人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(19)

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 前回のブログで、家族間に伝承される虐待の負のサイクルをを絶つためには、無意識に抑圧される「親から愛されてこなかった」記憶を、意識化する必要があることを指摘しました。そして、虐待の悲惨な記憶を呼び覚まし、それを現実のもとして認めるためには、家族に代わる人たちの支えと援助が不可欠でした。

 今回のブログでは、NHKで放送されたミッドナイトドキュメンタリー『長屋家族』をもとに、子育てを支えた人たちの心理に踏み込んで、さらに虐待の問題を検討してみたいと思います。

 

助け合う人たち

 大阪の古い長屋で子育てをする櫨畑敦子(はじはたあつこ)さんは、長屋の人たちと助け合い、支え合って生活しています。子育てにおいても、長屋の人たちの多くが協力し、櫨畑さんと子どもの光(ひかり)ちゃんを支えていました。

 しかし、櫨畑さんと長屋の人たちとの関係は、一方的に依存するような関係ではありません。お互いが自立して生活し、その上で助け合い、支え合っています。櫨畑さんの子育てを助けている人たちも、光ちゃんの世話をしながら、実は自分が救われている側面があるのです。

 そのことを、以下で検証してみましょう。

 

こころに空いた穴を埋める

 長屋に住む藤田健一さんは、櫨畑さんから子育てを手伝ってもらえないかと頼まれ、週に3回光ちゃんをあずかっています。食事を作って食べさせ、おむつを替え、お風呂に入れてくれる藤田さんに、光ちゃんは今ではすっかりなついています。藤田さんは光ちゃんの子育てをすることで、光ちゃんと櫨畑さんを助けていますが、一方で藤田さんも子育てをすることで救われた面があります。
 実は藤田さんには、忘れられない辛い出来事がありました。9年前に、唯一こころを許せた友人が自殺してしまったのです。藤田さんは、何を思って生きて行ったらいいのかわからなくなりました。でも、光ちゃんをあずかって一緒に過ごすうちに、気がつけば前を向けるようになっていたといいます。「こころの溝みたいな、穴みたいものが埋まった。自分も生きていようと思えるようになった」と藤田さんは話しています。

 藤田さんは子育てをすることで、なぜこころの溝や穴が埋まり、前向きになることができたのでしょうか。

 

未来に向かって生きる

 当初はまったくなついてくれなかった光ちゃんでしたが、世話を重ねるうちに藤田さんは、「なんとなく泣き方でもどういう泣き方か、眠たいのか、これはいやとか、なんとなく分かってきた」と言います。そして、一緒の時間を過ごすうちに「光さんは成長していく感じが、未来に向かっている感じがいいな」と感じるようになり、「自分も生きていようと思えるようになった」と語っています。

 藤田さんは子育てをするうちに、光ちゃんとこころが通じるようになりました。そして、光ちゃんが未来に向かって成長する時間を、子育てを通して一緒に経験することができました。この経験が、友人の自殺によって過去に縛られていた藤田さんのこころを解きほぐし、藤田さんが前を向いて生きようと思うための力になりました。つまり、光ちゃんの世話をするなかで、藤田さんは光ちゃんから生きる勇気を与えられたのです。

 

流産で子どもを失った女性

 梅山真由美さんは結婚したものの子宝に恵まれず、6年後に不妊治療を行ってようやく妊娠しました。しかし、願いは叶わず流産しました。その後 長屋で櫨畑さんに出会い、彼女の出産までの生活を支えました。ところが光ちゃんが生まれたとき、梅山さんは光ちゃんを抱くことができませんでした。「小さくて、壊れそうだったから」と梅山さんは語ります。
 梅山さんは週に1,2回櫨畑さんの家を訪ね、料理を作って来ては一緒に食べています。一緒の時間を過ごすことで、梅山さんなりに光ちゃんの成長を見守っ行こうとしました。

 櫨畑さんが二人目の子どもを妊娠したとき、梅山さんは今度こそ赤ちゃんを抱きたいと願っていました。その願い通り、生まれたばかりのみち君を、梅山さんは抱っこすることができました。そして、梅山さんは光ちゃんの送り迎えをするようになって、二人の距離は少し近くなりました。

 ここでも子育てを手伝う過程で、梅山さんの傷ついたこころが癒されて行く様子を見て取ることができます。

 

