憲法九条の改正はなぜ必要なのか(5)

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 前回のブログでは、憲法九条に対する態度を、4つの立場に分類して説明しました。今回のブログでは、こうした立場を踏まえながら、憲法九条の改正がなぜ必要なのかを検討してみたいと思います。

 

憲法九条に対する4つの立場
 前回のブログで憲法に対する態度を4つに分類しましたが、やや複雑になったと思われますので、簡略化して以下にまとめてみましょう。

護憲派
 内的自己 ・平和を護るために憲法九条は堅持する。
      ・日米安保には反対し、米軍基地の撤去を要求する。
 外的自己 ・戦争を回避するために憲法九条を利用する。
      ・国を護るために日米安保と米軍基地を維持する。

改憲派
 内的自己 ・憲法九条を改正し、戦力の保持と自衛のための戦争を明記する。
      ・日米安保の解消と米軍基地の撤去を目指す。
 外的自己 ・憲法九条を改正し、自衛隊の存在を明記する。
      ・国を護るために日米安保と米軍基地を維持する。

 以上の立場のうち、憲法改正論議で対立軸になるのは、内的自己の護憲派と外的自己の改憲派になるでしょう。

 

内的自己の護憲派と外的自己の改憲派の対立

 この二つの立場が対立軸になるのは、両者の意見が両極端に位置するからです。内的自己の護憲派憲法を護り日米安保には反対する、外的自己の改憲派憲法を改正し日米安保を護るという主張です。両者は正反対の立場になり、いわば水と油の関係にあると言えるでしょう。

 この両者の対立こそが、戦後日本の内的自己と外的自己の対立を象徴しています。内的自己は平和を護るために平和憲法を維持し、アメリカの戦争に巻き込まれないために日米安保を解消し、米軍基地の撤去を訴えます。戦争につながるものはすべて排除し、平和を追求しているという意味で、自尊心を保つことを目指します。しかし、この主張は、現実的には日本が戦争をできないようにしてるだけで、海外から攻められたらひとたまりもありません。これでは自己満足の論理だと言わざるを得ません。

 一方、外的自己の主張は、日本を防衛できるように改憲し、日米安保と米軍基地によって日本の防衛力を向上させるという意味では現実に即しています。しかし、日本が未だに米軍に依存し、自主独立ができていないという意味で、自尊心を保つことを難しくしています。

 このように、両者の対立は決定的に食い違っています。これまでも相手を一方的に非難して、理解し合おうとすることがありませんでした。それは内的自己と外的自己が分裂しているために、相手の考えていることが理解できず、話し合いの接点がつかめないからです。ここに戦後日本の悲劇が、さらに遡れば明治維新以来の内的自己と外的自己の分裂の悲劇があると考えられます。

 

無意識へと抑圧された憎悪

 では、日本人の悲劇である内的自己と外的自己の分裂は、解消することはできないのでしょうか。岸田秀は、内的自己の暴発であるオウム真理教について述べた文章の中で、次のように述べています。

 

 「国家としての日本の病気がますます重くなった感じである。これではオウム教団を壊滅させても、抑圧された内的自己がまた別のもっと重い症状となって現れるであろう。日本という国家の体制にそもそも問題があるのではないか。

 この事態は個人の患者を例にとればわかりやすいであろう。ある女がある男に対する愛情の葛藤に囚われている。彼女はかつて彼に憎しみをぶっつけ、彼と大喧嘩した。ところが徹底的にたたきのめされ、痛い目に遭った。そこで彼女は、喧嘩したのは大間違いであったと思い、卑屈に彼に従うようになった。つまり、彼女の自我体制は彼への愛情と服従で固められ、彼への憎悪は深く無意識へと抑圧された。今や彼女はなぜかつて彼と喧嘩したのかどう考えても信じられない思いである。しかし、抑圧された彼への憎悪が症状に現れる」(『二十世紀を精神分析する』1)103頁)

 

 ここで例えられている彼は言うまでもなくアメリカで、彼女が日本です。日本はペリーに無理やり開国させられた屈辱感に加えて、大東亜戦争アメリカに徹底的にたたきのめされた憎悪を無意識に抑圧し、戦後は平和憲法で二度と戦争をしないと誓い、日米安保で護られながら卑屈に対米追従を続けてきました。しかし、抑圧されたアメリカへの憎悪は別の形になって現れます。その一つ表現が、先のブログでも取り上げたオウム真理教の事件でした。

 

 抑圧された憎悪を意識化できるか

  憲法の問題が解決しない原因の一つに内的自己と外的自己の分裂があるなら、内的自己と外的自己の分裂は解消することはできないのでしょうか。

 岸田は次のように続けます。

 

 「このように日本軍部とオウム教団とのあいだに、スケールの違いはあれ、共通点が非常に多いということは、両者が同じ心的傾向の表現であることを裏づけるであろう。

 その心的傾向とは、先に述べた通り、わたしが内的自己と呼んでいるもの、すなわちアメリカ(を主とする西欧諸国)への屈辱感と憎悪である。したがって、日本にオウム真理教のような現象を起こるのを防ぐ治療法は、さっき例に挙げた男に対する愛憎の葛藤に囚われている女の症状の治療法と同じであって、アメリカ(を主とする西欧諸国)に対して卑屈な現在の政治体制(男に対して卑屈な現在の自我体制)を改め、抑圧されている憎悪を意識化して現実的に有効な自己主張に変え、自尊心の持てる新しい政治体制(自我体制)に組み入れればいいのである」(『二十世紀を精神分析する』105頁)

