皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(5)

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 前回のブログでは、親鸞聖人の悪人正機説にみられる、悪人も善人も、才能のあるものもないものも、努力するものもしないものもすべて、極楽浄土に往生できるという、救いに対する究極の平等性について述べました。そしてこの平等性は、和の文化をもとに創り上げられたことも検討しました。

 では、現実の日本の社会では、このような平等性は認められるのでしょうか。

 

江戸時代に進んだ社会の均質化

 日本の平等性を、まず江戸時代の社会で見てみることにしましょう。

 江戸時代は封建社会で、身分制度がしっかりと形づくられていたと捉えられています。しかし、日本社会では、封建制度のなかにもさまざまな平等性が認められます。

 たとえば、政治の権力は徳川幕府が握っていましたが、社会の権威は天皇が保持し、地方の政治は各藩が行うというように、権威や権力がなるべく分散するような体制が形作られました。身分制度をとってみても、身分が高いとされた武士や農民は経済的には恵まれず、身分の低い商人が豊かな生活を送ったというように、権力や財力が個人に集中せず、全体的にバランスが取られて不平不満が生じにくいような制度が創られていました。

 われわれは、経済的に困窮した武士が存在し、「武士は喰わねど高楊枝」と揶揄されたことを当たり前のように知っています。しかし、いったい日本以外のどこの世界に、支配層が貧困に喘いでいる社会が存在したでしょうか。

 

自由を束縛された支配階級

 社会の平等性は、自由という側面でも認められました。

 渡辺京二氏の『逝きし世の面影』1)によれば、幕末に日本を訪れたオランダの海軍軍人であるカッテンディーケは、次のように述べたといいます。

 「『日本の下層階級は、私の看るところをもってすれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享受している。そうして彼らの権利は驚くばかり尊重せられていると思う』。(中略)

 そのように民衆が自由なのは、日本では下層民が『全然上層民と関係がないから』である。上層民たる武士階級は『地位が高ければ高いほど、人目に触れず閉じ籠もってしまい』、格式と慣習の『奴隷』となっている。『これに反して、町人は個人的自由を享受している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの国々でも余りその比を見ないほどの自由である』。法規は厳しいが、裁きは公平で、『法規と慣習さえ尊重すれば、決して危険はない』」(『逝きし世の面影』264頁)

 江戸時代の社会では、下層民がむしろ自由を享受し、上層民になればなるほど「慣習と格式の奴隷」になっているというのです。
 渡辺氏はこの点について、幕藩権力は年貢の徴収や一揆の禁令といった国政レベルの領域では強権を振るったものの、民衆の日常生活の領域には可能な限り立ち入ることを避けていたと述べています。そして、それは民衆の共同体に自治の領域が存在したことを示しており、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していたと指摘しています(同269頁)。

 

下層を支える仕組み
 一方で、日本社会では下層を引き上げようとする原理も存在していました。
 たとえば、渡辺尚志氏の『百姓の力』2)によれば、江戸時代の村落共同体には次のような社会的弱者への救済の仕組みがあったといいます。

 「村は、老人・病人・孤児・寡婦など、社会的弱者・困窮者に対する保護・救済機能をもっていました。疾病・傷害・老齢などにより村人の生活が困窮したときは、まず家族・親族が扶養します。しかし経済的理由などから、それだけでは扶養が困難という場合もあるでしょう。そのときは、同族団や五人組、さらには村が援助の手をさしのべました。さまざまな地縁的・血縁的集団が、相互に補完し合いながら相互扶助を実現していたのです」(『百姓の力』132頁)

 五人組は、年貢の連帯責任や犯罪の相互防止を目的として設定された組織でしたが、このように相互扶助組織としても機能していました。援助の方法は、具体的には村が住居や仕事の世話をしたり、村の有力者が困窮者に金品を与えることもあったといいます(同132頁)。

 

困窮者救済のための金融組織まで存在した

 さらに、救済のための相互金融組織までが存在していました。

 「困窮者救済のために、無尽(むじん)や頼母子(たのもし)(講)がつくられることもありました。無尽と頼母子はほぼ同様のもので、発起人(親)が参加者(出資者)を募って組合(講)をつくる、相互金融組織です。参加者は定期的に一定額の掛け金を出し、メンバーはくじ引きなどによって順番に、掛け金の額相応の金品を受けとっていくというかたちです。困窮者救済を目的とする無尽・頼母子の場合は、最初に困窮者が金を受け取ることに決めておきます。困窮者はその金で、経営の立て直しを図ることができたのです」(『百姓の力』132-133頁)

 無尽講あるいは頼母子講は、鎌倉時代に登場し、江戸時代になると大衆的な金融手段として確立して行きました。くじに当たった者(順番に全員が当たった)が掛け金相応の金品を受けとることもあれば、総取りする形態のものもありました。

