する市民契約の原点だと信じられているのです。

 

ピルグリム・ファーザーズの現実

 ところが、ピルグリム・ファーザーズの物語は、あくまでアメリカ建国の神話なのであり、この神話と現実の間には大きな乖離が存在しています。大西直樹の『ピルグリム・ファーザーズという神話』2)を参考にしながら、ピルグリムたちの現実を見て行くことにしましょう。
 大西は、メイフラワー号に乗船した人々のうち、清教徒は半数にも満たなかったと指摘しています。残りの者たちは、「新天地で一攫千金を求めようとしていたといっても過言ではない人びとであり、いわば、当時のイギリス社会からはみ出していた連中であった」(同上32頁)といいます。
 また、ピルグリムたちでさえ、分離派に属する人々で、イギリス本国から弾圧を受けた「異端者」でした。つまり、宗教的な意味においても、彼らはイギリス社会からはみ出した者たちでした。

 しかも彼らは、信仰の自由という崇高な理想を実現するために新大陸を開拓したわけではありません。それは、彼らがプリマス植民地で、イギリスから逃れてきたクウェーカー教徒を受け入れなかったのみならず、彼らを迫害したこと(同上80-81頁)からも明らかです。彼らは、自分たちの信仰だけを実現できる地を追い求めていたに過ぎなかったのです。

 

インディアンとの戦い

 さらに重要なのが、インディアンとの関係でした。

 インディアンは、ピルグリムたちに友好的でした。プリマス植民地と近隣のウォンパノアッグ族との関係は、お互いを友好的に受け入れながら、入植以来40年間は無事に推移しました(ただし、この友好関係は、プリマス植民地とウォンパノアッグ族との間だけのものでした。たとえば、1622年にはプリマス植民地の兵士らが、マサチューセッツ族の族長ら4人を謀殺する事件を起こしています)。
 しかし、マサチューセッツ湾岸植民地が好戦的なピークオット族を「皆殺し」にする事件(「ピークオット戦争」と呼ばれました)が起こってから、白人とインディアンとの間には相互不信が高まりました。

 さらに、白人側が土地の所有を広げ、ウォンパノアッグ族の固有の領域が次第に包囲されるにおよんで、彼らは不快感と恐怖心を募らせることになりました。そして、一人のインディアンの殺害事件がきっかけとなり、1675年に白人とインディアンの全面戦争が起こりました。この戦争は、ウォンパノアッグ族の族長の英名にちなんで、「キング・フィリップ戦争」と呼ばれました。

 当時の植民地世界全体を巻き込んだこの戦争において、もっとも深い関わりを持ったのがプリマス植民地でした。戦闘が長引くなか一部のインディアンの寝返りもあって、この全面対決はかろうじて白人側の勝利に終わりました。族長フィリップは無残にも身体をバラバラにされ、他のインディアン捕虜は西インド諸島に奴隷として売られました。その後、フィリップの首は、プリマス植民地にさらし首となって24年間も放置されたのです(以上、同上87-96頁)。

 

感謝祭の起源

 このような現実は、現在でもアメリカ全土で広く祝われている感謝祭によって忘れ去られています。

 1621年の秋の収穫に際し、ピルグリムたちはそれまで援助してくれたインディアンに対して感謝の宴を開きました。感謝祭は、そのことを記念する日です。
 大西は、最初の感謝祭とされるプリマスでの祝宴は、純粋に宗教的なものではなく、単に収穫を祝う伝統的な農民の収穫祭という性格のものに過ぎなかったと述べています。しかも、こうした機会が持たれたのは、1621年と翌年の二度だけであったとも指摘しています(以上、同上152頁)。それにも拘わらずこの祝宴が、アメリカ全土に散った家族が故郷に戻り、一年に一度家族の絆を確かめ、神に感謝を捧げるための一大国家的行事になって行きました。
 プリマスでの「最初の感謝祭」は、インディアンという異文化の者に対して、アメリカ人の始祖たちが寛容に、そして暖かく接したという印象を強く抱かせることに繋がったでしょう。その後の歴史からみて、彼らはインディアンにとって侵略者以外の何者でもなく、信じられないような野蛮な行為を行う者たちだったという事実は、「最初の感謝祭」によって無意識の彼方へと忘れ去られました。
 以上のように捉えると、メイフラワー号に乗船していた人々は、総じてイギリス社会では生活して行けなかった人々であり、聖徒として一括りにできない側面を持つ人々であったことが理解されるでしょう。

 

他では生きていけない人たち

 ピルグリムに続く人々もまた、同様の側面を持っていました。移民の中には貴族や騎士たち、または政府の推奨する移民政策を実行するめに渡航した上層階級の者もいましたが、彼らはほんの少数派でした。移民の多くは、ヨーロッパ大陸では生きて行けない人たちでした。
 経済的困窮者や囚人、罪人、寡婦、権力者の政敵、異端者などが、半ば「棄民」の形でヨーロッパ各地から新大陸へ送り出されました。18世紀末までにヨーロッパから北米大陸東岸地域に移民した人の数はおよそ200万人前後と見積もられていますが、そのうちの少なくとも7割は貧しい年季奉公人でした。彼らは、契約期間中は主人のもとで強制労働に服する一種の召使いでした(以上、『近代世界と奴隷制3)89頁)。
 また、移民の中には産業革命に乗り遅れて経済的に破綻したロンドンの市民や、農地改革のために動きのとれなくなった農民もいました。アイルランドの飢えた貧民、迫害を受け続けたユダヤ人、さらにロシア革命で追放された人々も移民となって新大陸に渡りました。
 彼らは皆、その地から離れるより仕方のない人たちでした。そうでなければいったい誰が、親族や友人と離別し、航海による死の危険さえ冒して、成功の保証などまったくない見知らぬ土地に移り住もうなどと考えるでしょうか。人は少々の困難では、現状の生活を捨てることなどできないのです。

 

抑圧された被征服者

 このように、新大陸を目指した人々の多くは、現状の生活を続けられない様々な理由を抱えており、その土地では生きて行けない人たちでした。彼らの多くは、社会から抑圧された、いわば被征服者層に属する人々でした。

 そのため、彼らが新大陸で希求した願望は必然的に次のようになりました。それは、社会の抑圧から解放されて自由を得ること、そして新たな社会で成功して上層階級に登りつめることです。この二つの願望は、アメリカ社会を動かす重要な原動力となりました。そして、今でも重要な原動力であり続けています。
 社会の抑圧から解放されたいという願望は、彼らが新大陸に移り住むことによって満たされるかに思われました。彼らには、抑圧されてきた社会から脱出した解放感がありました。新しい社会には、輝かしい未来が待っているのかも知れませんでした。
 しかし、そうして想いを巡らせるだけでは、彼らは抑圧からの解放を本当に実感することはできませんでした。なぜなら、抑圧された被征服者として生まれ育ってきた者は、抑圧された被征服者としてのアイデンティティーを持っているからです。彼らは、たとえどのような生活を送ろうとも、被征服者として生きることに適応してきました。したがって、抑圧された生活から解放されたとしても、当初はどのように振る舞っていいのか分からないだけでなく、新しい生活に不安さえ覚えます。移民後の彼らは、精神的には相変わらず抑圧された被征服者のままだったのです。

 では、精神的に被征服者であった移民者たちは、どのようにしてそれを克服しようとしたのでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.

2)大西直樹:ピルグリム・ファーザーズという神話  作られた「アメリカ建国」.講談社,東京,1998.

3)池本幸三,布留川正博,下山 晃:近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で.人文書院,京都,1995.