見守ることで安心感をもらう

 梅山さんが光ちゃんを抱っこできなかったのには、彼女の過去の体験が影響を与えているのでしょう。不妊治療を行ってようやく妊娠した子どもを、流産したことです。彼女自身が傷ついたのはもちろん、身ごもった子どもを死なせてしまった、自分が守ってあげられなかったという後悔があったかもしれません。光ちゃんが生まれたとき、「小さくて壊れそう」と感じて抱っこできなかったのは、そのためだったのではないでしょうか。

 梅山さんは、光ちゃんの子育てに直接関わることができず、週に1,2回料理を作って櫨畑さんの家を訪ねました。そして、一緒の時間を過ごすことで光ちゃんの成長を見守りました。光ちゃんの成長を傍らで見ることで、梅山さんは「日に日に変化していくのが近くで見られて面白いなあと思って、子どもって」と語っています。

 光ちゃんとの時間を共有することで、梅山さんには子どもが生きて、日々変化し、成長する過程を目の当たりにすることができました。それは梅山さんに安心感を与え、過去のつらい体験から彼女を解き放つ役割を果たしたのだと思われます。

 この安心感が、梅山さんの子どもへの距離感を縮めました。梅山さんは生まれたばかりのみち君を抱っこすることができただけでなく、光ちゃんの送り迎えをすることもできるようになったのです。

 

子育てがこころの穴を埋める

 以前のブログで、赤ちゃんがお母さんと離れる時間が多くなると、赤ちゃんの精神世界の中では、お母さんとの間に時間的にも空間的にも何も存在しない空虚な間隙が出現することを検討しました。そして、この空虚な間隙をその後も埋めることができないと、「こころの中にぽっかり穴が空いている」状態が生じることを指摘しました。

 先に述べたように、藤田さんは子育てをするうちに、光ちゃんとこころが通じるようになりました。そして、光ちゃんが未来に向かって成長する時間を、子育てを通して一緒に経験することができました。その結果、藤田さんは「こころの溝みたいな、穴みたいものが埋まった」と語っています。

 子育ては、子どものこころを育てる一方で、子どもを育てる側の大人のこころの傷を癒したり、「こころに空いた穴」を埋めることができるのです。

 それは、どうしてでしょうか。

 

人のためになっていると思えること

 人は、人のためになっていると思えたときに、こころが満たされたり、自分が存在してもいいと感じることができます。子育ては、人のためになることの究極の行為だと言えるでしょう。

 それではまず、こころが満たされることの意義について考えてみましょう。

 こころが満たされると感じることで、「こころに空いた穴」は徐々に埋められて行きます。そもそも「こころに穴が空く」のは、お母さん(やその代替者)と子どもの関係が希薄になっていたからでした。対人関係で生じた「こころの穴」は、本来は対人関係でしか埋まりません。子育ては、満たされなかった乳幼児期の対人関係を、立場を替えてやり直す試みでもあると言えるでしょう。

 「こころに空いた穴」を子育てで埋めることができれば、育てられる子どもも「こころの穴」を作ることが少なくなります。その子どもが親になったときには、さらに自分の子どもに「こころの穴」を作らなくなります。

 この親子間の良い循環をウィニコットのシェーマに倣って示すと、以下のようになります。

 

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 この 良循環が続けば、親子はより理解し合えるようになり、子どもを人として理解できないような虐待は姿を消して行くでしょう。

 

子育ては自我の支えになる

 次に、人のためになっていると思えたときに、自分が存在してもいいと感じることができる意義についても考えてみましょう。

 自分が存在していいと感じることは、自己肯定感を増すことであり、それは取りも直さず自我を支えることに繋がります。つまり、子育てをすることによって、それが子どもの成長のためになっていると感じることは、自らの自我を支えることにもなっています。

 人の自我は、最初は他者の支えによって成立します。そのため、子どもの自我を支えるのは、「一切の条件なく、他者から自分の存在を認められる」ことになります。これに対して、大人の自我を支えるのは、「人のためになっていると思える」ことです。そう考えると、子育ては、親子がお互いの自我を支えあう行為であると捉えることができるのです。

 

 以上で述べてきたように、子育てが虐待に繋がったり、子殺しに至ってしまう一方で、子育てはお互いのこころを癒し、お互いの自我を支えあう行為にもなります。

  『長屋家族』の物語は、子育てが虐待や子殺しから脱却するためのヒントをわたしたちに与えてくれました。ただし、そこで行われている子育ては、決して目新しいものではありません。むしろ近代化以前の日本では、当たり前に行われていたことでした。

 次回のブログでは、江戸時代の子育ての様子を述べて、このテーマのまとめにしたいと思います。(続く)