共産主義社会にはなぜ独裁者が生まれるのか(2)

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 マルクスの思想に導かれてソ連社会主義革命が興り、世界で初めて共産主義を目指す国家が誕生しました。しかし、ソ連は人々の平等が目指されるどころか、スターリンという独裁者が支配する社会に変貌しました。今回と次回のブログでは、なぜこうした矛盾が起こったのかを精神分析的に検討してみたいと思います。

 

社会主義革命という神話

 マルクスは、それまでの社会主義を「空想的社会主義」と呼び、自らの理論こそ唯物論弁証法で歴史の発展を説明できる「科学的社会主義」であると標榜しました。マルクスダーウィンと同時代に生きたことからも分かるように、当時は社会の表舞台から神が退場し、社会・文化の中心に科学が置かれようとしていた時代でした。マルクスは、唯物論を用いた新しい科学によって、来たるべき時代の到来を理論的に説明しました。マルクスの斬新な理論は、混乱した社会で苦しむ下層階級の人々に夢と希望を与え、時代を変えようと熱望する革命家に大きな自信をもたらしました。

 ただし、マルクスの理論が多くの人々に影響を与えたのは、彼の理論が科学的に正しいと証明されたからではありません。

 マルクスは、社会主義社会の到来を理論的に予言しただけでなく、『資本論』によってマルクス主義経済学を樹立しました。しかし、彼の政治・経済に対する独創的な諸説は詳細かつ難解であり、人々に広く理解されていたとは言い難いものでした。マルクス主義を標榜した人々が、マルクスの思想を曲解し、正しく認識できていなかった面も多かったのではないでしょうか。この事情は、マルクス自身が「私はマルクス主義者ではない」と皮肉って語ったことからも推察されます。

 それにも拘わらず、マルクスの諸説が社会を変革するほどの影響力を発揮したのは、彼の理論が、神亡き社会における「新たな神話」として人々から迎えられたからでしょう。

 

マルクス主義選民思想 

 マルクス主義の根幹には、次のような思想が存在しています。それは、人間の社会は歴史的必然性によって支配されているという歴史観と、資本家から搾取を受けている労働者階級は本来は選ばれた者たちであり、将来において必ずや正しい社会を樹立する役割を担うことになるという強い信念です。この思想は、何かによく似ていないでしょうか。そう、それは、ユダヤ教における選民思想です。
 ユダヤ教は、苦難の途を歩まねばならなかったユダヤ民族が、自らの自尊心を保つために創り上げた宗教でした。旧約聖書によれば、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、エジプトで使役されていた奴隷でした。エジプトを脱出した後も、40年にも及ぶ荒野での放浪生活を余儀なくされました。イスラエルの民は、荒れ野での慢性的な食料と水不足に悩まされ、様々な試練を受けることになりました。試練はイスラエルの民が約束の地カナンに入った後にも課せられます。王国の分裂と滅亡、バビロン捕囚などによって、彼らは苦難の生活を強いられ続けたのです。
 イスラエルの民はこうした苦難の歴史の中で、民族意識を強めて団結を固め、民族の自尊心を保つために唯一、全能の人格神であるヤハウェを戴くユダヤ教を創り上げました。ユダヤイスラエル)民族はローマ帝国によっても支配を受けることになり、果てしない民族的苦難の連続は、メシア(救世主)の出現によって異教徒は滅び、ユダヤ民族が世界の支配者になるという強い信念に発展しました。こうして、ユダヤ民族は神から選ばれた特別の民族であるという選民思想が完成されました。
 この選民思想の「ユダヤ民族」の部分を「プロレタリアート」に置き換えると、マルクスの革命理論の骨子が出来上がります。ユダヤ民族が常に大国から支配を受け、苦難の生活を強いられ続けたことと同様に、プロレタリアートは資本家から搾取され、劣悪を極めた生活を送ることを余儀なくされました。

 ユダヤ人であったマルクスは、そうとは意識しないままに、プロレタリアートの姿に、ユダヤ民族の姿を重ね合わせたのではないでしょうか。そして、ユダヤ民族と彼らを苦しめ続ける周囲の大国(それは、エジプトから始まってアッシリアバビロニアペルシャ帝国からローマ帝国に至る)との関係を、プロレタリアートと彼らを搾取する資本家との関係に移し替えたのではないのでしょうか。
 このように仮定すると、神から選ばれたユダヤ民族が世界の支配者になるという選民思想に従って、プロレタリアート階級闘争によって資本主義社会を一掃し、プロレタリアートが支配する社会が到来するという構図が作らます。

 

苦難が創り上げる誇大的空想

 そこには、現実の苦難に耐え忍び、屈辱から自らの自尊心を守るために誇大的空想を創り上げるという共通の心理機制が認められます。この心理機制は、輝かしい未来を夢想することによって、現状を一時的な仮の姿として捉え、悲惨な現実に耐え抜く気力を与える効果をもたらします。

 だからこそマルクスの思想は、その理論の難解さとは別の次元で、現実の生活苦にあえぐ無産階級の人々に希望を与え、瞬く間に世界中に広まることになったのです。

 

