憲法九条の改正はなぜ必要なのか(3)

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 前回のブログでは、平和憲法が日本人の誇りにならない理由として、一切の戦力を保持せず、戦争を放棄するという憲法を持つ国が、実は世界有数の軍事力を保有しているという理想と現実とのギャップが存在していることを挙げました。さらに平和憲法の理念を実現するために、米軍を撤退させた場合に起きる危惧についても検討しました。

 今回のブログでは、憲法第九条にしたがって、日本が非武装になった場合に何が起こるのかを検討してみましょう。

 

国家が非武装になったら

 米軍が日本から撤退する次の段階として、憲法第九条の条文通りに、日本が非武装になり、一切の戦争を放棄した場合を考えてみましょう。

 国家が非武装になり、一切の戦争を放棄したなら、頼りになるのは外交交渉でしょう。しかし、予想される結末は前回のブログで検討した通りです。フィリピンは南沙諸島問題で外交交渉を行い、さらに国際法に基づいて常設仲裁裁判所に訴えました。その結果、フィリピンの主張は全面的に認められましたが、中国はこれを無視しました。そして、現在も南沙諸島の埋め立て地で、滑走路や港湾施設の建設といったインフラ整備を公然と進めています。

 米軍がフィリピンから退去した一瞬のスキをついて、中国は南沙諸島での軍事行動を活発化させました。そして、慌てた米軍がフィリピンとの共同軍事演習を再開させたにもかかわらず、南沙諸島での埋め立てを行ったのでした。もし、実際に日本が非武装になり、一切の戦争を放棄すると宣言したら、どうなるかは推して知るべしでしょう。

 

国家が侵略されたら

 領海が侵されるだけでなく、さらに国土が侵略されたらどうなるでしょうか。

 もちろん非武装で戦争を放棄しているのですから、取るべき道は、日本人としての誇りを捨て、無抵抗で相手の思うままに侵略を受けるか、ゲリラ戦を展開して抵抗を試みるかでしょう。

 誇りを捨て、無抵抗で侵略を受け入れた場合には命は助かるかもしれませんが、人としての尊厳は失われます。そして、尊厳が失われることは自我の支えが失われることに繋がるため、人は正気を保てなくなる可能性があります(戦後の日本は米軍を無抵抗で受け入れましたが、それは激しい戦争を行った後のことです。今の時代に、無抵抗で外国の侵略を受け入れることとは事情が異なります)。

 したがって、無抵抗で侵略を受け入れるという選択肢は通常は考えられず、ゲリラ戦を展開して抵抗を試みることになるでしょう。

 作家の野坂昭如は、『国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん』1)の中で、旧日本軍への不信感と、敗戦後の卑屈な態度を批判したうえで、次のように述べています。

 

 「軍事力でこの国を守ることはできない、だが、市民の一人一人に、ハードなことから手弱女(たおやめ)ぶりまで含めて、ごちゃごちゃとしぶとく抵抗しつづけるなら、そうそう一つの伝統と文化を持つ民族が、征服されつくすことはない。軍事力だけに頼り、それが崩壊した後、俺は知らんと虚脱に逃げ込むならば、日本の世間の、人も心も、消滅とはいわないが、卑しい姿となるだろう」(『国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん』28頁)

 

 確かに敗戦後の日本人のアメリカ軍への服従ぶりは、卑しい姿に見えたかもしれません。GHQが日本人の精神構造に残した傷跡は、現在もわたしたちの社会に負の影響を与え続けています。

 しかし、その反対に、「市民の一人一人がしぶとく抵抗しつづけるなら、そうそう一つの伝統と文化を持つ民族が、征服されつくすことはない」のでしょうか。

 それを検討するための実例が、中国のチベット自治区新疆ウイグル自治区にあります。

 

侵略されたチベット東トルキスタン

 チベット自治区新疆ウイグル自治区は、中国の西方に位置する広大な領域にあります。 両自治区とも、漢民族とは民族も文化も宗教も異なる人々が存在しています。

 チベット自治区にはチベット人が、チベット仏教にもとづく政教一致の文化を持って生活していました。1951年の人民解放軍の侵攻後、チベットは幾度の反乱を起こしましたが、ついに1965年にチベット自治区として中国に組み入れられました。宗教的指導者ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命し、インド北部のダラムサラに亡命政府を作って抵抗を続けています(ダライ・ラマ14世は2011年に政治的指導者としては引退を表明しましたが、依然として宗教的指導者としての、そしてチベット人の精神的支柱としての役割を果たし続けています)。

