韓国はなぜ繰り返し賠償を求めてくるのか(2)

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 前回のブログでは、朝鮮の人々が中国の柵方体制の中で優等生を目指すことによって、自尊心を保っていることを検討しました。そして、日本に併合されていた時代、漢江の奇跡と呼ばれた経済発展の時代、さらにサムスンなどの世界的企業が誕生した時代にも、それぞれ日本帝国、日本的経済、アメリカ的経済の優等生として振舞っていたことを指摘しました。

 今回のブログでは、サムスンがなぜ世界的企業になったのかを、フィギュアスケートキム・ヨナ選手と絡めて検討したいと思います。

 

サムスンの衝撃

 日本経済のバブルが崩壊したころ、世界経済は大きな変節の時を迎えました。1989年11月にベルリンの壁が崩壊すると、世界経済はグローバル化の方向に流れ始めます。91年の12月にソ連が解体すると、唯一の超大国となったアメリカは、「グローバル・スタンダード」という名のアメリカ基準の経済戦略を展開して、世界の覇権を再び取り戻して行きます。その潮流にいち早く乗ったのが韓国のサムスン電子でした。

 1990年代に日本経済が不況になって生産調整を始めると、サムスンは逆に大規模投資を行い、半導体、液晶パネル、携帯電話の生産に舵を切りました。97年にサムスンという商品ブランドを統一させると、詳細なマーケティングリサーチに基づいた、斬新なデザインの商品を次々と開発します。それらを中国、インドなどの新興国市場に投入し、一気に世界市場でのシェアを拡大させました。

 その結果、20年余りでサムスンは世界有数の企業に成長しました。日本企業の雄であるソニーパナソニックを抜き去り、営業利益は家電業界で世界1位になりました。たとえば、2005年にサムスンは売り上げ、利益でソニーを上回りました(サムスン売り上げ8兆6758億円、利益8150億円、ソニー売り上げ7兆4754億円、利益1913億円)。2013年にはサムスンの売り上げがソニーの3倍以上になりました(サムスン売り上げ22兆3994億円、利益3兆2812億円、ソニー売り上げ7兆7623億円、利益265億円)。2016年には、サムスンは企業の株式時価総額トヨタをも上回り、2018年にはさらに引き離しています(サムスン世界12位35.8兆円、トヨタ32位22兆円)。

 韓国は日本の真似をして経済発展をしており、日本の後ろを走っているものと思い込んでいた日本人にとって、サムスンの驚異的な成長は、まさに青天の霹靂だったと言えるでしょう。

 

キム・ヨナの金メダル

 なぜサムスンは、これほどまでの急速な発展を遂げられたのでしょうか。その要因を検討するにあたって、格好な材料があります。それは、バンクーバーオリンピックの金メダリストである金妍兒キム・ヨナ)選手と、銀メダリストの浅田真央選手を比較することです。

 キム・ヨナ選手と浅田真央選手は同じ年齢で、ジュニアの頃からライバルとして成長してきました。グランプリシリーズや世界選手権でしのぎを削り、勝ったり負けたりしてきました。しかし、2010年にカナダで開催されたバンクーバーオリンピックで、浅田選手は205.50点で銀メダルだったのに対して、キム選手は228.56点という当時の世界最高記録で金メダルを獲得しました。浅田選手はこの大会のショートとフリーで、女子選手としては最高難度のトリプルアクセルを世界で初めて計3回も決めたのにもかかわらず、キム選手に20点以上の大差をつけられました。この得点の大差に、サムスンの世界戦略の秘密が隠されているのです。

 

サムスンのノウハウを活かす

 事実、サムスンキム・ヨナ選手は無関係ではありません。サムスン国際オリンピック委員会のスポンサーでしたし、キム選手はサムスンから資金の支援を受けていました。その支援は資金面にとどまらず、金メダルを取るためのノウハウとしても活かされていました。そのノウハウとは、高得点を得るためにはどうしたらいいのかを第一に求め続けることです。

 まずキム選手は、オリンピック開催の1年前から練習の拠点をカナダに移し、カナダ人のブライアン・オーサーコーチに師事しました。これらはカナダの生活に慣れ、試合当日の時差ボケもなくし、さらにカナダの観客を味方にして会場をホームにするという効果をもたらします。これに対して浅田選手は、直前の移動で体調の管理が難しかったうえに、ショートとフリーの間にテレビ局の撮影を入れるなど万全の状態で演技に臨むことができていませんでした。

 さらに、審査員の資格講習で正しい演技の例としてキム選手のビデオを使用するなど、キム選手の演技をスタンダードにするための地道な努力が続けられました。また、試合当日の審査委員はヨーロッパ出身が7人、カナダ人が1人、そして韓国人が1人という構成だったことも、採点に影響を与えた可能性があります。日韓共催のサッカーのワールドカップの時もそうでしたが、韓国は観客が選手に与える影響や、そして審判の重要性を強く認識していたと言えるでしょう。

 

高得点のための演技構成

 高得点を得るための工夫は、演技構成にも表れています。浅田選手が得意としたトリプルアクセルは、女子の選手では一握りの選手しかできない高難度の技です。男子の選手ですら、トリプルアクセルで転倒するシーンを時々見ることがあるほどです。キム・ヨナ選手も、一時期はトリプルアクセルの習得に励みました。しかし、習得が難しいと判断すると、キム選手はトリプルアクセルを諦めて、別のジャンプの習得に方針を転換しました。それが3回転・3回転の連続ジャンプです。

