キリスト教はなぜ愛を説くのか(1)

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 世界はどうやって創られてこれからどうなっていくのか、世界はどのような原理で動いているのか、そして私たちはどこから来てどこにいくのか。こうした根源的な疑問に答えることが宗教の重要な役割です。

 ところが、キリスト教は愛の宗教と言われるように、神や人を愛することを中心的な教義に置いています。この意味でキリスト教は、他の宗教とは異なる特別な宗教であると言えるでしょう。なぜ、キリスト教では愛が重要な概念として取り上げられているのでしょうか。その答えの一つにつながる重要なヒントを、フロイトが提出してくれています。

 

継父殺害の物語

 フロイトは『モーセ一神教1)において、自らの立場を危うくしかねない新たな二つの見解を表明しています。
 一つは、これまでに何度も引用してきたように、集団の無意識の中に伝承されてきた記憶が、動物の本能のように人間の行動や社会の有り様に影響を与えるとする考え方です。この考えによってフロイトは、「ユダヤ人を創造したのはモーセというひとりの男であった」という結論に至ります。しかし、この考え方は、それまでフロイトが築いてきた理論、すなわちリビドー概念や、生の本能(欲動)、死の本能(欲動)といった物理化学や生物学に還元され得る要素を併せ持つ理論を、否定しかねない内容でした。
 もう一つは、ユダヤ人を創造したモーセが実はエジプト人であり、しかもイスラエルの民(ユダヤ人)によって殺害されたとする仮説を提唱したことです。この見解もまた、ユダヤ教ユダヤ民族の立場を危うくしかねないものでした。そのため『モーセ一神教』は、ユダヤ人からはあまり歓迎されなかったのです。
 なぜフロイトは、このような危険を冒してまで、継父殺害の物語を紡ぎ出したのでしょうか。

  

旧約聖書における神と民との関係
 『モーセ一神教』は、「モーセ、ひとりのエジプト人」という 章から始まってい
ます。ここでフロイトは、「モーセはひとりの おそらくは高貴なエジプト人であり、伝説によってユダヤ人へと変造されるべく運命づけられていた」と主張します。
 ユダヤ民族の解放者にして立法者であり、宗教創始者でもあったモーセが、異民族の出身であったというような議論をフロイトが敢えて行ったのには理由があります。それは、このように仮定することで、旧約聖書の物語が、フロイトが提唱するエディプス・コンプレックスの原理に貫かれたひとつの物語として理解できるようになるからです。そして、ユダヤ教だけでなくキリスト教へと連なる、一貫した物語となって完成されるからです。
 さて、『モーセ一神教』の内容に立ち入る前に、旧約聖書における神と民との関係について少し触れておきましょう。それは、両者が非常に特異な関係にあるからです。『出エジプト記2)を例に挙げて、それを検証してみましょう。
 エジプトで奴隷として使役されていたイスラエルの民は、預言者モーセに率いられてエジプトを脱出し、シナイの野に至ります。その過程で、神は様々な奇蹟を示しました。脱出したイスラエルの民を追走するエジプト軍を全滅させる「紅海の奇蹟(映画などで、海が真っ二つに割れるシーンで有名です)」に始まり、荒れ野で彷徨する民に飢えたときには「マナ」(神が与えたパン)を、渇いたときには「岩からほとばしる水」を、外敵に襲われたときには勝利を神は奇蹟として与えました。しかし、こうした数々の奇蹟を目の当たりにしても、イスラエルの民は神に恭順の態度を示すことなくモーセに不満を述べるのでした。
 エジプトを脱出して3ヶ月後に、モーセシナイ山で、神からイスラエルの民との契約の基本となる「十戒」を与えられます。その中には、「わたしをおいて他に神があってはならない」と神が唯一であることが説かれ、「いかなる像も造ってはならない」という偶像崇拝の禁止が示されていました。
 このとき神は、モーセを通して民に次のように語ったのです。

 

 「君の神であるヤハウェは妬む神であり、わたしを憎む父たちの咎をその子らに罰して三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わが誠命を守る者のためには恵みを施して千代に及ぼすのである」(『出エジプト記』20・5-6)

 

 神はイスラエルの民に、「わたしを憎む者に対しては、父の罪を三代、四代の子にまで及ぼし、わたしを愛し、掟を守る者には、千代までも恵みを施す」と語っています。なぜ神は、わざわざこのようなことを示さねばならなかったのでしょうか。通常は奴隷状態から救い出してくれた神に対して感謝しこそすれ、憎しみを抱くことなど考えられないのではないでしょうか。また、神を愛し、神の掟を守るという当たり前のことをしただけで、子々孫々まで恵みを施されるのはなぜなのでしょうか。
 難解な物語は、この後も続きます。
 モーセが山に引き返して40日間とどまったとき、不安になった民は子牛をかたどった金の神像を造って祭壇を築きました。イスラエルの民は、早々と神の定めた掟を破ったのです。
 このとき神は、モーセに対して次のように言い放ちました。

