韓国はなぜ繰り返し賠償を求めてくるのか(6)

f:id:akihiko-shibata:20181213233110j:plain

 前回のブログでは、独立のために戦った歴史を持たない韓国は、「日本が無理やり植民地化をして搾取したために本来の発展が妨げられていたが、この弊害が取り除かれた後は、自らの力で近代化して独立を果たした国家である」という建国の神話を創り上げたことを指摘しました。そして、独自のナショナリズムが育まれておらず、さらに愚弟と蔑んでいた日本に支配されることになった韓国は、反日を愛国のナショナリズムとせざるを得なかったことも検討しました。

 それにしてもなぜ韓国は、併合時代に対して、竹島問題に対して、そしていわゆる従軍慰安婦や徴用工問題に対して、何度も何度も、繰り返し日本に謝罪や賠償を求め続けるのでしょうか。今回のブログではこの問題について、日本側の問題も絡めて検討したいと思います。

 

朝鮮を同化しようとした日本

 ここで再び、岸田秀の理論を援用してみましょう。岸田は、日本が朝鮮を併合した背景には、欧米諸国から無理矢理開国させられ、欧米化を余儀なくされた日本の心理的な問題が存在すると指摘します。

 

 「欧米諸国に屈従する外的自己は、その存在を否認しなければならない。それは、いやが上にも純化された内的自己の自尊心に突き刺さった棘である。外的自己は非自己化され、投影される。その投影の対象に選ばれた不運な国が朝鮮であった。征韓論心理的基盤はここにある。

 西欧諸国の植民地政策と、朝鮮における日本のそれとの相違が、日本にとって朝鮮は何であったのかということをよく表している。ヨーロッパ人は植民地のアジア人を一段下の人間と見なし、そのあいだに、おおげさに言えば人間と家畜とのあいだにおけるような徹底的な差別を設けていた。そしてその差別は当然のことで、疑う余地のないものであった。

 それに反して、日本は同化政策を取り、朝鮮人を日本人にしようとした。日本語を強制し、氏姓の改変まで行わせ、両民族の結婚を奨励した。朝鮮人も同じく天皇の赤子であった。建前としては、差別はタブーであった」(『ものぐさ精神分析1)16頁)

 

 日本語の使用や創氏改名が強制されたかどうかは別として、日本が朝鮮人を日本人として扱おうとし、日本が行った近代化を朝鮮でも行おうとしたことは確かでしょう。

 

朝鮮併合は日本人のアイデンティティーを守るため

 続けて岸田は、日本が朝鮮人を日本人として扱おうとし、近代化を朝鮮でも再現しようとした心理的な理由を次のように説明します。

 

 「実際、朝鮮を植民地にする経済的、軍事的必要はあったかもしれないが、朝鮮人を日本人にしなければならなかった理由は心理的なもの以外は考えられない。ここには、A・フロイドの言う攻撃者との同一視の機制も働いていた。たとえば、幽霊が恐ろしい子どもがみずから幽霊のまねをすることによってその恐怖から逃れるのがこの防衛機制である。(中略)

 日本人は、おのれを恐ろしい攻撃者である欧米人と同一視して日本を欧米化し、朝鮮を日本化することによって、欧米と日本との関係を、日本と朝鮮との関係にずらして再現しようとした。欧米との関係で自己同一性を危うくされた日本人は、朝鮮人の自己同一性を奪うことによって、おのれの自己同一性を建て直そうとした」(『ものぐさ精神分析』17頁)

 

 このように岸田は、アメリカによって無理やり開国させられ、欧米文化を取り入れざるを得なかった日本人が、アイデンティーティーの危機に瀕したことが朝鮮を併合した一因であったと指摘します。そして、自らがされたことを朝鮮で行い 、自らの心理的な危機を乗り越えようとしたのだと説明しています。

 これはちょうど、腕力の強い子に徹底的にいじめられた子が、今度は別の子をいじめることによって心のバランスを取ろうとすることに似ています。もちろんこの方法では、いじめられた屈辱感は一時的にしか解消できず、根本的な解決にならないのですが。

 

外的自己と内的自己に分裂した朝鮮

 こうした日本の支配を、朝鮮の人々が無抵抗で受け入れたわけではありません。

 日露戦争に勝利した日本は、1905年に大韓帝国保護国とします。1907年に大韓帝国の皇帝が退位させられ、さらに軍隊も解散させられると、反日武装闘争の機運が高まって義兵運動が起こります。日本軍は、軍隊も加わった義兵たちと朝鮮各地で戦い、朝鮮を併合する1910年までにこれを鎮圧しました。この運動で命を落とした朝鮮の人々は、1万8千人に上ると言われています。

 この併合の過程を通して、朝鮮の人々は、日本と同じように外的自己と内的自己に分裂しました。

 日本はアメリカによって無理やり開国させられ、不平等条約を結ばされたため、欧米の文化を受け入れて短期間で近代化を達成しました。しかし、それは外的自己と内的自己の分裂という犠牲を払わねばなりませんでした。朝鮮も日本に無理やり開国させられ、しかも併合させられたために、これを受け入れるためには、同じように外的自己と内的自己に分裂することになったのだと考えられます。