ラビの家系に生まれたマルクス

 もし、マルクスの理論の根底にユダヤ教選民思想が入り込んだとすれば、それはなぜ起こり得たのでしょうか。
 フランシス・ウィーンの『カール・マルクスの生涯』1)によれば、マルクスの父親は、ユダヤ教の学者・指導者であるラビの家系にありました。しかし、彼の信仰は「たまたま祖先がユダヤ教徒だったからといった程度のもの」であり、「第二級市民として社会的経済的差別を受けることを避けるために」、マルクスが誕生する前にプロテスタントに改宗したといいます。そのためマルクスは、6歳でプロテストの洗礼を受けています。
 一方、マルクスの母親もまた、何世代にも渡ってラビを務めた家系にあしました。彼女は日常生活で、アシュケナージユダヤ人が使用するインディッシュ語を話していたといいます。しかし、彼女は「家族だけが世の中で唯一の関心事という人」であり、「休みなく家族の世話をし、心配をし、彼女自身『過度の母性愛』に自ら悩まされていた」のでした。
 このように幼少期のマルクスには、敬虔なユダヤ教徒としての成育環境があったわけではありません。ただ、両親が共にラビの家系にあったことから、ユダヤ教の影響が少なからず存在したことは否定できないでしょう。

 

ユダヤ教を否定するマルクス

 成人して無神論者になってからのマルクスは、宗教に対して否定的な考えを示すようになってゆきます。初期の著作である『ヘーゲル法哲学批判序論』でマルクスは、宗教に対して次のように述べています。

 

 「宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」(『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説2)72頁)

 

 マルクスによれば宗教とは、抑圧され、非情な世界に生き、精神を失った民衆の阿片でした。阿片が人間を依存させ、やがて堕落させることを思い浮かべれば、マルクスの宗教に対する思いが理解されるでしょう。
 さらにマルクスは、ユダヤ教に対しても否定的な立場を採っていました。同じく初期の著作である『ユダヤ人問題によせて』の中で、マルクスは次のように主張しています。

 

 ユダヤ人の解放は、その究極の意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」(『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』58頁)

 

 ここでマルクスが述べているユダヤ教とは、ユダヤ教の現世的な側面のことです。彼は、ユダヤ教の現世的基礎は私利であり、ユダヤ人の世俗的な祭祀はあくどい商売であり、ユダヤ人の世俗的な神は貨幣であるといいます。そして、貨幣が世界の支配的権力になったため、実際的なユダヤの精神が、今やキリスト教諸国民の実際的精神になっていると指摘しています(以上、同上57-59頁)。
 つまり、ユダヤの神である貨幣は、資本主義になったキリスト教諸国民の精神を支配するに至りました。そこで、ユダヤ人の人間的解放(さらにはキリスト教諸国民の人間的解放)を目指すためには、貨幣という神からの解放、すなわちユダヤ教からの人類の解放が達成されなければならいとマルクスは主張します。
 この指摘は、ユダヤ教ユダヤ人の現世的な側面を中心に述べており、ユダヤ教の教義自体を否定したものではありません。しかし、マルクスユダヤ教を人間疎外の要因として捉えているのであり、ユダヤ教が人類に与える悪影響にさえ言及しています。このようにマルクスは、自らがまるでユダヤ人ではないかのような立場に立って「ユダヤ人問題」を語っているのです。

 

ユダヤ民族を否定するマルクス

 では、ユダヤ人であったマルクスは、自身をどう捉えていたのでしょうか。前出のフランシス・ウィーンは、次のように指摘しています。

 

 「自らの出自を彼が否定したことは一度もない。が、その一方で、自分がユダヤ人であることにまわりの注意を向けさせたことも一度もなかった。これはロンドンのイーストサイドの労働者たちに、誇りをもって自分がユダヤ人であることを告げた娘エレナの態度とはいかにも対照的だ」(「カール・マルクスの生涯」73頁)

 

 マルクスは自分自身がユダヤ人であることに、特別の意識を向けていなかったかのようです。しかし、次のくだりからは、彼のユダヤ民族に対する思いを垣間見ることができます。

 

 「後年、マルクスエンゲルスとの往復書簡の中で、まるで浮かれ狂ったかのように、自分の敵たちに反ユダヤ的罵声を浴びせている。しばしばその犠牲になったドイツの社会主義者フェルディナント・ラサールは、『イッド』『ワイリー・エフライム』『イジー』『ユダヤのニガー』などなど、ユダヤ人を差すさまざまな蔑称で呼ばれている」(「カール・マルクスの生涯」73頁)

 

 マルクスはこのように、ユダヤ人を侮蔑的に扱っています。彼は無神論者となり、ユダヤ教を否定的に捉えるようになった結果、自らがユダヤ民族の末裔であることを忘れてしまったかのようです。そうでなければ、ユダヤ人同胞であるフェルディナント・ラサールに対して、反ユダヤ的罵声を浴びせかけることなどはできないでしょう。

 さて、これまでに述べてきた矛盾、つまり無神論者となってユダヤ教を否定し、さらには自らがユダヤ人であることすら忘れてしまったかのようなマルクスの言動と、それにも拘わらず彼の理論の深層にユダヤ教的な内容が垣間見られることの矛盾は、どのように説明されるのでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)フランシス・ウィーン(田口俊樹 訳):カール・マルクスの生涯.朝日新聞社,東京,2002.
2)カール・マルクス(城塚 登 訳):ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説岩波文庫,東京,1974.