人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(16)

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 前回のブログでは、親の無意識の行動が、子の無意識に伝承されるという側面から「厚木市幼児餓死白骨化事件」と「厚木市幼児餓死白骨化事件」について検討してきました。今回のブログでは、「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」についても、同様の側面から検討してみたいと思います。

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「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」の家族で伝承されたものーその①

 夫婦が3歳の次男をウサギ用ケージに監禁したうえ、騒ぐ子どもにタオルを咥えさせて窒息死させた「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」の皆川忍は、母親から大きな影響を受けました。忍を幼いころからよく知る人物は、「忍君はその母親をコピーしたのかって思うぐらいそっくりな人間なんですよ」(『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』1)197頁)と語っています。

 忍の母親は、夜の町で奔放な生活を送り、キャバレーでホステスとして働きました。彼女は2人の男性との間に5人の子どもをもうけましたが、すべて出産直後に乳児院にあずけて、一切の養育を放棄しました。

 彼女は子どもが児童養護施設から一時帰宅しても相手をしようともせず、子どもたちが学園からもらった小遣いを巻き上げ、自分の遊びに使いました。彼女は、子どもたちを“金のなる木”としか見ていませんでした。
 彼女は子どものうちで、忍だけを唯一かわいがりました。しかし、その仕方は子どもに対してのものではなく、夜の町を連れ歩いて明け方まで飲み歩いたり、恋人に引きあわせたりしました。そして数日一緒に過ごすと、まるでおもちゃに飽きたかのように態度を豹変させ、忍を施設に追い返しました。

 中学を卒業すると、忍は母親に引き取られました。しかし、彼女はソープランドで働き、男との関係も忍にひけらかしました。帰ってくるのは毎日深夜で、弁当どころか食事もろくに作ってもらえませんでした。

 忍の母親は、子どもをどのように捉えていたのでしょうか。彼女は子どもたちを“金のなる木”と認識していました。唯一かわいがられた忍でさえ、一緒に飲み歩く友人のように扱われていました。しかし、数日一緒に過ごすと、まるでおもちゃに飽きたかのように、忍を施設に追い返しました。このように彼女は、自分の子どもを子どもとして捉えていないのはもちろん、個性ある人間としてではなく、まるでペットのように扱っていたのだと言えるでしょう。

 忍も自分の子どもたちに、同様の態度で接しました。次々と子どもを作ったのは、生活保護費を増やすためでした。次男が家の中を散らかして暴れたため、ウサギ用ケージに入れました。次女が言うことを聞かなかったときは、犬用の首輪でつないで殴りました。次男が何度注意しても叫ぶのをやめないときには、口にタオルをくわえさせて頭の後ろで縛りました。そのことが原因で次男が窒息死した後には、バレないように遺体を棄てました。

 こうした行為は、自らの子どもに対する行為とは言えないのはもちろん、子どもを一人の人間としてではなく、まるでペットのように扱っていたのだと言えるでしょう。

 

「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」の家族で伝承されたものーその②

 皆川忍の妻、朋美の家庭で伝承されたものは、何だったのでしょうか。

 朋美の母親は、幼いころから素行が悪く、行く先々で問題を起こすような子どもでした。彼女はホステスとして働くようになり、ホストとの間に朋美ともう一人子どもをもうけて結婚しましたが、一緒に暮らすこともないまま1年余りで離婚しました。離婚後すぐに別の男性と結婚し、3人の子どもをもうけました。

 彼女は粗暴な性格からどこでも誰かと衝突してしまい、同じところにいられなくなって5回も住む場所を替えたといいます。

 朋美が都立の単位制高校に進学したころ、母親が莫大な借金を作っていたことが露呈し、夫から離婚されました。

 こうした母親の行動は、朋美に次のように伝承されました。

 一つはホステスという職業に就き、ホストの男性と結婚したことです。自分の職業と結婚相手の職業が母親と同じであったことは、偶然とは言えないでしょう。

 もう一つは、“素行”の問題です。母親は幼いころから素行が悪く、行く先々で問題を起こすような子どもでした。そして、粗暴な性格からどこでも誰かと衝突してしまい、同じところにいられなくなって5回も住む場所を替えたといいます。

 素行の悪さの内容や、粗暴な性格からどのような衝突を起こしたかは本には書かれていませんが、こうした行為は、朋美の中で具体的な問題行動になって現れます。

 朋美は高校2年生ときに、付き合っていた先輩に妊娠したと嘘をついて中絶費用をだまし取る事件を起こします。結婚後仕事をやめ、生活保護を受けて児童手当や子育て世帯臨時特別給付金によって生活するようになったことは、仕事をせずに金を手にする方法を見つけ出したと捉えられるでしょう。さらに、朋美は精神疾患で障害者2級と診断されていたようですが、近所の人や、忍と朋美の母親の証言によると、詐病の疑いが強いと考えられます。

 このように朋美の母親の素行の悪さは、朋美には犯罪や犯罪に類する行為として伝承されました。そして、それはさらに、自らの子どもの虐待、殺人、死体遺棄へと連なっていったのだと思われます。

 