 

 「わたしがこの民を見ると、見よ、項強(うなじこわ)き民である。今わたしの思うままをわたしにさせよ、わが怒りが彼らに向かって燃え、彼らを滅ぼさせよ」(『出エジプト記』32・9-10)

 

 掟を破った民に怒った神は、なんと彼らを滅ぼそうとしたのです。いくら言いつけを守らない頑民だからといって、自らの民を滅ぼしてしまおうとする神が存在するでしょうか。それでは、神がわざわざエジプトからイスラエルの民を救い出した意味がなくなってしまうのではないでしょうか。
 結局、モーセが必死に執り成すことによって、イスラエルの民は神に全滅させられることは免れましたが、それでもモーセの命令によって三千人が刺し殺されることになったのです。

 

継父の神との関係

 このような不可解な神とイスラエルの民との関係を理解するために、先に述べたフロイトの仮説が有効になります。
 フロイトは、次のような仮定を行っています。

 

 「もしもモーセがひとりのエジプト人であったならば、そして、もしも彼がユダヤ人に彼自身の宗教を伝えたとするならば、それはイクナートンの宗教、すなわちアートン教であった」(『モーセ一神教』33頁)

 

 フロイトは、モーセイスラエルの民(ユダヤ人)の出身ではなく、彼らを奴隷として使役していたエジプト人の一人だと考えました。
 イクナートンとは、王朝史上初めて誕生した一神教であるアートン教を奉じたエジプトの王です(ちなみに、黄金のマスクが発掘されたことで有名なツタンカーメンは、イクナートンと側室との間に生まれた子どもであると考えられています)。アートン教はイクナートンの時代に民衆に強要され、彼が没した後は忘れ去られて行きました。フロイトは、モーセがこのアートン教を引き継ぐために、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出したのではないかと推論しています。
 この仮定によると、モーセイスラエルの民との関係は次のように捉え直されることになります。

 

 モーセこそがユダヤの民のなかに身を落とし、彼らをモーセの民族としたのだ。ユダヤ民族はモーセによって『選ばれた民族』だったのだ」(『モーセ一神教』67頁)

 

 つまりモーセは、異民族であるイスラエルの民を選び、彼らにエジプト文化で生まれた一神教を受け継がせようとしたのです。
 そして、こうした事情が、神とイスラエルの民との間に特殊な関係を生むことになりました。

 

 「奇異な印象を与えるのは、神が突然にひとつの民族を『選び出し』、その民族をおのれの民族であると、おのれをその民族の神であると言明するとの考えである。私は思うのだが、このようなことは、人間の宗教史上唯一無比である。通常の場合、神と民族は分かち難く結びついていて、両者はそもそもの始源から一体である」(『モーセ一神教』67頁)

 

 神がひとつの民族を選び出し、自らがその民族の神であると言明することは、宗教史上他に例をみない出来事であるとフロイトは指摘しています。
 通常の宗教における神と民族は、その社会の始まりの時点から、一体の存在として分かち難く結びついているはずです。『トーテムとタブー』3)において検討されているように、神とは、かつて強大な力で集団を支配した原父の生まれ変わりでした。民族の起源において集団を支配した原父がトーテムとして民族の象徴となり、やがて神となって民族を支配するという過程を考えれば、神とその民族は父親と子どもの関係を受け継いでいます。
 これに対して、イスラエルの民と神との関係はどうでしょうか。フロイトの仮説によれば、エジプト人であったモーセが、イスラエルの民を「モーセの民族」として選び出し、彼らに異文化で誕生した神を与えたことになります。したがって、通常の神と民族が実父と子の関係であるとすれば、モーセの神とイスラエルの民は、継父と子の関係にあると考えられるのです。

 

