前回のブログでは、ウィニコットの提唱した移行対象の意味について検討してきました。
これはウィニコット自身が描いた、移行対象が現れることを説明したシェーマです。今回のブログでは、移行対象がどのように発展して行くかについて、このシェーマをもとに検討してみたいと思います。
霊長類と伝統的な子育て
上の図に従って当てはめてみると、霊長類の子育てと、伝統的な社会の人間の子育ては、以下のようになると考えられます。
図1 図2
図1は、霊長類の子育てを現わしています。霊長類の赤ちゃんは、いつもお母さんにしがみついています。赤ちゃんはいつでもお乳を飲むことができますし、お母さんとはいつも一緒にいて、その距離はほとんど存在していません。
図2は、伝統的な子育てを現わしています。人間の子育ては母子が離れることが特徴ですが、伝統的な子育てでは、母親だけでなく、祖父母や叔父叔母、年の離れた同胞や近隣の者までが育児に関わりました。さらに、お母さん同士で母乳を与えあっていたため、赤ちゃんと母親(またはその代替者)の距離は、時間的にも距離的にも非常に近かったと思われます。
近代的な子育てと「何も存在しない間隙」
ところが、近代的な子育てになると、主にお母さんが子育てをするようになります。子どもは一人で過ごし、お母さんとの関わりを持てない時間が多くなりました。こうして赤ちゃんは、お母さんとの間で、一人でいる時間と、一人でいる空間が生じることになります。赤ちゃんとお母さんは連続した一体の存在ではなくなりました。
その結果、赤ちゃんの精神世界の中では、お母さんとの間に、時間的にも空間的にも何も存在しない空虚な間隙が出現することになりました。
図3 図4
図3は、赤ちゃんが一人で過ごすことが多くなったため、赤ちゃんの精神世界の中に生じた、お母さんとの間に存在する空虚な間隙を現わしています。
この時間と空間の存在しない空虚な間隙を埋めるために、赤ちゃんは図4のように、お母さんの乳房は自分で創造したという錯覚(illusion)が必要になるのです。
空虚な間隙を埋めるための移行対象
赤ちゃんが成長してお母さんの存在を認識し始めると、この空虚な間隙は錯覚では埋めきれなくなり、お母さんの存在を連想させるものが必要になります。これが移行対象です。
図5 図6
図5にあるような、 赤ちゃんとお母さんの間に存在する空虚な時間と空間を埋めるために、図6のような移行対象の存在が必要になるのだと考えられます。
中間領域とは
ところで、ウィニコットのいう中間領域とは、赤ちゃんの精神世界の中に生じた、この空虚な間隙のことではないかとわたしは考えています。
ウィニコット自身は中間領域について、「原初的な創造性と現実検討に基づいた客観的知覚との間にあって、乳幼児に認められる領域である」と述べています。そして、この領域からやがて芸術や宗教や哲学が生まれる可能性を指摘するなど、中間領域の創造的な働きを強調しています。ここで述べたような、時間も空間も存在しない空虚な間隙に類するような記述はみられません。
しかし、乳幼児が現実的な知覚を利用しながら、わざわざ錯覚や移行対象を創造しなければならないのは、何らかの切羽詰まった事情があるからだとわたしは思います。その事情こそ、乳幼児の精神世界に生じてしまった空虚な間隙を、何らかの方法で早急に埋めなければならないことではないでしょうか。
自己と対象世界の間を埋めるもの
子どもが成長するにつれ、乳幼児期に創られた毛布やタオルケット、ぬいぐるみなどの移行対象では、お母さんとの間隙に存在する時間と空間を埋めることが難しくなって行きます。そこで子どもは、移行対象に代わる「新たな移行対象」を創らなければならなくなります。
子どもの成長に伴って、子どもと母親の関係は、自己と対象世界との関係に置き換えられます。その時に自己と対象世界の間に存在する空虚な時間と空間、つまり中間領域を埋めるために、移行対象に代わる存在が求められることになります。それは移行対象の性質を引き継いでおり、子どもの精神世界の中で、万能感を伴った錯覚と現実のものとで創られます。例えば、ごっこ遊びやヒーローもの遊び、本や音楽やゲームやスポーツに没頭することなどです。さらに、遊びを通じて、友人ができたり、好きな人ができたりします。
これらが創り上げられない場合は、相変わらずタオルケットやぬいぐるみに執着したり、想像上の仲間(imaginary companion ーこれは錯覚の延長線上で生まれます)が生じることもあります。
ここではこれらを、「児童期の移行対象」と呼ぶことにしましょう。
図7
図7のように、「児童期の移行対象」は、自己と対象世界の間に存在する間隙を埋め、自己と対象世界とを繋げ、自己と対象世界との関係を保つ働きをします。
