オウム真理教とは何だったのか(6)

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 修行中に起こった信者の死亡を隠蔽したオウム教団は、殺人をポアであると正当化しました。その後オウムは、本人ためのポアであると正当化しながら、麻原の意の向くままに殺人を繰り返しました。この殺人行為は次第にエスカレートして大規模にになり、ついに無差別テロにまで発展しました。

 今回のブログでは、こうして引き起こされた地下鉄サリン事件を、過去の無差別テロと比較して検討したいと思います。

  

世界に類例のないテロ

 オウム教団の犯罪はますます凶悪化して行きました。警視庁が捜査を進めるなかで、強制捜査のXデーが迫っていました。これに危機感を抱いた麻原は、幹部と対応を画策し、社会的混乱をもたらして捜査の追及の手を逃れようとしました。その手段が、平日の出勤のピーク時に、地下鉄の車内や駅構内にサリンを撒くという世界に類例のないテロリズムでした。

 1995年3月20日月曜日午前8時過ぎ、地下鉄日比谷線丸ノ内線・千代田線の都心に向かう各列車に教団幹部が実行犯として乗り込み、サリンを入れたビニール袋を傘で突くなどして散布しました。通勤客や駅員らが呼吸困難や視覚異常などを訴え、6人が死亡して10人あまりが重体となり、数千人が病院で手当てを受けました。死者は最終的に 13人に上り、重軽症者も 6000人を超えました。

 警視庁はこの有毒ガスを猛毒の神経ガスであるサリンと断定し、陸上自衛隊は除染のため化学防護部隊を出動させました。3月22日に警察は、事件をオウム教団の組織的犯行とみて山梨県上九一色村の教団施設などを強制捜査します。そして、多量の化学薬品を押収したうえで、5月16日に麻原彰晃を逮捕しました。

 

国家の転覆を謀ったオウム

 この事件は、強制捜査を逃れるためにオウム教団が起こしたと捉えられていますが、捜査のかく乱が主な目的ではないでしょう。オウムが本当に目指していたものは、国家の転覆であり、革命によってオウムの王国を創ることであったと思われます。

 ここで、江川詔子がまとめたオウム真理教の主張をもう一度見直してみましょう。

 

 「(4)真の宗教であるオウムは、アメリカ及び日本の国家権力にとって脅威である。

 オウム真理教は物質的豊かさよりも、精神的豊かさを求めることに価値を置く。このオウムの教義は、煩悩を肯定し、むしろ人々の煩悩をかき立てることによって成り立っている現体制にとってはとうてい受け入れられるものではない。オウムの教えが浸透するほど、個々の人間は幸福になるものの、国としては困る。このままオウムが急速に拡大していけば、将来現体制にとって好ましくない勢力になる。危険な存在だと判断した権力側が、オウム真理教を弾圧している」(『「オウム真理教」追跡2200日』1)296−297頁)

 

 麻原は、オウム真理教アメリカおよび日本の国家権力にとって脅威になっており、国家が危険な存在だと判断してオウム真理教を弾圧しようとしていると主張しています。国家がオウム教団を危険な存在だと判断しているのはその通りですが、それは麻原が主張するようにオウムの教義が現体制の思想より優れているからではなく、オウムが自分たちに敵対すると判断した人々を次々と殺害したからです。しかし、麻原およびオウム教団は、自らこそ正義であり、アメリカおよびアメリカの傀儡になっている日本政府は悪以外の何者でもないと捉えていました。

 こうした思想を背景に、地下鉄サリン事件は起こされました。サリンが使われたのが首都東京の、しかも国会や省庁が近接する地下鉄の車内や駅構内であったことが、この事件の本質を現しています。オウムは、日本の国家権力の中枢に攻撃を仕掛けたのです。この攻撃によって、国家の転覆を図ろうとしたと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

 

なぜテロは成功しなかったのか

 しかし、オウムの仕かけた国家の転覆をはかったテロは成功しませんでした。準備や計画の不備がその理由として挙げられますが、その一番大きな要因は、オウム真理教が内的自己であり、現実検討能力が乏しかったことにあると思われます。

 江川紹子は、次のように指摘しています。

 

 オウム真理教という団体は、(中略)極めて特異な、というより異常で凶暴な集団であると同時に、とても幼稚でいいかげんな組織でもある。綿密な計画を立てて、それに従って行動を起こしているように見えて、その実、計画は穴だらけ、おまけに行き当たりばったりの思いつきの部分も多い。
 しかし、素人のくせに自信だけは過剰で、あまりに行動が大胆なため、逆に意図や展開が読みにくい。常識や想像力があまりに乏しく、あまりに自分本位であるがために、とてつもなく悲惨な結果を行動もほとんど躊躇も頓着もなくやってのけてしまう」(『「オウム真理教」追跡2200日』14‐15頁) 

 

 江川の指摘は、内的自己の特徴をよく現わしています。もしオウム教団に、現実検討能力の卓越した、外的自己を代表するような人物が一人でも存在していたら、オウムの無差別テロはさらに恐ろしい結果を招いていたかもしれません。

 

 

江戸でテロを起こした西郷隆盛

 ところで、麻原彰晃は国家の転覆を謀るために東京で無差別テロを起こしたのですが、過去にも同様の事件を起こした人物がいます。誰あろうそれは、現在NHKで放映されている大河ドラマ西郷どん』の主人公である西郷隆盛です。国民的英雄である西郷隆盛と、カルト教団の教祖である麻原彰晃を同列に語るなど言語道断であると西郷ファンから叱られそうですが、実は二人には共通点があるのです。まず、歴史的事実から見ていくことにしましょう。

