皇室の伝統はなぜ変えてはいけないのか(2)

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 前回のブログでは、1万年以上に渡って戦いから遠ざかっていた縄文人と、戦争の文化を持ち込んだ弥生人は、日本列島では戦うことなく、山間部と平野で棲み分けるという方法を採って共生したことを検討しました。

 さらに棲み分けは混血へと進み、現在の日本人は縄文人弥生人の遺伝子を共に有するように変化してきました。この棲み分けから混血へと至る経過の中で、日本には和の文化が形成されて行きます。

 今回のブログでは、日本列島の中で、和の文化が生まれた経緯を検討してみることにしましょう。

 

武力に重きを置かない文化

 日本列島が、戦いに敗れ、戦いから逃れた人たちの終着点であったとしたら、ここに定住した集団はどのような文化を築くことになるでしょうか。

 弥生時代には大陸や半島から戦争の文化がもたらされ、それに伴って西日本の至るところで戦いが起こり、戦乱が繰り返されました。これほど短期間に戦争の文化が広まったのは、同時期に大陸や半島ではさらに激しい戦いが常態化していたからだと考えられます。当時の倭の国々は、鉄などの交易の必要性から大陸や半島と積極的に交流していました。そのため、東アジアで勃発していた戦乱の波に組み込まれ、否応なしに戦いを行わざるを得ない状況にありました。
 しかし、倭国の社会を支配していた行動様式は、すでに大陸とはかなり異なったものになっていました。大陸での社会を支配するのは、まさに弱肉強食の原理です。戦争で相手を滅ぼし、最後に勝ち残った者が社会を支配します。たとえば中国には、天から与えられた徳を有する統治者が、その徳をもって人民を治めるべきだとする徳治主義という思想がありますが、中国では未だかつて、戦い以外の方法で王朝が交代した例はありません。
 これに対して、倭国では戦争では国々を統一できず、「鬼道(きどう)を事とし、能(よ)く衆を惑(まど)はす」とされた卑弥呼が女王に立つことによって国々がまとめられました。つまり邪馬台国連合は、武力の優劣ではなく、鬼道という呪術よってまとめられた一種の宗教連合体でした。
 このことは、倭国の国々が戦いでは優劣がつけられないほど力が均衡していた(または、相手国を倒せるほどの武力がなかった)可能性もありますが、むしろ当時の人々が、武力に最も重要な価値を置いていなかったことを現しているのではないでしょうか。

 

日本列島に現れた巨大古墳群

 3世紀中頃から7世紀までに、西日本の各地に前方後円墳を中心とした大規模な古墳群が現れました。

 出現期の前方後円墳として最大の規模をもつのが、今回のブログで最初に述べた奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳で、墳丘長はすでに280mもあります。大規模な古墳は大和地方(奈良県)だけでなく、岡山市の浦間茶臼山(うらまだちゃうすやま)古墳(墳丘長138m)など吉備地方(岡山県広島県東部)や、福岡県苅田(かんだ)町の石塚山(いしづかやま)古墳(墳丘長120m)など豊前(ぶぜん)(福岡県東部)にもみられます。
 前期(3世紀中旬~4世紀後半)で最大の古墳は、奈良県天理市の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(現、景行天皇陵、墳丘長310m)であり、瀬戸内でも100mを超える古墳が現れます。加えて、それまで前方後円墳が築かれなかった山陰、丹後、北陸、東日本にも墳丘長が100mを優に超える古墳が出現するようになります。
 中期(4世紀末~5世紀後半)で最大のものは大阪府堺市の大仙陵(だいせんりょう)古墳(現、仁徳天皇陵、墳丘長486m)であり、これが日本列島で最大の古墳です。中期には他の地方でも巨大古墳が造られており、岡山県岡山市の造山(つくりやま)古墳(墳丘長360m)、同総社市の作山(つくりやま)古墳(墳丘長286m)や、他にも宮崎県南部、丹後地方、さらに群馬県にも大規模な前方後円墳が現れています。

 なぜ日本列島には、このような巨大な古墳群が現れたのでしょうか。

 

巨大古墳群の意味するもの

 考古学者の都出比呂志(つでひろし)氏は、前方後円墳の出現意義を、各地の首長同士を序列づけ、その政治的身分を古墳の形式と規模によって表現したことに求めています。そして、このような前方後円墳に象徴される大和を中心とした政治的秩序を、「前方後円墳体制」と呼んでいます(『前方後円墳と社会』1)49-88、353-357頁)。

 当時の社会では、各首長間には階級的、身分的ヒエラルキーが存在しており、首長が亡くなった際に、彼らの階級に見合った規模の前方後円墳が造営されたのだと理解されています。