 

朝鮮の外的自己

 ここで外的自己と内的自己の特徴について、もう一度振り返っておきましょう。まず、外的自己の特徴です。

 

 「他者との関係、外界への適応はもっぱら外的自己にまかされ、外的自己は、他者の意志に服従し、一応の適応の役目は果たすが、当人の内的な感情、欲求、判断と切り離され、ますます無意味な、生気のないものになってゆく(『ものぐさ精神分析』12頁) 

 

 朝鮮における外的自己とは、日本の併合を受け入れ、日本式の近代化を目指そうと考えた人々によって形成されました。義兵運動が日本によって鎮圧させられ、軍事力においても、経済力においても日本に圧倒されていたわけですから、当時の朝鮮は日本の併合を受け入れざるを得ない状況にありました。そのため日本を見習い、または日本を利用しながら、近代化を少しでも早く達成しようとすることは、実際の状況を踏まえた現実的な対応だと言えるでしょう。

 当時の大韓帝国の政府や日本の併合を歓迎する人々、皇族出身である梨本宮方子(なしのもとのみやまさこ)女王と結婚した二代目李王である李 垠(イ・ウン)などが外的自己の代表でした。さらに併合時代には、朝鮮民族による初めての百貨店である和信百貨店を創業した朴 興植(パク・フンシク)、「朝鮮近代文学の父」と言われ、差別をなくすために自ら創氏改名を行った 李光洙(イ・グァンス)、日本の陸軍士官学校を卒業し、陸軍中将にまでなった洪 思翊(ホン・サイク)、日本だけでなく、欧米をも魅了した舞踏家である崔 承喜(チェ・スンヒ)などが続きます。

 彼らは輝かしい成功を収めましたが、外的自己の特徴である「内的な感情、欲求、判断と切り離され、ますます無意味な、生気のないもの」として朝鮮の人々から捉えられ、その業績に応じた評価を受けることはありませんでした。そればかりか、戦後には親日派として一括りにされ、糾弾されることになったのです。

 

朝鮮の内的自己

 一方で、内的自己は次のような特徴を有します。

 

 「内的自己は、そのような外的自己を自分の仮の姿、偽りの自己と見なし、外的自己の行うことに感情的に関与しなくなり、あたかも他者の行動をながめるように距離をおいて冷静に突き放してそれを観察しようとする。
 内的自己のみが真の自己とされるが、内的自己は、外的現実および他者と切り離され、遊離しているため、ますます非現実的となり、純化され、美化され、妄想的となって行く」(『ものぐさ精神分析』12頁)

 

 先のブログで、朝鮮の人々が併合で失ったものの正体は自尊心であると指摘しましたが、内的自己はその自尊心を守ることを最も重要視しました。

 併合時代における内的自己を代表する人物が、安重根(アン・ジュングン)と姜 宇奎(カン・ウギュ)です 。彼らは民族独立を訴えた運動家であり、建国の英雄として今日でも称えられています。彼らは真の朝鮮人として純化され、美化されて尊敬を集めています。

 しかし、内的自己の特徴として、現実からは切り離され遊離しているために、彼らの行動は目ぼしい功績には結びついていません。そればかりか、安重根は併合に反対していた伊藤博文を暗殺したため、結果的に日韓併合を推し進めてしまいました。姜 宇奎にいたっては、朝鮮総督の暗殺を試みて失敗しただけでなく、新聞記者、随行員、警官、満鉄理事、米ニューヨーク市長の娘などを巻き添えにし、37人の死傷者を出しました。彼らは朝鮮が独立するための現実的な方策も綿密な計画も持っておらず、独立には何の成果も上げられませんでしたが、日本に反旗を翻したという一点において英雄視され、韓国の人々の自尊心を支えています。

 1919年3月1日に起こった三・一独立運動も、内的自己の暴発として捉えられるでしょう。これは第一次大戦後の民族自決という、国際世論の高まりに影響されて起こった独立運動です。当初はソウルを中心に起こった平和的なデモでしたが、地方都市や農村に広がるにつれて、警察、村役場、小学校などが襲われるようになりました。さらに暴徒化した人々が富裕地主や商店などを襲い、破壊、略奪を行うなど当初の目的から外れた行動も起こされました。

 この運動は数か月で日本に鎮圧され、独立のための成果を上げることはできませんでした。しかし韓国では、三・一独立運動を「日帝に反旗を翻した偉大な独立運動」として捉え、毎年3月1日に政府が記念行事を主催し、殉国の士に哀悼の念を捧げて、民族の精神を振り返る国民の記念日となっています。

 この運動の後には、朝鮮の内的自己は無意識へと抑圧され、社会の表層に現れることはありませんでした。そして外的自己が社会の中心を担い、近代日本文化の優等生として朝鮮の近代化に貢献することになったのです。(続く)

 

 

文献

1)岸田 秀:ものぐさ精神分析青土社,東京,1977.