 キム選手が3回転・3回転の連続ジャンプを目指したのは、その方が高得点が得られるからです。たとえば、バンクーバーオリンピック当時の、トリプルアクセルの基礎点は8.2点でした。これに対して、キム選手が得意とした3回転ルッツ・3回転トウループの基礎点は10.0点です。これなら習得が難しく、さらに転倒の危険性もあるトリプルアクセルを演技に入れるのは得策ではないでしょう。

 以上のようにキム・ヨナ選手は、オリンピックで高得点を得るためにはどうしたらよいかを、徹底的に追求していたと言えるでしょう。

 

技術を追求した浅田選手

 これに対して浅田真央選手は、得点を第一に考えずに、フィギュアスケートの技術を磨くことを追求していました。トリプルアクセルは、まさにその象徴でした。浅田選手はジャンプが不調に陥ったときでさえ、トリプルアクセルをなんとか演技に組み込もうとしました。ショートでもフリーでもまずトリプルアクセルから入るというスタイルを、浅田選手は頑なに守りました。そのためトリプルアクセルは、浅田選手のスケーティングの核になっただけでなく、浅田真央という人物の代名詞にもなりました。

 浅田選手は、ジャンプの技術だけを目指したわけではありません。スピンやステップの技術も磨きました。それにとどまらず、芸術点を左右する表現力が欠けていると判断すれば、バレエの表現力を取り入れるためにロシアに渡り、ロシア人のタチアナ・タラソワコーチの指導も受けました。このように浅田選手は、フィギュアスケートのあらゆる技術を磨くことによって、究極のスケーターを目指していたのではないでしょうか。残念ながらそれが、オリンピックでの得点には結びつかなかったのですが。

 

ソチオリンピックでの二人

 バンクーバーオリンピックで金銀のメダル獲得した二人ですが、4年後のソチオリンピックでは、さらに好対照の結果となりました。

 キム・ヨナ選手は高得点を上げ、ロシアのアデリナ・ソトニコワ選手に次いで銀メダルを獲得しました。しかし、この結果に韓国の人々は憤慨しました。どう見てもキム選手演技の方が優れているというのです。国民の熱狂的な主張を受けて、大韓体育会と韓国スケート連盟が、国際スケート連盟の懲戒委員会に提訴しました。その内容は、審判にロシア連盟幹部の妻が含まれており、競技直後にソトニコワと抱き合っていたことと、過去に資格停止処分を受けたことがあるウクライナの審判が含まれていたことが、国際スケート連盟の倫理規定に違反しているというものでした。審判の構成に目をつけるあたりは、韓国独自の視点であると言えるでしょう。この主張は退けられましたが、一連の騒動は、韓国の人々の金メダルに対するこだわり、結果に対する執着をよく現わしていると思います。

 一方で浅田真央選手は、トリプルアクセルの転倒もあり、ショートプログラムは16位というまさかの結果に終わりました。この結果を受けて、誰もが浅田選手のソチオリンピックは終わったと感じました。しかし、当の浅田選手自身は、決して諦めていませんでした。翌日のフリースケーティングでは、トリプルアクセルを含めた全6種類、計8度の3回転ジャンプを決めるという女子で初めての快挙を達成しました。スピンもステップも、浅田選手らしい素晴らしい出来映えでした。演技が終わって感極まる浅田選手をみた人々は、-それは日本人に限らずスケートを愛する多くの人々がそうだったと思われますが-、感動の涙を流しました。得点はフリーでも3位であり、ショートとの合計でも6位に過ぎませんでしたが、そうした結果は重要ではありませんでした。日本人の多くが、メダルを逃したにもかかわらず浅田選手を称賛しました。そして、ソチでのフリーのプログラムは、浅田選手を代表する演技と認識されるようになったのです。

 

浅田選手に続く選手たち

 オリンピックでのメダルで二人を比較したとき、結果はキム・ヨナ選手の圧勝だったと言えるでしょう。得点でも、浅田選手はキム選手を超えることはできませんでした。しかし、浅田選手が目指したあらゆる技術を追求する姿勢、そして彼女の演技が残してくれた感動は、日本スケートの文化となって受け継がれました。

 オリンピックを2連覇したにもかかわらず今も究極の技術を追求し、クワドアクセル(4回転アクセル)を目指すと宣言した羽生結弦選手、浅田選手に憧れてフィギュアスケートを始めた平昌オリンピック銀メダリストの宇野昌磨選手、女子では宮原知子選手、坂本花織選手、樋口新葉選手など若手の選手が続々登場しています。

 そして、女子にはトリプルアクセルの後継者が現れました。初出場のグランプリシリーズで初優勝の快挙を成し遂げた紀平梨花選手です。ショートとフリーで3本のトリプルアクセルを試みるのは、浅田選手と同じ構成です。しかも紀平選手は、浅田選手もできなかったトリプルアクセルと3回転の連続ジャンプ、トリプルアクセルトリプルトウループを成功させました。伊藤みどり選手から始まり、浅田真央選手へ続いた究極の技術を目指す女子フィギュアスケートの文化は、こうして紀平梨花選手へと受け継がれたのです。

 話が随分と逸れてしまいました。次回のブログでは話を戻して、サムスンキム・ヨナ選手に代表されるような、優等生を目指す韓国文化の負の側面について検討したいと思います。(続く)