 しかし、わたしは、この順序は逆だったのではないかと考えています。つまり、各首長間の階級的、身分的なヒエラルキーがまだ完全には決っていない状態で前方後円墳は造られ、その後に古墳の大きさによって最終的にヒエラルキーの位置づけが決定されたのではないでしょうか。そのように考えないと、古墳がなぜあれほど巨大化したのかという説明がつかないからです。より上位の階級を獲得するために規模を競ったからこそ、前方後円墳は、他の東アジアの地域では見られないほど巨大化したのではないでしょうか。

 そして、古墳による序列化を図ることは、各首長間での無用な戦闘を避けるという目的も含まれていました。

 4世紀の後半から5世紀にかけて、朝鮮半島では要塞としての山城が発達しました。しかし、同時期の日本列島に、山城をはじめとした要塞の類は築かれませんでした。それは古墳時代の列島では、山城を必要とするような各首長間の緊張関係が存在せず、また実際に本格的な戦闘も行われなかったからです。日本では山城という実際的な防衛施設は造られず、代わりに古墳を基準にした序列化によって、戦争が起こることを防いでいたのです。(以上の詳細は、2018年3月のブログ『日本の古墳はなぜ巨大化したのか』をご参照ください)。

 日本にはこのように、戦いを避けながら社会をまとめようとする文化が、古代から脈々と受け継がれていました。

 

和の文化の始まり

 和の文化の登場は、推古朝で制定されたとされる十七条憲法に始まります。その冒頭には、「和を以て貴(たっと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)と為(せ)よ」と記されています。これは、「和を何よりも大切にし、敵対しないことを根本にしなさい」という意味でです。つまり、和が最も重要なものであることに加えて、敵対しないため、さらに言えば争いや戦いを起こさないための方法としての和の重要性が説かれています。
 聖徳太子厩戸王(うまやどおう))が創ったと言われる十七条憲法のこの一文は、その後の日本文化の根底を形作ったといっても過言ではないでしょう。この後に日本社会は和を尊重する文化を育み、日本人は何よりも和を優先する行動規範を持つ民族になっていったからです。

 

和の文化が成立した背景

 飛鳥時代は、権力闘争が熾烈を極め、権力者の殺害が横行した時代でした。謀殺によって権力者が交代し、物部氏から蘇我氏へと支配者が移り、最終的に権力を握ったのが藤原氏でした。藤原不比等は、藤原家の栄華を長く続けるためにも、戦いによる血なまぐさい権力闘争に終止符を打ちたかったのではないかと考えられます。そこで不比等は、生前に「和」の重要性を唱えていた厩戸王に目を付けました。
 当時には、厩戸王蘇我馬子とともに完成させた『国記』や『天皇記』がまだ残されていた可能性がありますし、厩戸王の伝承が直接伝えられていた可能性もあります。藤原不比等らは、こうした記録や伝承をもとに、聖人伝説を創り上げました。ちなみに、藤原不比等が歴史の中から厩戸王を見いだし、聖徳太子として信仰の対象にまで高めた経緯は、パウロが歴史の中からイエスを見いだし、キリストという救世主にまで高めた経緯に喩えられるでしょう。

 

聖徳太子信仰の拡大
 藤原家や貴族の間に広まった聖徳太子信仰は、さらに一般庶民へと拡大しました。その経緯には、聖徳太子の玄孫と称した天台宗の開祖最澄、そして天台系の流れをくむ親鸞、一遍、日蓮といった鎌倉仏教の宗祖たちが、聖徳太子信仰を広めたことが大きく影響しています。
 しかし、重要なのは、なぜ宗祖たちが聖徳太子信仰を受け入れ、さらに一般庶民も同様に聖徳太子を信仰したのかということにあります。それは、聖徳太子が定義した和の規範が、日本人の無意識に伝承されてきた記憶、すなわち戦いを避けながら社会をまとめてきた記憶に合致し、日本文化を規定して社会の方向を定める役割を果たしたからです。この点が欠けていれば、誰がどのように旗振りをしたとしても、聖徳太子信仰が社会の中で広まることはなかったでしょう。

  こうして広まった聖徳太子信仰と共に、和の文化は日本社会の根底を支える根本原理となっていったのです。(以上の詳細は、2018年3月のブログ『聖徳太子は実在したのか』をご参照ください)。

 

 では、こうして成立した和の文化と、天皇とはどのような関係にあるのでしょうか。次回以降のブログで検討したいと思います。(続く) 

 

 

文献
1)都出比呂志:前方後円墳と社会.塙書房,東京,2005.