去る10月30日、韓国大法院(最高裁)が日本にとって衝撃的な判決を下しました。戦時中、日本企業で働いていた韓国人労働者が日本企業を訴えた件で、労働者の主張を認め、日本企業に賠償命令を下しました。この問題は、1965年の日韓請求権協定で完全に決着したはずでした。韓国は従軍慰安婦問題でも、「最終的かつ不可逆的な解決」をうたった2015年の日韓合意を覆そうとしています。
一度両国間で正式に決定した協定を一方的に覆すことは、近代国家間ではあり得ない行為です。法よりもその時々の民意が優先されるという意味では、韓国は未だに近代化が達成されていないのだと言えるでしょう。
それはさておき、なぜ韓国の人々は、戦後70年以上もたつのに未だに日本に賠償を求め続けるのでしょうか。過去のことは水に流して忘れる日本人からは、容易には理解できない行動と言えるでしょう。しかし、理解できなからと言って、どこかに引っ越してしまうわけにもいきません。韓国は過去も現在も、そして未来も隣人であることに変わりないのですから。
そこで今回のブログでは、韓国の人々がなぜ未だに戦前にこだわり続けるのかを、精神分析的に検討してみたいと思います。
地理的条件から見る朝鮮民族
以前のブログで、日本列島の地理的な条件から日本民族の特徴を検討しました。日本列島がユーラシア大陸の東端にあることから、日本列島は他の地を離れざるを得なかった人々の吹きだまりであり、戦いに敗れ続けた人々が後の日本民族を形成した可能性を指摘しました(詳細は2018年3月のブログ、『縄文人はなぜ戦争をしなかったのか』をご参照ください)。
同様の 検討を朝鮮半島で行ってみましょう。
朝鮮半島も、ユーラシア大陸の東端にあることには変わりがありません。そうした意味では、朝鮮半島の人々も、戦いに敗れ続けて朝鮮半島まで逃げ延びてきた人々であると言えるでしょう。しかし、ここからが朝鮮民族と日本民族の違いになります。朝鮮の人々は最後の最後で半島にとどまり、日本列島にまで逃げ延びなかったのです。
逃げ延びるよりも支配されることを選んだ
朝鮮半島の北側にチャンパイ山脈があるものの、南側には天然の要塞になるような地形は存在しないため、常に大陸の勢力から攻め込まれる危険がありました。しかも行き着く先は海であるため、強大な勢力に攻め込まれたら逃げ場がありません。それでも海を渡って逃げ延びたのが日本民族ですが、朝鮮の人々は逃げ延びるよりも支配を受けることを選びました。
他の民族から支配を受けることは、著しく自尊心を傷つけられることに繋がります。そこで朝鮮の人々は、次のような心理的な防衛手段を用いたと考えられます。一つは支配を受けた民族の中で最も優秀な民族になること、もう一つは、半島から逃げ延びた人々に対して優越感を持って接することです。
柵封体制の優等生
中国の歴代王朝は、東アジア諸国の国際秩序を維持するために柵封体制を用いました。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に、封禄や爵位などを与えて君臣関係を結んでその統治を認めることを冊封体制と言います(「柵」は、封禄や爵位を与える勅書のことです)。この体制によって中国の歴代王朝は、周辺諸国を宗主国対藩属国という従属的関係におきました。朝鮮はこの体制の中で中国の王朝に支配を受ける一方で、この体制の中での優等生を目指しました。
たとえば李氏朝鮮(1392年~1910年)は、儒教王国を目指しました。儒教といっても孔子や孟子ではなく、朝鮮が重視したのは南宋時代に誕生した朱子学です。明の時代になると、宗主国である明よりも儒教を徹底することで、自らの自尊心を維持しようとしました。
古田博司は『韓国・韓国人の品性』1)の中で、次のように述べています。
「朱子学から陽明学へと移行したシナに行った使節団が朝鮮に帰ってくると、そこで見たままを報告する。
『王様、中国人は喪の最中に酒を飲み、肉を食らって宴会をしております』
朝鮮の儒者たちは、儒教の本場で朱子の言説どおりに喪中の禁酒、断肉食が行われていないことを知ると、強い優越感を持ち始める。(中略)十六世紀後半の朝鮮儒者の日記には、『中国は禽獣に近い卑しい国』との記述があり、この矜持は十七世紀の女真族による明朝の滅亡と清朝の建国により決定的なものとなる。
中華が女真族という蛮族に征服されたことにより、自分たちこそが中華の礼を受け継ぐという正統性を獲得したのだ。これを朝鮮思想史では『小中華思想』と呼ぶ」(『韓国・韓国人の品性』90‐91頁)
