人はなぜわが子を虐待し、殺してしまうのか(3)

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 前回のブログでは、人間の子育てでは、親子が離れ、子が仰向けで安定していられることが特徴であるという松沢哲郎氏の説を紹介しました。

 親子が離れることによって、赤ちゃんは泣いたり笑ったして親に自分の状態を伝える必要が生じ、それが後に言葉によるコミュニケーションが発達する元になりました。また、仰向けで寝ているために手を自由に動かすことができ、それが手を起用に使ったり道具を操るための基礎になりました。そして、親子が離れて子育てを行うことが、子を早く離乳をさせ、手のかかる子どもを同時に複数育てるという人間の子育てに繋がりました。

 さらに、伝統的な社会では、複数の母親が他人の赤ちゃんにも母乳を与え合って、部族全体で子育てを行うことも紹介しました。そのことによって子どもは、親子だけでなく、血縁者、近隣者などの多くの人の手によって育てられました。人間の子育ては、このように進化してきました。

 しかし、こうした子育てには負の側面も存在します。特に近代以降は、この負の側面が増大して行きました。今後のブログでは、人間の子育ての負の側面についても検討したいと思います。

 

近代化の影響

 伝統的な社会の子育ては、未開社会だけでなく、古代、中世の社会でも受け継がれました。もちろん各文化によって、子育ての方法には違いがあったでしょう。しかし、その基本的な構造、子育てには家族のみならず地域の人間が関わり、親子だけでなく、血縁者、近隣者などの多くの人の手によって子どもが育てられるという基本的な構造は受け継がれてきました。

 こうした子育ての構造に大きな影響を与えたのが、近代化でした。近代化を経た社会では、子育ては大きな変化を被りました。その影響を、近代化を最初に達成した西洋文化で概観してみましょう。

 

キリスト教社会の女性観

 西洋文化を検討するには、やはりキリスト教による影響を抜きに考えることはできません。旧約聖書には、最初の女性であるイヴは、アダムの肋骨から創られたと記されています。イヴは神の禁止を破って知恵の実を食べ、それをアダムに与えたために、二人は楽園から追放されることになりました。そのことから、イヴこそ人類を楽園から追放させた張本人であり、人類全体に苦悩をもたらした元凶だと考えられるようになりました。
 新約聖書の中では、聖パウロが、「女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです」(「コリント信徒への手紙一」11・7-9)と述べたり、「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」(「テモテへの手紙一」2・11-12)と述べています。彼は、女性はあくまでも男性のために存在するのであり、女性は男性に従うべきであると教えています。
 これらの典拠から、神の救いを得るためには、女性は劣った性だとみなされることになりました。

 

聖母マリア

 しかしながら、中世のヨーロッパ社会では、特に教会から離れた世俗においては、必ずしも男性中心の価値観が支配していたわけではありません。それは、キリスト教教会が、マリア信仰を取り入れたことに拠っています。慈愛と寛容と聖なる母性の精神を持つとされた聖母マリアによって、ヨーロッパの女性文化は支えられていたのです。
 しかし、本来一神教であるキリスト教において、イエスの母親であるマリアを信仰の対象にすることは、通常はあり得ないことです(ユダヤ教イスラム教では神以外の存在を信仰の対象にすることはなく、イスラム教ではイエスはもちろんのこと、ムハンマドでさえ明確に人間として記されています)。それを可能にした理由の一つは、布教上の必要性からでした。

 キリスト教会が布教を行ったのは、ゲルマン人ケルト人が住んでいる地域でした。彼らは元来自然崇拝の多神教を奉じており、それらの地域には母神信仰が根強く残っていました。彼らに、唯一の神を奉じさせること、さらには最後の審判によって永遠の生命と永遠の死を一方的に与える全能の神を信じさせることは容易ではありませんでした。

 そこで、キリスト教の伝道師たちは、マリア信仰を利用したのです。元来存在していた母神への崇拝をマリア信仰に置き換えることによって、キリスト教はヨーロッパ各地に広まって行きました。

 

聖母信仰に支えられた母性

 こうして生まれた聖母信仰は、12世紀以降に特にその重要性を増しました。この時期にはマリアを讃える詩が謳われ、マリアに捧げられた祈祷集が編まれ、マリアの彫刻や絵画が各地の教会に飾られました。マリアは、キリストの母であると同時にキリスト教信徒全体の母として崇拝されるようになりました。そして、罪の許しを請い、祈りを捧げられる対象となったマリアは、慈愛に満ちた聖母としての普遍的な地位を獲得するとともに、以前にも増して民衆の信仰の対象となりました。