 救済目的で行われる場合では、困窮した者が、参加者から出資された金品をまとまった額として受けとることができました。この場合は、出資した金品が帰ってこない者も出ますが、明日は自分が困窮する立場になるかも知れません。この意味で無尽講や頼母子講は、まさに「情けは人のためならず」を地で行くような救済システムでした。

 

 以上は、江戸時代の村落共同体の秩序を保つために作られた仕組みです。日本社会の共同体一般には、社会的弱者や困窮者を救済するためのこのような機能が存在していました。そこには共同体の弱者を救済し、共同体の成員をなるべく均質化し、平等性を保とうとする力動が働いていたのです。

 

戦後の日本に復活した日本文化

 もう一つの例を見てみましょう。それは、戦後の復興に日本社会全体が向かっていた時代です。

 独立回復後の日本は、経済的な復興へと邁進しました。復興の過程で、日本文化もまた徐々に復活を遂げました。日本経済は自由主義陣営の中にあって資本主義体制を採っていますが、その内実はきわめて日本的な要素の濃いものでした。
 たとえば、日本の会社の特徴として、終身雇用制と年功序列制が挙げられます。これら制度は、日本の会社が利益を追求する目的だけでなく、生活共同体としての役割を担う存在になっていることを示しています。日本の会社は、労働者が労働力を提供し、その対価として給与を得るためだけの場所ではなくなり、社員の人生そのものをまるごと支える共同体になったのです。
 戦後の日本で重工業が発展し、会社への就業人口が増加するにつれ、この傾向は強くなって行きました。戦前の村落共同体に見られた日本社会の特徴、すなわち何よりも和を重視しながら、支え合い協力し合って農業などの就労に従事する生活態度が、そのままの形で会社に持ち込まれました。

 農村で農民が協力して一所を懸命に耕したように、会社では全社員が協力して一生を懸命に会社のために尽くしました。そこに敗戦と占領への屈辱感を晴らし、自尊心を取り戻したいという欲求が加わって、戦後の日本人は脇目もふらずに働いたのでした。こうした労働に対する態度が、日本の資本主義を発展させるエートス(倫理的、社会的に形成された行動様式)になったのだと考えられます。

 

社会に行き渡った村落共同体のルール

 このようなエートスが発揮されたのは、なにも企業に限ったことではありません。農村や地域共同体のみならず、公務員の働く官庁や医療・教育現場、そして政治の世界に至るまで、様々な領域において村落共同体に擬した共同体が形成されました。新たな共同体の内部では伝統的な共同体に擬したルール(掟)が形成され、人々はそのルールに従って生活を送るようになりました。

 日本に「護送船団方式」や「談合」といったおよそ自由主義的ではないルールが現れ、多くの「天下り団体」が出現したのはそのためです。また、日本の政治が民主主義の原理によらずに「永田町の論理」で動いたのも、永田町が一つの共同体になったからでした。こうして戦後の日本には、伝統的な地域共同体のルールを踏襲した、いくつもの新しい共同体が生まれました。そのため、英米式の国家形態を採りながらも、日本の伝統に基づいた、日本式の自由主義や民主主義、そして日本式の資本主義が形成されていったのです。

 

村落共同体にみられる平等性

 こうして日本社会に、村落共同体に擬したいくつもの共同代が形成されました。これらの共同体では、江戸時代の村落共同体にみられたように、相互扶助が行われ、弱者の救済が目指されました。また、「村八分」になりさえしなければ、共同体の中で権利が保障され、自由に振舞うことができました。

 一方で、富や権力が個人に集中しないような工夫もなされました。たとえば、賃金は勤労年数で一律に増え、管理職の賃金は欧米社会に比して低く抑えられました。昇進は、能力よりも年功序列が重視されました。勤続年数で昇進するのであれば、誰もが年齢によって昇進できる可能性が生まれます。

 こうして日本の社会では、富めるものと貧しいもの、権力を持つ者と支配される者の差が少なくなり、社会はより平等になりました。バブル景気に至る前の日本では、社会の平等性はいっそう進み、「一億総中流社会」などと呼ばれました。当時は、「共産主義の目指す平等な社会が、世界で唯一実現されたのが日本である」と言われたほどでした。

 

 では、なぜ日本には、このような平等な社会が実現したのでしょうか。そこには和の文化と共に、天皇の存在が大きく関わっていると考えられます。

 この点については、次回以降のブログで検討しましょう。(続く)

  

 

文献

1)渡辺京二:逝きし世の面影.平凡社,東京,2005.
2)渡辺尚志:百姓の力 江戸時代から見える日本.柏書房,東京,2008.