小中華思想によって、朝鮮の人々は自尊心を保ちました。出藍の誉れという言葉がありますが、この言葉のように、朝鮮では儒教が誕生した中国よりもより純粋な儒教国家になりました。しかし、その一方で、儒教による商人や商業の蔑視によって経済は著しく衰退し、一般庶民はほとんど自給自足に近い生活を送らざるを得なかったのです。
併合時代でも優等生を目指した
韓国併合時代は、日本が一方的に大韓帝国を植民地化し、その富を搾取したと韓国からは捉えられているようです(実際は日本が多額の資本を持ち出して、朝鮮の近代化を図ろうとしたのですが)。そして、朝鮮の人々は奴隷のように働かさせられたり、強制的に兵士として参戦させれたと主張しています。
しかし、併合時代でさえ、当時の人々は優等生を目指していました。
金 完燮(キム・ワンソプ)は『親日派のための弁明』2)の中で、次のように述べています。
「1941年、日本がイギリスとアメリカに宣戦布告して、本格的に東アジアの新秩序建設に立ち上がったとき、日本はより効果的な戦争遂行のために『内鮮一体』キャンペーンを強化した。内鮮一体とは、日本列島を意味する内地と朝鮮が一つという意味だ。その結果、学校では朝鮮語教育が禁止され、ハングルで発行されていた新聞と出版物はすべて廃刊になったり焼却され、創氏改名、挺身隊動員、志願兵徴集運動が強力に展開された。
このような内鮮一体・同化事業は、より効率的な戦争動員の目的からはじまったことであるが、植民地住民を本国住民と同等に待遇するという点で士気を高める結果となり、多くの朝鮮人はこれに感動して自発的に日本の戦争に協力した。すなわち、当時、大方の朝鮮人は自分たちが日本国民であるとの自負心を強く持っており、したがって気がすすまなくても皇国臣民としての業務を果たすために軍隊に志願し、産業戦線に動員されたのである」(『親日派のための弁明』42頁)
現在からはまったく想像すらできませんが、当時の朝鮮の人々は、日本に吸収されるなかでも、日本社会の優等生として振舞っていたのです。
戦後の韓国は、やはり異文化の中で優等生として振舞います。1965年の日韓基本条約で、韓国は日本との国交を正常化させます。この条約と同時に締結された日韓請求権・経済協力協定で、韓国は日本から無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款で3億ドル、その他も含めると11憶ドルもの資金供与及び貸付けを受けました。韓国は、こうした資金を元手に京釜(キョンブ)高速道路をはじめとした各種インフラの開発や、浦項(ポハン)総合製鉄をはじめとした企業の強化を行いました。さらにインフラ整備後は、日本の民間企業によって大規模な投資が行われました。
一方、1966年の朴・ジョンソン首脳会談では、韓国軍のベトナム派兵の見返りとして、巨額の経済・軍事援助が約束されます。その額は派兵後5年間で17億ドル近くになりました。こうした経済援助をもとに、韓国は驚異的な経済発展を遂げます。ベトナム戦争中の10年間を通じて、韓国経済の成長率は年平均10%前後にもなりました。その結果世界10位にまで成長した韓国の経済発展は、「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれました。
韓国の経済発展は、政府と財閥が一体となって経済成長を推し進めたこと、輸出志向型工業化政策を行ったことなど、日本の経済発展を参考にしています。つまり、韓国の経済発展は、日本型経済の優等生としての側面が大きいと考えられます。
日本経済のバブルが崩壊し、長期にわたる停滞期を迎えると、日本型経済の優等生であった韓国も同様に、経済的な停滞を迎えます。1997年のアジア通貨危機で、韓国経済は大きな危機に直面し、大量の倒産や失業、財閥の解体などが起こりました。韓国は国際通貨基金(IMF)の管理下に入り、経済的な支援を受けました。ここから韓国は、日本型経済から脱却し、アメリカ型経済を目指すようになります。そして、アメリカ型経済の優等生として、サムスンなどの世界的な企業が生まれることになったのです。(続く)
文献
1)古田博司:韓国・韓国人の品性.ワック株式会社,東京,2017.
2)金 完燮(荒木和博、荒木信子訳):親日派にための弁明.草思社,東京,2002.