沖縄は琉球特別自治区になってしまうのか(3)

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 前回のブログでは、沖縄での市民運動は、「米軍基地反対」「日米安保反対」といった自らの思想を主張することが目的であること、さらに同じ考えを持つ市民運動家が集まって国家や米軍に立ち向かうという構図には、社会を改革しようというヒロイズム的要素が存在していることを指摘しました。つまり沖縄の基地反対運動は、彼らにとって「自己実現の場」になっているのでした。

 今回のブログでは、沖縄に全国から集まってくる市民運動家を、戦後日本の内的自己という側面から検討したいと思います。

 

大東亜戦争までの内的自己と外的自己

 ここで内的自己と外的自己について、再度振り返っておきましょう。

 岸田秀氏は、『ものぐさ精神分析1)において、R・D・レイン精神分裂病統合失調症)論をもとに、日本近代の精神分析を行っています。それによれば、ペリー・ショックによって日本は、外的自己と内的自己に分裂することになりました。外的自己は、自尊心を度外視し、もっぱら外的な現実に対処する自己です。一方内的自己は、外的な現実を遮断し、ひたすら自尊心だけを重視する自己です。圧倒的な力を持ったアメリカに開国を迫られた日本は、現実に対応する自己と自尊心を守る自己に分裂して、その場の危機を乗り越えるしかなかったのです。

 外的自己と内的自己の分裂は、まず開国論(外的自己)と尊王攘夷論(内的自己)との対立になって現れました。さらに屈辱的な開国を強制されたために、外的自己と内的自己の分裂は決定的になり、不安定になった内的自己を支えるために創られたのが、皇国史観という誇大妄想体系であったと岸田氏は指摘します。
 明治維新が成り、開国論(外的自己)と尊王攘夷論(内的自己)との抗争は、外的自己の勝利に終わりました。勝利した外的自己は明治政府を作り、政治機構から風俗習慣に至るまで急激な欧米化を推進します。不平等条約の改正を目指して、一方では富国強兵が叫ばれ、他方ではグロテスクなほど卑屈な鹿鳴館外交が展開されます。
 一方、敗れた内的自己は、社会の表層から姿を消し、社会の深層に潜行して行きました。深く潜行していた内的自己は、やがて長い時を経てついに爆発的に表層に現れます。それが、対米戦争でした。
 対米戦争によって、内的自己は解放されました。内的自己の解放によって、蓄積されていたアメリカへの憎悪は自由に表現されました。開戦とそれに続く緒戦の勝利は、日本国民の大半を高揚感と興奮の渦に巻き込みました。一方で外的自己は、徹底的に非自己化され、戦争に賛成しない者は文字通り非国民と呼ばれました。
 戦争が内的自己の発現によって行われたため、日本軍は現実感覚を欠いた作戦を繰り返して敗退を続けました。精神主義を貫いていたずらに兵士の命を失いましたが、バンザイ突撃と神風特攻はその典型的な例でした。さらに大東亜共栄圏は、内的自己が描いた幻想だったと岸田氏は指摘しています。(以上の経緯は、2018年7月の『朝日新聞はなぜ国益に反する報道を続けるのか(3)』で詳しく述べていますので、興味のある方はご参照ください)。

 

失われつつある戦前の内的自己

 日本はアメリカとの戦争で徹底的に叩きのめされ、戦後も占領政策を受けることになりました。そのために戦後日本の内的自己は、次の二つのタイプに分裂したとわたしは考えています。この二つのタイプの違いは、日本国憲法に対する態度で比較すると理解しやすくなります。

 まず、改憲を訴える内的自己です。この内的自己は、戦前の内的自己の特徴を踏襲しています。

 彼らは憲法九条を改正して、戦力を保持し、戦争を可能にすることを望みます。そして日米安保に反対して、日本は日本の軍隊で守ることを主張します。つまり、明治憲法に回帰することを主張するのであり、日本人及び日本国家はあくまで日本の軍隊が守ることを目指す立場になります。
 この立場は、日本は日本人の手で守ると主張する面では、日本人の自尊心を支えることができると思われますが、米軍の援助をなくして日本を守るためには莫大な費用が必要になるため、実際に実行するにはかなりの困難を伴います。また、アメリカがこのような内的自己の再出現を恐れて、戦後に徹底したWGIPウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を行ったため、現在ではほとんど目立たない存在になってしまいました。

 

戦後の歪んだ内的自己

 その一方で、護憲を訴える内的自己が存在します。

 日本は戦争で徹底的に叩きのめされ、戦後も占領政策を受けたため、戦後日本の内的自己は、アメリカに対して敵意を向けることができなくなりました。その敵意は、アメリカに追従している外的自己、つまり戦後の日本政治のほとんどを司ってきた自民党政府に向けられました。その結果、戦後日本の内的自己の多くは、内的自己でありながら日本政府に敵意を向けるという、非常に歪んだ形をとるようになりました。 

