憲法九条の改正はなぜ必要なのか(1)

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 安倍首相が自民党総裁選挙で勝利し、3年間の続投が決まりました。安倍首相は、秋の臨時国会自民党改憲案を提出する意向を明らかにしており、いよいよ憲法改正に向けた議論が本格的に始まります。この議論の中心となるのは、憲法九条は改正すべきなのかという点でしょう。

 今回のブログでは、これまでタブー視されてきた憲法九条の問題に、精神分析的な観点から検討を行いたいと思います。

 

自己肯定感の低い日本の若者

 憲法とは直接関係はありませんが、若者の自己肯定感の問題から始めましょう。

 国立青少年教育振興機構が平成30年3月に発表した、高校生の心と体の健康に関する意識調査の中で、次のような結果が出ています。

 「私は価値のある人間だと思う」という問いに対して、「そうだ」「まあそうだ」と回答した高校生の国別の割合(%)は、

 

 日本 44.9  アメリカ 83.8  中国 80.2  韓国 83.7

 

 「私は今の自分に満足している」という問いに対して、「そうだ」「まあそうだ」と回答した高校生の国別の割合(%)は、

 

 日本 41.5  アメリカ 75.6  中国 62.2  韓国 70.4

 

という結果でした。

 この調査からは、日本の高校生だけが、目立って自己肯定感が低いことがわかります。日々の臨床においても、若者の自己肯定感の低さを感じされられることは決して珍しくありません。それどころか、「自分は何の役にも立たない存在だ」「生きている意味がない」「消えてしまいたい」などといった自己否定感を訴える若者が、ますます増えているように感じられます。

 ではなぜ、日本の若者は自己肯定感が低いのでしょうか。

 

戦後の教育に原点

 個人の自己肯定感の問題は、親の自己肯定感の問題に還元されます。さらに、親の自己肯定感の問題は、その親の自己肯定感の問題に還元されます。つまり、現在の高校生の自己肯定感の低さは、両親やさらにその祖父母に行くつくことになります。

 ここで、祖父母の世代が受けた教育がクローズアップされます。それが敗戦後にGHQ連合国軍最高司令官総司令部)の画策した、WGIPウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)に導かれた教育です。

 WGIPについて、作家の江藤淳は『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』1)の中で次のように指摘します。

 

「『太平洋戦争史』と題されたCI&E(民間情報教育局)製作の宣伝文書は、日本の学校教育の現場深くにまで浸透させられることになったのである。

 それは、とりもなおさず、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の浸透であった。『太平洋戦争史』は、まさにその「プログラム」の嚆矢として作成された文書にほかならないからである。(中略)そこにはまず、「日本の軍国主義者」と「国民」とを対立させようという意図が潜められ、この対立を仮構することによって、実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている」(『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』270頁)

 

 そして、このプログラム目的は次のようであったと江藤は指摘します。

 

 「「軍国主義者」と「国民」の対立という架空の図式を導入することによって、「国民」に対する「罪」を犯したのも、「現在および将来の日本の苦難と窮乏」も、すべて「軍国主義者」の責任であって、米国には何らの責任もないという論理が成立可能になる。大都市の無差別爆撃も、広島・長崎への原爆投下も、「軍国主義者」が悪かったから起った災厄であって、実際に爆弾を落とした米国人には少しも悪いところはない、ということになるのである」(『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』270‐271頁)

 

 そういえば、広島の平和記念公園原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と記されています。この碑文が、原爆を落とした過ちが日本人にあるようにしか読めないように記されているのは、WGIPの影響なのでしょうか。

 

WGIPの影響を受けた人たち

 WGIPは学校教育だけでなく、ラジオや新聞で伝えられました。しかし、当初はそれほど大きな効果を上げることはありませんでした。それはGHQが直接、間接に関与したことであり、占領政策の一環であることが明らかだったからです。しかし、このプログラムに影響された日本人が、自らの意見として発信するようになると、その効果は無視できないものになって行きます。

 江藤は次のように続けます。

 

 「もしこの架空の対立の図式を、現実と錯覚し、あるいは何らかの理由で錯覚したふりをする日本人が出現すれば、CI&Eの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」は、一応所期の目的を達成したといってよい。つまり、そのとき、日本における伝統的秩序破壊のための、永久革命の図式が成立する。以後日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、二度と再び米国に向けられることなく、もっぱら「軍国主義者」と旧秩序の破壊に向けられるにちがいないから」(『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』271頁)