わが子を人間として認識できない

 それにしても、なぜ虐待は、倫を超えて時に殺人にまで至ってしまうのでしょうか。そして、わが子を殺してしまった親たちが一様に、「愛していたけど、殺してしまいました」と述べるのはどうしてでしょうか。
 人の社会には、秩序を守るために殺人のタブーが存在しています。このタブーによって、激しい憎しみを感じても、通常は相手を殺してしまうことはありません。ましてや愛している子どもを殺すことなど、想像することすらできないはずです。
 しかし、もし親が子どもを殺害できるとしたら、それは子どもを人として認識していないからでしょう。人でないと認識すれば、意識の上では殺人のタブーには触れないからです。
 夫婦が5歳の子をアパートに放置し、死に至らしめたうえ7年間も放置していた「厚木市幼児餓死白骨化事件」では、妻の知人は次のように述べています。

 「私、愛美佳と齋藤君は子供を産んじゃいけない夫婦だったて思っているんです。あの二人はハア?って思うぐらい未熟で、傍で見ていても、『本当にご飯つくって食べさせてあげられるの?』とか『オムツ取り換えてあげられるの?』っていうレベルなんですよ。齋藤君とかボーッとしてるだけでなにも考えてないし、愛美佳は初めはがんばろうとして途中でダメになっちゃった。
 普通だったらそれでも親としての最低の責任感みたいなのがあって、実家とか行政に相談して子供だけは何とかしようとするじゃないですか。でも、あの二人は子供がクワガタの飼育をやめるみたいに投げ出しちゃったんです」(『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』66‐67頁)

 

 齋藤と妻は、子育てを「クワガタの飼育」のように捉えていました。そのため「クワガタ」を愛して、「クワガタの飼育」のように熱中できるときもあれば、自分たちの事情で飼育を投げ出してしまうことも可能だったわけです。

 また、夫婦が3歳の次男をウサギ用ケージに監禁したうえ、騒ぐ子どもにタオルを咥えさせて窒息死させた「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待死事件」 では、ウサギ用のケージに監禁すること自体が、子どもをペットと同じレベルで認識していたことを示しています。2歳の次女が犬の首輪で拘束されていたことも、それを裏づけています。先に検討したように、子どもをペットと同じレベルで認識していたのは、被害者の祖母の代から始まっており、それは被害者の父親にも伝承されていました。
 周囲に隠して二度にわたって出産したうえ、嬰児の遺体を天井裏や押し入れに隠した「下田市嬰児連続殺害事件」では、生まれたばかりの子どもは、人として認識されていなかったのだと思われます。だからこそ、出産した子どもを発泡スチロールの箱や衣装ケースに入れ、自宅の天井裏や押し入れに隠すことができたのです。
 このように、親たちは自らの子どもを、ペットやものと同じレベルで認識し、そしてペットやものとして愛していました。そして、自分たちの都合で、ペットやものとして棄て去ることもできました。

 このように彼らは、子どもをペットやものとしか認識していなかったために、「愛していながら殺してしまう」ことが可能だったと考えられます。

 

子どもを子どもとして理解できない
 では、なぜ彼らは、子どもを子どもとして認識できなのでしょうか。

 以前のブログで、赤ちゃんがお母さんと離れる時間が多くなると、赤ちゃんの精神世界の中では、お母さんとの間に時間的にも空間的にも何も存在しない空虚な間隙が出現することを指摘しました。そして、この精神世界の空虚な間隙を埋めることができないと、「心の中にぽっかり穴が空いている」状態が生じることを検討しました。

 これをウィニコットのシェーマで捉えると、次のようになります。

 

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          図1              図2

 

  図1は、子どものこころの中に、空虚な間隙が残ったままの状態を現わしています。この状態では慢性的な不安感、空虚感が持続するだけでなく、母親を中心とした対象世界と、相互のコミュニケーションを充分に取ることができません。そこでこの間隙を埋めるために、趣味や遊び、理想の他者、宗教や哲学や芸術、さらには依存や強迫や妄想に没入するといったさまざまな手段がとられます。それでもこの空虚な間隙は埋められるとは限らず、こころの中にぽっかりと空いた穴は、常に見え隠れしています。
 図2は、こうした精神世界を持ったまま成長し、自らが親の立場になった場合を示しています。こころの中に空虚な間隙が存在したままの親は、子どもと相互のコミュニケーションを充分に取ることができません。コミュニケーションが取れなければ、相手を理解することはできません。その結果として、自分の子どもを子どもとして、そして個性をもつ人間として理解できなくなることが起こります。

 次の世代になると、こころの空虚な間隙は、さらに大きくなって顕在化することが起こります。この関係を示したのが、次のシェーマです。

 

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 世代が進むにつれ、こころにぽっかりと空いた穴は大きくなり、親子間のコミュニケーションは困難になり、人間的な交流は失われていきます。わが子を虐待し、殺してしまう事件は、こうして現実のものとなると考えられます。

 では、この負の連鎖を、どこかで断ち切ることはできないのでしょうか。次回以降のブログで検討したいと思います。(続く)

 

 

文献

1)石井光太:「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち.新潮社,東京,2016.