 一方、新疆ウイグル自治区にはホータン人やカシュガル人が、イスラム教徒として生活していました。1930年代になって、中国共産党がこの地に住む人々をウイグル族と呼び始めました。1930年から1940年代にこの地で分離独立の運動が起き、1933年には「東トルキスタンイスラム共和国」の建国が、1944年には「東トルキスタン共和国」の独立が宣言されましたが、いずれも長続きせずに消滅しました。

 中国が1955年に新疆ウイグル自治区を創設すると、石油開発や綿花生産のために大量の漢人が入植し、特に都市部には漢民族が多数を占めるようになりました。そして、政治面ではすべての階級の長は漢民族で独占され、漢人ウイグル人の経済格差も拡大しています。

 

チベットの独立を求める騒乱

 民族も文化も言語も宗教も異なるチベットは、当然中国とは相容れることができません。そこでチベットは、自治区として組み入れられる前から、独立を目指して何度も中国と戦いました。チベット亡命政府は、動乱前後の中国によるチベット侵攻および併合政策の過程で、チベット全域で120万人もの犠牲者が出たと主張しています。

 チベット自治区として併合された後も、1980年代末から「チベット独立」を訴える騒乱は続き、2008年には僧侶たちによる宗教弾圧への抗議デモを発端として、暴動は自治区以外のチベット人地区にも飛び火しました。チベット亡命政府はこの衝突で、死者203人、負傷者1000人以上、5700人以上が拘束されたと発表しました。2009年からは僧侶の焼身自殺が頻発してていおり、その数は150人以上にのぼると言われています。

 こうした状況の中、ダライ・ラマ14世は、チベットの分離独立はあえて求めず、中国の憲法に則ってチベットを「真の自治区」にするように求めていますが、この訴えさえ中国政府は聞き入れようとしていません。

 

ウイグル民族の抵抗

 新疆ウイグル自治区でも、1980年代末から民族、宗教に絡む紛争が毎年のように起きています。特に1990年に漢人の追放、新疆での核実験反対、産児制限反対、自治の拡大を求めてバレン郷で起こった騒乱、1997年に新疆北部のイニンで起こった民族間衝突は、ウイグル人の民族的危機感によって起こされた事件として知られています。

 さらに、2009年にウルムチで起こった騒乱は、その後の民族間の軋轢を激化させるきっかけとなりました。2009年6月26日に広東省で、ウイグル族の男性が漢民族の女性を強姦したという噂が流れ、漢民族ウイグル族の人々を集団で襲撃して、2人のウイグル人が殺害され100人以上が負傷する事件が起きました。

 この事件を受けて、7月5日に新疆ウイグル自治区ウルムチで、1万人規模の抗議デモが起きました。当局は警察と軍を出動させましたが、収拾がつかなかったため、デモ隊に向けて発砲して武力鎮圧に乗り出しました。その結果デモは大規模な武力衝突にまで発展し、数百人のウイグル人が殺害され、百人以上の漢人の死者も出ました。

 この騒乱を中国政府は「七五事件」と呼び、「ウイグル族漢民族を殺害した」と一方的に非難してウイグル民族に対する敵対感情を煽りました。

 

文化と宗教を根絶する

 七五事件の後、新疆ウイグル自治区全域で武力衝突が頻発しました。衝突は自治区以外の地域まで飛び火します。

 2013年10月にウイグル人ジープで天安門の城壁に突っ込み、暴発物を爆破させました。この事件で5人が死亡し、38人が負傷しました。この事件の後中国政府は、政府に反抗するウイグル人を「暴力的テロリスト」と呼び、2015年には反テロリスト法を制定してウイグル人を厳しく取り締まりました。

 中国政府によるウイグル民族弾圧は、近年さらにエスカレートしています。中国政府が取り締まるのは、実際に政府に反抗する人物だけではありません。反抗するかもしれない思想を持つすべての人々に及んでいます。

 アメリカのペンス副大統領は、10月4日に米国のハドソン研究所で行った対中政策の演説の中で、次のように述べています。

 

 新疆ウイグル自治区では、共産党が政府の収容所に100万人ものイスラム教徒のウイグル人を投獄し、24時間体制で思想改造を行ってます。その収容所の生存者たちは自らの体験を、中国政府がウイグル文化を破壊し、イスラム教徒の信仰を根絶しようとする意図的な試みだったと説明しています」

 

 中国政府が新疆ウイグル自治区で行っていることは、文化と宗教を根絶する試みです。この試みは、民族を浄化し、さらに民族を絶滅させようとする国家的なテロ行為であるとさえ言えるでしょう。

 世界で現実に起こっているこうした状況をみても、「市民の一人一人がしぶとく抵抗しつづけるなら、そうそう一つの伝統と文化を持つ民族が、征服されつくすことはない」と言い切ることができるでしょうか。(続く)

 

 

文献

1)野坂昭如:国家非武装 されど我、愛するもののために戦わん.光文社,東京,1981.