 

  岸田の指摘する「アメリカに対して卑屈な現在の政治体制を改め、抑圧されている憎悪を意識化して現実に有効な自己主張に変え、自尊心の持てる新しい政治体制に組み入れる」とは、憲法九条と日米安保、米軍基地の問題で言えばどうなるでしょうか。これを岸田のたとえで考えてみましょう。

 彼女は彼を愛していると思い込み、卑屈な態度で彼に服従しています。そして、身の回りにいる暴力的な人々から身を守ってもらうために、彼と半同棲し、彼にお金まで渡しています。

 彼女が内的自己と外的自己の分裂を解消し、自尊心を持って生きられるようになるためには、まず彼女自身が彼を愛していないこと、さらに彼を憎んでいる気持ちを持っていることから目をそらさない勇気を持つことです。次にその気持ちに従って、彼と距離をとってみることです。そして彼にお金を渡すことをやめ、半同棲を解消するために、自分の気持ちに従って彼と話し合うことが必要になります。憎んでいる気持ちを優先して彼と別れるのか、長年守ってもらった恩から恨みを許すのか、どちらを選ぶかは彼女次第です。もし彼女が彼との関係が重要であると思うなら、友人関係を対等の立場で結び直すことになるでしょう。

 こうした過程を一つ一つこなすことによって、彼女は彼との卑屈な依存関係から脱し、彼から自立することができます。そして、彼から自立することによって、彼女は初めて自尊心を取り戻すことができるのだと考えられます。

 

憲法九条を改正し日米安保を捉え直す

 さて、上記のたとえ話を、日本社会に当てはめてみましょう。内的自己と外的自己の分裂を解消するために必要なことは、まず歴史を振り返り、ペリーに無理やり開国させられたこと、そして大東亜戦争アメリカから徹底的に痛めつけられた記憶に直面することです。そして、WGIPによって信じさせられた軍国主義者と国民の対立という構図から離れ、日本が戦っていたのはアメリカであったと直視し、憎悪の対象を軍部や軍国主義者からアメリカに戻すことです。そしてアメリカに卑屈に服従する態度を改め、アメリカから距離をとって、日本のことは日本で決定する態度を持つことです。それはアメリカの依存から脱し、日本が自主独立を果たすために必要な態度です。そのためには、政治面だけでなく軍事面でも独立し、自主的に日本を護る姿勢を示すことが必要になります。

 日本が軍事面で独立し、自主的に日本を護る姿勢を示すためには、憲法九条の改正が必要になります。ただし九条の改正は、自衛隊の存在を認めるだけでは不十分です。自衛隊自衛軍として位置づけたうえで、自衛のための防衛戦争は行うことを明記する必要があります。もし侵略戦争を危惧するなら、自衛隊の海外派兵は、いかなる状況であっても絶対に行わないことを憲法に明記すればいいでしょう。

 日本が自主的に国を護る姿勢を示すためには、当然防衛力の増強が必要になります。そのためには、防衛費も増やす必要があり、その分わたしたちの生活の豊かさが失われる可能性があります。しかし、自分たちの国は自分たちで護ることが国が独立している証しなのであり、そのためにはある程度の犠牲は払わなければならないとわたしは考えます。

 こうした姿勢を示したうえで、日米安保は独立した国同士の相互安全保障条約として、新たに締結し直すことが必要になるでしょう。

 

日本人の自尊心を取り戻すために

 今回のブログの最初で、日本の高校生だけが、他国の高校生に比べて自己肯定感が極端に低いという調査結果を示しました。そしてその原因として、戦後のGHQが行ったWGIP(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム)を取り挙げました。WGIPによって導かれた軍国主義者と国民の対立という図式、さらにWGIPから発展した日本人の負の側面を強調する歴史教育が、若者の自己肯定感を低下させています。

 しかし、わたしはそれだけが原因だとは思いません。日本には未だに米軍基地が存在し、米軍によって日本の平和が保たれている現実があります。そして、その現実をみないまま平和憲法を維持し、平和憲法によって平和が保たれているという欺瞞のなかで生きています。つまり、戦後70年以上が経っても日本は自立できておらず、アメリカに追従し、半ばアメリカに依存しているのです。こうした状況で育った若者が、自分たちの国に誇りを持つことができるでしょうか。そして、自分たちの国に誇りを持てない若者が、自己肯定感を育むことができるでしょうか。

 個人の自己肯定感の問題は、国の尊厳の問題に端を発しています。自分の国は自分で護るという当たり前の国になるために、そしてそのことによって若者が日本に誇りを持つことができるように、憲法を改正することが必要だと考えられるのです。(了)

 

 

文献

1)岸田 秀:二十世紀を精神分析する.文藝春秋,東京,1996.