青年期以降の中間領域を埋めるもの
青年期以降になると、自己と対象世界の間に存在する空虚な時間と空間、つまり中間領域はさらに大きくなって行きます。対象世界が広がり、一人でいる時間も増えるからです。
そこでこの領域を埋めるための「青年期以降の移行対象」が、青年の精神世界の中で、万能感を伴った錯覚と現実のものとで創り上げられます。
例えば、あらゆる切手を収集する趣味を持つ人がいますが、これは中間領域を「価値のある切手」で埋める試みであると言えるでしょう。これはブリキのおもちゃでも、人形でも服でも靴でも車でも同じことです。世界各地を旅行することで、この領域を埋めようとする人がいるかも知れません。また、中間領域をお金で埋めたり、資産で埋めようとすることもあるでしょう。一方で、理想の恋人や友人、芸能人やスポーツのスーパースターなどと繋がりを持つことで中間領域を埋めようとする人もいます。これらに共通する目的は、幼少期に経験した母親との満たされた一体感を再現するために、自己と世界の間隙を埋めることです。
以上の関係でウィニコットのシェーマに倣って示すと、以下の図8のようになります。
図8
この「青年期以降の移行対象」には、芸術や宗教、哲学や科学に発展して行くものもあると考えられます。近代以降に西洋文化が急速に発展した背景には、自己と対象世界の間で拡大した空虚な間隙を、なんとかして埋めようとする懸命な努力があったのだと考えられます。
こころの中に穴が空いている
しかし、青年期以降に拡大した中間領域を、「青年期以降の移行対象」では埋められない人がいます。この場合は、自己と対象世界の間に存在する空虚な時間と空間は、そのまま残されます。わたしたちが診療する患者さんの中には、「こころの中にぽっかりと穴が空いている」と訴える人がいますが、この訴えは、空虚な間隙がそのまま残されていることを端的に表現しているのでしょう。
「こころの中の穴」を、そのままにしておくことはできません。この状態が不安と恐怖を抱かせるだけでなく、この間隙のために対象世界との関りを持てなくなるからです。
この状態を現わしたのが、下の図9です。
図9
「こころに空いた穴」は、早急に埋められなければなりません。そこで、現実と関わる地道な努力は行われないまま、万能感を伴った錯覚によってこの間隙は埋めようとされます。これが、いわゆる病的な症状と呼ばれるものになります。
病的な症状の出現
例えば、「こころの穴を食べ物で埋める」ために過食を行う人がいます。アルコールや薬物でかりそめの万能感に浸ることによって、「こころの穴」を埋める人がいます。パソコンやスマホによって創り上げられる仮想空間によって、現実の対人関係から逃避したまま「こころの穴」を埋めようとする人もいます。「こころの穴」を理想の対象で埋めようとして、理想の人を追い続けたり、ストーカー行為に至る人もいるでしょう。これらのさまざまな依存行為はいずれも、「こころの穴」が埋められるような感覚を得るために行われています。それが錯覚に過ぎないのは、言うまでもありませんが。
一方、何度も手を洗うなどの洗浄強迫、何度もドアのカギを閉めたりガスの元栓を確認するなどの確認強迫を繰り返すことにも、「こころの穴」を埋める目的で行われます。「こころの穴」の存在は、何かが欠けている不安、何かが失われている不安を呼び起こします。手を完璧に洗う、確認を完璧に行うことは、欠けたもの、失われたものを完璧に埋め尽くそうとする試みです。強迫行為は、これらの不安を一瞬だけ緩和する効果があります。しかし、それはあくまで一瞬だけで終わってしまうため、強迫行為を延々と続けなければならないのです。
さらに、依存でも強迫でも「こころの穴」が埋められない場合は、現実と関わることを諦め、万能感を伴った錯覚だけでこの間隙を埋める試みがなされます。この試みによって生じるのが、統合失調症などに生じる誇大妄想であると考えられます。
さて、これまでに近代的な子育てによる子どもへの影響について検討してきましたが、次回のブログでは、いよいよ「人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか」という問題について検討したいと思います。(続く)
参考文献
・井原成男:ウィニコットと移行対象の発達心理学.福村出版,東京,2009.
・サイモン.A.クロールニック(野中 猛,渡辺智英夫 訳):ウィニコット著作集 別巻2 ウィニコット入門.岩崎学術出版社,東京,1998.
・館 直彦:ウィニコットを学ぶ ー対話することと創造することー .岩崎学術出版社,東京,2013.