 

 「軍国主義者」と「国民」との対立という図式を現実と錯覚、あるいは錯覚したふりをする日本人は、実際に出現しました。その代表は日教組と、朝日新聞を代表とするマスコミでした。

 

日教組反戦・反国家教育

 日教組は、1951年に開いた中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」というスローガンを採択し、文部省の方針に対立する運動を開始しました。教育の国家統制に反対する立場を取り、1950年以降国旗掲揚と国歌斉唱の強制に対して反対しています。1996年頃から教育現場において、文部省の通達によって日の丸の掲揚と君が代の斉唱の指導が強化されると、日教組憲法が保障する思想、良心の自由に反するとして、日の丸の掲揚と君が代の斉唱は行わないと主張しました。

 1965年から始まる「歴史教科書問題」をめぐる裁判、これは高校日本史教科書の執筆者である家永三郎が、文部省による教科書検定は、憲法の禁じる検閲にあたり違憲であるとして国を相手に提訴した裁判ですが、この家永裁判を日教組は支援しました。

 以上のように日教組は、軍国主義者や旧秩序に対して反対しただけでなく、政府や文部省(今の文科省)にも対立する姿勢を取り続けています。国が正式に認めた教育機関で働く教員が、国旗掲揚と国歌斉唱に反対している教育現場は、世界中で日本だけでしょう。このような特異な教育現場の出現こそ、WGIPの影響なくしては考えられないと思われます。

 

軍国主義と旧秩序を批判し続けるマスコミ

 軍国主義と旧秩序を非難し続けることに関しては、マスコミも負けていません。朝日新聞はその代表的存在でした。

 先のブログでも指摘したように、「北朝鮮は地上の楽園」とする朝鮮総連の喧伝に乗り、在日朝鮮人とその家族を北朝鮮に帰国させる「北朝鮮帰国事業」に賛同する記事を発表したことや、中国側が用意した"証人"の声を聞いただけで確認のための取材もせず、毎回残虐で非人道的な日本軍とその行為だけが語られていった本多勝一の「中国の旅」、高校の歴史教科書の中国華北地域への「侵略」を「進出」に書き換えさせたと誤報した教科書問題、そして、吉田清治の嘘から始まり、その後も誤報で積み重ねられた従軍慰安婦問題など、軍国主義者や旧秩序を批判する記事が朝日新聞には掲載されました。軍国主義と旧秩序を非難し、日本における伝統的秩序を破壊するというWGIPの目的を、朝日新聞は見事に果たしていると言えるでしょう。

 しかし、朝日新聞を代表とするマスコミは、「軍国主義者」と「国民」という対立の図式を、現実と錯覚していたのではなく、「何らかの理由で錯覚したふり」をしていた可能性があります。なぜなら朝日新聞は、これらの一連の記事をとおして、北朝鮮や中国という共産主義の国家を礼賛し、間接的に共産主義と対立しているアメリカを攻撃しているからです。日本人が大戦のために傾注した夥しいエネルギーは、直接米国に向けられることはなくなりましたが、こうしてアメリカを間接的に攻撃したり、アメリカと軍事同盟を結ぶ日本政府を攻撃することに向けられています。これは、実にしたたかな戦略だと言えるでしょう。

 

誇りを失った歴史が生む出すもの

 江藤は、WGIPがその後の日本に与え続ける影響について、大いなる危惧を抱いています。

 

 「いったんこの検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と教育体制に定着され、維持されるようになれば、CCD(民間検閲支隊)が消滅し、占領が終了したのちになっても、日本人のアイデンティティーと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊をつづけ、また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る」(『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』345頁)

 

 江藤が指摘しているように、「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊をつづけ」ていると考えられます。

 冒頭であげた日本の高校生の自己肯定感の低さは、ここに端を発しているのではないでしょうか。「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼」は、個人が自己肯定感を育む基盤となります。つまり、「日本人のアイデンティティーと歴史への信頼」なくして、自己肯定感を高めることは困難なのです。(続く)

 

 

文献

1)江藤 淳:閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本.文藝春秋,東京,1994.