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 母性や家族に対するこのような宗教的価値観の変化は、世俗の生活にも大きな影響を与えました。中世後期の世俗社会では、家庭生活重視の風潮が生まれました。家族は社会の最も基本的な単位となり、教育の場となりました。それに伴い、母親の家庭での権威と責任が再認識されました。中世後期からルネッサンスにかけて、家の中での、家族にとっての女性の精神的役割は、以前に比べて遙かに重要になりました。
 家庭は人々の感情的絆の拠り所となり、その中心にいたのが母親でした。そして、母親は、家庭において子どもに道徳的、知的、市民的教育を授ける教師でもありました。母親はミルクと共に子どもに最初のレッスンを授け、それが子どもの将来の全教育の礎になりました。女性は、核家族化した家を守り、子どもを教育し、夫を助ける母や妻としての役割を担いました。

 こうして、中世後期のヨーロッパ社会では、宗教的にも世俗社会においても母性が重要視され、その必要性が認識されるようになったのです。

 

宗教改革と聖母信仰の消失

 このような母性重視の価値観が覆されたのが、近代という時代でした。近代の幕開けと共に始まった宗教改革によって、聖母信仰に支えられた母性重視の文化は、大きな打撃を受けました。
 16世紀に始まる宗教改革は、キリスト教を厳格な一神教に生まれ変わらせるための改革運動でした。キリスト教に内包されてきた多神教的要素が批判の対象となり、意味を持たないものとして排斥されました。神の権能を分け持つ教皇を頂点に据えた教会制度は、腐敗と堕落の根源であると非難されました。同様に、非難の対象は神性を持つマリアにも向けられました。マリアを崇拝することは、マリアを神として認めることであり、本来の一神教にはあってはならない行為だからです。
 特にプロテスタントの予定説では、キリストの贖罪の死さえ、神があらかじめ予定していたものと考えられました。神の全能性は究極まで高められ、相対的にキリストが行った贖罪の役割は過小評価されることになりました。キリストの役割が小さくなると共に、教義におけるマリアの重要性が失われました。プロテスタントはマリア崇拝を禁止し、カトリックもこの時期には、マリア崇拝に対して厳しい態度を取るようになりました。マリア崇拝は、悪魔に仕える証拠だと考える者さえ現れました。
 このように、キリスト教が唯一、全能の神の存在を強調する宗教に生まれ変われること、つまり「息子」の宗教から「父」の宗教に回帰することによって、聖母信仰も消退していったのです。

 

近代化では神が殺害された

 宗教改革で蘇った唯一全能の神は、近代化の過程で「殺害」されることになりました。精神分析的に言えば、近代化とは、あまりに全能になった神に敵愾心を抱いた人々が、神を殺害して自らがその地位を奪い取った革命でした。それはフロイトが人類の最初期に想定した、すべての女性を支配した強大な父親を、息子たちが結託して殺害してしまったという物語の再現であり反復でした。
 近代化で神が殺害されることによって、宗教が中心の社会は科学が中心の社会に転換されました。科学史家の村上陽一郎氏は、この変化を「聖俗革命」と呼びました。村上氏は聖俗革命について、「『全知の存在者の心の中に』ある真理という考え方から、『人間の心の中に』ある真理という考え方の転換であり、『信仰』から『理性』へ、『教会』から『実験室』への転換である」(『近代科学と聖俗革命』1)21‐22頁)と述べています。

 神さえ顧みられなくなった社会では、聖母信仰はさらに消退したのでした。

 

 こうして近代の幕開けと共に、ヨーロッパ社会において、女性および母性を支える文化は決定的な打撃を被ることになりました。それは、母性という概念が、消滅の危機に瀕する事態に繋がりました。
 この事態は、深刻な現象になって現れました。18世紀のヨーロッパでは、母親が自らの子どもを育てず、出産後すぐに乳母のもとに里子に出す習慣が一般化するようになったのです。

 この内容については、次回のブログで詳しく述べることにしましょう。(続く)

 

 

文献

1)村上陽一郎:近代科学と聖俗革命〈新版〉.新曜社,東京,2002.