 彼らは、改憲を党是とする自民党に真っ向から反対します。つまり、護憲を主張する内的自己だといえます。

 その主張は次のようです。

憲法九条は世界に誇るべき平和憲法の条文である。日本人はこのような平和憲法を持っていることを誇りに思うべきである。このような世界に先駆けた先進的な憲法の条文は、ノーベル平和賞に値するものである。
・戦後70年以上にわたって日本に戦争がなかったのは、平和憲法を持っていたおかげである。平和憲法のおかげで、戦争を起こすことも戦争に巻き込まれることもなかったのである。
日米安保は日本を戦争に巻きこむものであるから反対であり、米軍基地は日本から撤退させるべきである。

 内的自己としての護憲派は、平和を徹底的に追求し、平和を維持するために戦争をできなくする憲法を追求します。さらに戦争を起こす可能性のあるもの、戦力や軍隊や基地などすべてのものを排除しようとします。つまり、平和を追求することに最も重要な価値を置き、平和を実現するために、戦争を起こす可能性のあるものをすべて排除するという立場をとります。
 彼らの主張は、平和を追求する立場として純化され、美化されています。その一方で、未だ弱肉強食がまかり通る世界情勢のなかでは、現実から遊離して非現実的な主張になっています。さらに、戦争に関連するものをすべて排除すれば平和が実現されると考える思考は、現実の世界情勢をまったく考慮しないという意味で妄想的であるとさえ言えるでしょう。
 沖縄で米軍基地移転反対活動を行う市民活動家は、この戦後の歪んだ内的自己を代表する存在であると考えられます。

 

反米を叫べる唯一の場所

 戦後のアメリカの政策により、アメリカに敵意を向けることができなくなった内的自己ですが、反米を堂々と訴えられる場所があります。それが沖縄の米軍基地です。

 大東亜戦争の末期に行われた沖縄の地上戦では、本土防衛の盾となって7万人以上の日本兵士と、10万人近い現地民間人の犠牲者を生みました。アメリカの軍政下では、兵士による殺人、婦女暴行、強盗といった事件や事故が頻発しました。沖縄が日本に復帰した後も、米軍基地は残されました。日米地位協定によって、米軍兵士が引き起こした事件や事故には、日本は介入することができませんでした。

 こうして長い間、沖縄は抑圧的な環境に置かれ続けました。今も沖縄には広大な米軍基地が存在し、沖縄本島の約20%が基地に占領されています。沖縄の歴史と現在の状況を鑑みれば、アメリカに反感を持つ人々は決して少なくはないでしょう。さらに「平和を守れ」「沖縄の美しい自然を守れ」という大義名分を振りかざせば、米軍基地反対という主張には多くの共感を得ることができると思われます。内的自己を代表する市民運動家が全国から吸い寄せられるように集まってくるのは、沖縄がこのように反米を堂々と訴えられる環境にあるからです。

 普天間基地の入り口で、毎朝出勤する米兵に向かって「ヤンキー、ゴーホーム」とか「MARINES OUT(海兵隊は出ていけ)」と叫ぶ人々は、黒船をひきいて浦和に来航したペリー提督に向けて叫びたかった日本人の心情を、代弁しているつもりなのかも知れません。彼らはまさに、江戸の仇を沖縄で討っているのです。

 

中国に取り込まれる内的自己

 市民運動家たちが沖縄で自己主張をし、それを自己実現のために利用するだけなら実害は少ないでしょう。しかし彼らは外的な現実を遮断し、ひたすら自分の自尊心だけを追求しているために、自尊心をくすぐられると簡単に相手の言うことを妄信してしまうという特徴があります。そのため彼らは、赤子の手をひねるように中国に利用されてしまうのです。

 その偉大な先達が、朝日新聞記者であった本多勝一氏です。彼は朝日新聞に「中国の旅」を連載しました。これは「日本軍による虐殺事件のあった現場をたずね歩いて、生残った被害者たちの声を直接きいてみたい」という目的で始まりました。ところがその内容は、中国側が用意した"証人"の声を聞いただけで確認のための取材もせず、毎回残虐で非人道的な日本軍とその行為が語られていくというものでした。

 その結果、この連載の後に突如として南京大虐殺という事件が登場し、30万人もの市民が日本兵に虐殺されたという物語が大手を振って語られ始めました。中国はこれを最大限利用しました。1971年に連載が始まり、翌年には『中国の旅』という本にまとめられて出版されました。その後に、日中の間で南京大虐殺が歴史的事実であるかのように認識されると、中国は1985年に南京大虐殺記念を造り、日本軍の残虐性を世界に向かってアピールしました。

 1972年に日中の国交は回復しました。日本の対中ODA(政府開発援助)は1979年から始まりましたが、2013年までに円借款(有償資金協力)は3兆3164億円、無償援助は1572億円、技術協力が1817億円で、総額で3兆6000億円以上にのぼっています。無償資金援助の大部分は2006年に、円借款はは 2008年に終了しましたが、技術協力といわゆる「草の根・人間の安全保障」と呼ばれる限定的な無償資金協力は今も続いています。

 世界第2位の経済大国に世界第3位の日本が開発援助を行っているという構図はいかにも滑稽ですが、その背景にはねつ造された「先の大戦への反省」が影響を及ぼしているのではないかと考えられます。もしそうであるとすれば、本多勝一氏の果たした中国への貢献は、実に多大であったと言えるでしょう。(続く)

 

 

文献

1)岸田 秀:ものぐさ精神分析青土社,東京,1977.