 幕府を武力で倒そうとしていた西郷らは、徳川慶喜大政奉還を行ったことで武力倒幕のための大儀を失います。そこで西郷は、戦いを起こすための口実を作るために、赤報隊という部隊を組織し、江戸で狼藉の限りを尽くさせます。

 作家の原田伊織は、『大西郷という虚像』2)のなかで、その様を次のように描いています。

 

 「西郷は、(中略)何を命じたのか。江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣佐幕派諸藩を挑発することである。挑発といえばまだ聞こえはいいが、あからさまにいえば、放火・略奪・強姦・強殺である。倫理観の強かった江戸社会においては、もっとも罪の重かった蛮行を繰り返すことであった。今の言葉でいえば、これもテロとしかいい様がないのだ。

 なにせ毎夜のように、鉄砲まで持った無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家へ押し入るのである。日本橋の公家御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして、必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む。江戸の市民はこのテロ集団を『薩摩御用盗』と呼んで恐れた。夜の江戸市中からは人が消えたという」(『大西郷という虚像』177-178頁)

 

 大河ドラマではさすがに赤報隊の活動は描かれませんでしたが、西郷が命じて行わせた放火、略奪、強姦、強殺は、幕臣佐幕派諸藩に対してだけ行われたのではありません。商家の家人や近隣の市民が惨殺されていることからもわかるように、赤報隊の一連の行為は、明らかに無差別テロだったのです。

 

幕府の転覆を謀った西郷

 なぜ西郷は、江戸で無差別テロを起こさせたのでしょうか。それは西郷が、幕府の転覆を謀ろうとしたからです。幕府の中枢である江戸で狼藉の限りを尽くさせることによって、幕府の無力を世に知らしめる狙いがあったのでしょう。幕府もこの暴挙を見過ごすわけにはいかず、西郷らを逆賊として討とうとします。今から冷静になってみれば、義がどちらにあるかは明らかしょう。しかし、歴史はご存知のように、これを機に勃発した鳥羽伏見の戦いを皮切りに、西郷らの軍が倒幕を果たします。誤解を恐れずに言えば、テロリストたちが勝利を収めたわけです。

 彼らが倒幕に成功したのは、大久保利通岩倉具視といったリアリストたち、言い方を変えれば外的自己を代表する人物も戦いに参加していたことが挙げられます。情熱と綿密な計画、この両者がうまく噛み合って、奇蹟的な革命は起こされました。

 ではなぜ西郷らは、今日まで英雄として語り継がれているのでしょうか。それは、新政府側が自分たちの都合のいいように歴史を書き換えたからだと原田伊織は指摘しています。字義のとおり、まさに「勝てば官軍」だったわけです。西郷が英雄になった理由は後にまた検討しますが、西郷が江戸で 無差別テロを起こさせたことは、記憶しておくべき史実だと言えるでしょう。

 

西郷も麻原も内的自己を代表している

 日本の中枢で無差別テロを起こさせた二人ですが、ほかにも共通する特徴があります。それは、西郷も麻原も、内的自己を代表する人物だということです。麻原およびオウム真理教が反米の教義をもつ内的自己であったことはこれまで述べてきましたので、ここでは、西郷が内的自己であったことを検証してみましょう。

 ペリー・ショックによって惹き起こされた外的自己と内的自己への日本国民の分裂は、まず開国論(外的自己)と尊王攘夷論(内的自己)との対立になって現れたと岸田秀は指摘しています。西郷はもちろん尊王攘夷派でした。西欧列強の言いなりになっている幕府では、外国勢力から日本を守れないというのが倒幕の根拠になっていました。これは麻原が、アメリカの傀儡になっている日本政府を転覆させなければならないと主張したことと共通します。

 ところが倒幕を果たした明治政府は、一転して開国論派に転じます。開国して欧米文化を取り入れなければ、緊迫した世界情勢の中で生き残れないのが明らかだったからです。そのため西郷は、開国論派、つまり外的自己を代表する大久保利通らと袂を分かつことになります。これは明治六年政変と呼ばれ、一般的には、朝鮮への対応をめぐる意見の相違から西郷が下野したと言われています。征韓論を主張した西郷が破れ、政権から去ったというのです。

 しかしその実態は、岩倉使節団で欧米列強を見てきた岩倉具視大久保利通木戸孝允伊藤博文らと、日本に残って政治を行っていた西郷隆盛板垣退助副島種臣江藤新平らの対立が根底にあり、まさに西欧追従派(外的自己)と復古・尊王派(内的自己)の対立であったと言えるでしょう。

 

内的自己に殉じた西郷

 外的自己が勝利した明治政府は、極端な西欧化を推し進めます。これにもっとも不満を抱いたのが、旧士族たちでした。

 明治維新は、改革を行った武家自身の手によって武家の存在を抹殺するという前代未聞の大改革でした。この大改革がスムーズに断行されたのは、王政復古尊王攘夷というスローガンに士族たちが共鳴していたからです。ところが明治政府は、維新がなった途端に手のひらを返したように西欧化を推し進めます。つまり、内的自己だった仲間が、急に外的自己に寝返ってしまったようなものです。自分たちが身分を失ってまで達成した改革は何だったのだと、旧士族たちが不満を抱くのも当然でした。

 内的自己の不満は、士族の反乱として現れます。佐賀の乱(これは江藤新平が起こしました)、神風連の乱秋月の乱萩の乱と続き、いよいよ西南の役が起こります。明治10年月に勃発したこの内的自己の反乱に、内的自己を代表する西郷が担がれたのは当然の帰結でした。西南の役で破れた西郷は、最後に自決を果たします。西郷の自決は、まさに内的自己に殉じた結果だったのです。(続く)

 

 

文献

1)江川紹子:「オウム真理教」追跡2200日.文藝春秋,東京,1995.

2)原田伊織:大西郷という虚像.悟空出版,東京,2016.