出エジプト記』の意味するもの

 ここで、モーセはエジプト人で、イスラエルの民に伝承させた宗教はエジプトの宗教に起源を持つこと、つまりイスラエルの民にとってモーセとその神は継父だったという視点で『出エジプト記』を見直してみましょう。
 このように捉えると、『出エジプト記』の物語は、われわれにとってより理解しやすいものとなります。たとえば、数々の奇蹟を目の当たりにしても、イスラエルの民が神に恭順の態度を示さなかったことや、彼らが神の掟を与えられた端から破ったことは、継父に対する子どもの態度と捉えれば納得できるでしょう。
 一方、掟を破った行為に対して神が民族の殲滅を断行しようとしたことも、継父の態度としてなら理解できないことはありません。継父が気に入らないのなら、今の子を棄てて新たな継子を探すという選択肢が存在するからです。
 同様に、神が「わたしを憎む者に対しては、父の罪を三代、四代の子にまで及ぼし、わたしを愛し、掟を守る者には、千代までも恵みを施す」と語ったのも、継父が子どもとの関係を作ろうとして、アメとムチを使った提案を行ったと考えれば理解することができます。また、「わたしをおいて他に神があってはならない」と念を押しているのも神が継父の立場にあるからであり、「ヤハウェが妬む神である」のは、イスラエルの本来の神、つまり実父に対する嫉妬を意味しているのでしょう。
 さらに言えば、イスラエルの民と神が「契約」によって結ばれていること自体が、両者の関係を端的に物語っています。契約によって関係を結ぶという発想は、そもそも血の繋がった親子間では必要とされないのであり、血縁のない他人の間柄だからこそ、契約によって相互の繋がりを確認しなければならなかったのです。

 

モーセとその神の殺害
 モーセと彼に導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、その後どのような途を歩んだのでしょう。
 フロイトの推論は、以下のように続きます。

 

 「イクナートンの学校を出たモーセは王のごとく振る舞う以外のすべを知らなかった。彼は命令し、民族に彼の宗教を強要した」(『モーセ一神教』70頁)

 

 イクナートンの宗教を引き継いだモーセは、王のごとく振る舞い、民衆に彼の宗教を強要しました。そして、彼が強要した宗教は、アートン教と同様の、いやそれよりもさらに峻厳な一神教の教義でした。
 その結果、一つの重大な出来事が起こったとフロイトは指摘しています。

 

 「エジプトの民衆と同様、モーセ配下のユダヤ民族も、かくも高度に精神化された宗教に耐えることができず、このような宗教のなかにおのれの欲求の満足を見出す力を持っていなかった。両者に同じことが起こった。監督支配され不当に遇された民衆が蜂起し、課せられた宗教の重荷を投げ棄てた」(『モーセ一神教』70頁)

 

 一神教とは、ただ一人の神の存在しか認めないため、それまでの宗教や他の神々を弾圧する不寛容な宗教であると言えます。このような宗教を強要されたエジプトの民衆は、やがてこの一神教を廃棄するに至りました。イスラエルの民も、やはりモーセの強要する宗教に耐え切れなくなり、これを廃棄してしまったのです。
 フロイトは、この過程が『出エジプト記』にある「荒野のさすらい」に暗示されている可能性を指摘しています(同上71頁)。黄金の子牛にまつわる物語(偶像崇拝の禁止の掟を破った話)は、イスラエルの民の心がモーセの宗教から離反したことを現しており、また、モーセの命令によって三千人が刺し殺されたのは、この謀反が流血を見る懲罰によって制圧されたことを記していると捉えることができます。
 そして、一連の謀反は、ついに決定的な結末を迎えることになりました。

 

 「温和なエジプト人がファラオという聖化された人物を運命の手に委ねたのに対し、荒々しいセム人は運命をおのれの手に入れ、独裁者を片づけてしまった」(『モーセ一神教』70頁)

 

 エジプトではイクナートンの死後、アートン教は民衆から顧みられなくなって行きます。しかし、そうした経緯とは異なり、イスラエルの民は、偉大なる指導者にして解放者たるモーセを殺害してしまったとフロイトは言うのです。
 それは、エジプト人が温和で、イスラエルの民が荒々しかったことだけが理由ではないでしょう。エジプト人にとってイクナートンとその神は実父であり、イスラエルの民にとってモーセとその神は継父だったことが、この事件の最も重要な要因であったと考えられます。

 ちなみに、フロイトはこの後に、エジプトから戻った部族と、エジプトとカナンの間に定住していた諸部族が一体化してイスラエル民族が誕生し、この際にすべての部族に共有化されたのが、その地にあったヤハウェの宗教であると説明しています。そして、諸部族が一体化したころ、モーセ殺害の記憶は、悔恨の念と共に忘却されることになったと指摘しています(同上47-48,54,71頁)。
 このようにフロイトは、モーセがエジプト人であり、しかもイスラエルの民に殺害されたという仮説を提唱したのでした。次回はこの仮説から、ユダヤ教、そしてキリスト教が誕生していく過程を検討したいと思います。(続く)

 

 

文献

1)フロイト,S.(渡辺哲夫 訳):新訳モーセ一神教日本エディタースクール出版部,東京,1998.

2)旧約聖書 出エジプト記(関根正雄 訳).岩波文庫,東京,1969.
3)フロイト,S.(西田越郎 訳):トーテムとタブー.フロイト著作集3,人文書院,京都,1969.