祖国を貶める人々 鳩山由紀夫(2)

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 鳩山氏は総理になって、アメリカから毎年提出される年次改革要望書を廃止しました。そして在日米軍再編問題では、沖縄の普天間基地について「最低でも県外に移設する」と言って物議をかもしました。これらは鳩山氏が、アメリカからの自立を図ろうとする試みであったと考えられます。しかし、鳩山氏の政策はアメリカ政府からの反発にあって実現できず、鳩山内閣は退陣を余儀なくされました。

 その後の鳩山氏は、ついには宇宙的な視野に立って、国と国との関係を考えるようになりました。宇宙から概観すれば、地球で起こっている国家間の紛争など意味のない愚かな行為です。実際の地球には国境など存在しないように、政治に求められるものは、国境をなくすような政策を実行することだと鳩山氏は考えたと思われます。政界を引退した後の鳩山氏は、こうした考えに基づいて平和を希求するための行動を起こしました。

 ただ、鳩山氏の思考には決定的に欠落しているものがありました。それは実際に起こっている国家間の紛争という現実であり、紛争に携わっている人たちのやむにやまれぬ思いでした。

 今回のブログでは、鳩山氏の思考から、なぜこうした現実感覚が失われてしまったのかを検討したいと思います。

 

現実に跳ね返された後は

 前回のブロウで指摘したように、鳩山総理は自らが理想とする政策を実現できないまま、退陣することを余儀なくされました。その後に考えられる方向は二つでした。

 一つは跳ね返された現実の政治を理解し、自らの理想を実現するための現実的な方策を探求する方向です。この方法であれば、理想の実現はいったんは遠のきますが、現実と妥協しながら僅かでも理想を実現するための方策を探っていくことになります。これが責任ある政治家の歩む途だと思われます。

 もう一つの方向は、あくまでも理想を追求する方向です。現実の壁は見ないこととして、さらに理想を追求してゆくことになります。この場合は、現実的な政策の実現は遠のき、理想はさらに先鋭化されてゆきます。

 鳩山氏は、残念ながら後者の途を歩みました。

 

理想の追求は全能感を伴う

 現実の壁は見ないことにして理想だけを追求すると、その理想には次第に全能感が伴われてゆきます。

 鳩山氏は理想を追求するあまり、宇宙的視野に立って政界を概観するようになりました。各国の首脳が自国の利益を確保するために汲々とするなかで、鳩山氏は一人宇宙からの視野で政治を語ります。この時点で鳩山氏は、各国の首脳よりも上からの視点で世界を概観していると言えるでしょう。

 国と国との関係を宇宙からの視野で概観する、それはまさに全能の神の視野であると考えられます。つまり鳩山氏は、神のごとき全能感を伴って、政治に携わるようになったのです。

 ただし、それは現実には何の効力も発揮できない全能感でしたが。

 

全能感の原点は

 では、現実を見ないで理想だけを追求すると、なぜ全能感が伴われてくるのでしょうか。それは、われわれが人生の最初期において、全能感を育んでいるからです。

 人間は、ほとんど何もできない状態で生まれてきます。これは、ほかの動物と比べると明らかになるでしょう。特に草食動物では、子どもは生まれてすぐに立ち上がり、歩き出します。そうしなければ、肉食動物に捕食されてしまうからです。

 これに対して人間は、非常に未熟な状態で出生します。生まれたばかりの赤ちゃんができるのは、おっぱいを吸うことと泣くことくらいです。つまり、客観的には人は、無能の状態で生まれてくるのです。

 一方、主観的にはまったく正反対です。感覚器の発達も不充分な赤ちゃんは、周囲の世界を充分に認識できていません。母親から庇護を受け、おっばいを与えられ、おむつを替えてもらい、お風呂に入れてもらっているとは理解できていません。そこで赤ちゃんは、自分の望むことがすべて自分の力によって叶えられると認識しています。つまり、他者からしてもらっていることを、自分が行っていると錯覚しています。自分の望むことがすべて叶えられると感じているのですから、この錯覚には全能感が伴われています。

 児童精神科医ウィニコットは、この現象を絶対的な依存期(出生から6か月までの時期)における錯覚と呼びました。

 

錯覚から脱錯覚へ

 人は成長するにつれ、現実を理解するようになります。そして、自分で行っていると認識していたことが、実は母親にしてもらっていたことに気づきます。自分の認識が錯覚であったと理解できるようになることを、ウィニコットは脱錯覚と呼びました。錯覚から脱するという意味です。

 脱錯覚は、苦痛を伴います。全能だと思っていた自分が、実は無能だったことを認めることになるからです。それは人が最初に感じる、耐えがたい苦痛であると言えるでしょう。

 この苦痛に耐えられるのは、人が現実の世界でできることが少しずつ増えるからです。無能であった赤ちゃんが、感覚器が発達し、周囲の状況を理解し始め、ハイハイができるようになり、喋れるようになり、立って歩けるようになります。客観的にできることが増えていく喜びによって、全能ではないことを主観的に受け入れられるようになります。こうして人は、少しずつ現実を受け入れます。現実にできることを増やしながら、全能であることを諦めてゆくのです。

 

全能の頃に戻りたい

 しかし、全能であった頃への果てない憧憬は失われることなく、心の奥底にそっとしまい込まれています。人はいつまでたっても、わずかでもチャンスさえあれば、この全能感を再び抱きたいと願い続けています。

 そこで人々は、乳幼児期に持っていた全能感を再び獲得しようと、現実の世界の中で奮闘します。しかし、その多くは挫折します。自らが全能感を得ていた世界は錯覚の世界であり、現実の世界で実現が可能なことは限られているからです。

 ここで人は、全能感を諦めるために様々な心理的防衛機制を用います。たとえば、全能感を他者に投影する方法があります。投影する対象は、神であったり、為政者であったり、各分野のスーパースターであったりします。身近な例であれは、親であったり、尊敬する他者であったりするでしょう。こうした他者に全能感を投影したうえで、自分はその他者と関わりを持ち、さらに一体感を得ること(これを同一化といいます)によって、全能感の一部を間接的に感じることができます。

 

現実逃避によって全能感を得る

 一方で、現実世界から逃避して、乳幼児期の全能の世界に戻ろうとする試みもあります。現実の世界から逃避する手段として代表的なのが、われわれが日常的に摂取しているアルコールです。アルコールは現実感覚を麻痺させる作用があり、現実感覚が失われている間は全能感を呼び覚ますことが可能になります。お酒を飲むと気が大きくなったり人格が変わったりするのは、隠れていた全能感が頭をもたげるからです。

 インターネットによるヴァーチャルリアリティの世界も、現実逃避の手段として利用されることがあります。ヴァーチャルリアリティに世界にのめり込むのは、そこに乳幼児期に抱いた全能感の断片が散りばめられているからでしょう。

 さらに現実逃避の試みは、ギャンブルから違法ドラックにまで及びます。こうした世界では現実世界の煩わしさや苦しさは失われ、一気に全能感を感じられる世界が体験できます。人がアルコールやドラッグやギャンブルにはまり込んでしまうのは、簡単に全能感に浸ることができるからです。そのため、この安易な全能感を手放すことができずに、依存症に陥ってゆくのです。

 

全能と無能は表裏一体

 ところが、安易な全能感は、現実には何も生み出しません。なぜならこの全能感は、乳幼児期の全能感の再現に過ぎないからです。

 乳幼児期は主観的には全能ですが、客観的には無能の状態でした。この頃は、心の中で欲したものは何でも叶う一方で、客観的に見れば、赤ちゃんは現実の世界では何もできない存在です。この時代の全能感に浸っている人は、主観的には何でもできると錯覚し、自分に酔いしれることができますが、客観的には乳幼児期と同じように何もできません。

 絶対的な依存期の状態に子どもがえり(これを退行といいます)すれば、現実を錯覚している頃に戻ることになります。主観的には全能感を感じることができますが、客観的には無能な状態に逆戻りしてしまうのです。

 

人類の平和を願う

 先のブログで、吉田清治氏が、朝鮮人男性を労働力として、朝鮮人女性を慰安婦として狩りたてたというフィクションを創作したことを指摘しました。そして、それを日本民族による悪徳と定義し、自らはそこから脱することによって、ついには人類の共存を願うようになったと語りました。さらに彼は、「人類すべての『差別』に反対する」と主張するに至りました。

 こうして吉田氏は、人類すべての差別に反対する平等主義者になり、民族という概念を超えた存在になりました。このときの吉田氏は日本民族朝鮮民族も超越した崇高な人格者として振舞い、究極の理想を現前させたという全能感に浸っていたでしょう。彼が朝鮮の人々の前で土下座をして見せたのは、究極の理想に達したことを示すデモンストレーションでした。そして、土下座のような屈辱的な行為ができたのは、自らが全能感に浸っていたからに他なりません。

 総理を辞し、政治家から退いた後の鳩山氏も、同様の心理状態であったと考えられます。宇宙的な視野に立って政治を語り、対立する国家を訪問して日本の非を語る鳩山氏は、世界から紛争をなくすための使者として振舞いました。世界の平和を実現するために行動する鳩山氏は、紛争に明け暮れる各国の首脳を超越した、全能の神のごとき存在まで昇り詰めたと言えるでしょう。彼が韓国の西大門刑務所の跡地で土下座をして見せたのも、同様に究極の理想に達したことを示すデモンストレーションでした。

 しかし、鳩山氏の言動は、客観的には対立の解決に何の役割を果たさなかったばかりか、相手国にいいように利用され、日本を貶めるだけの結末を招いたのです。(了)